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梅雨の合間の近江・美濃・・・⑥織部の里公園

 私の旅は原則2泊ですが、今回は3泊して、帰りに岐阜県に足を延ばしました。多治見駅2分のホテルに荷物を預けて、JRで一駅先の土岐市まで行き、バスに乗ろうと思ったのですが、観光案内所の女性は近いから歩けの一点張り。渋々「織部の里公園」まで歩きました。悲しいことに、我がぼろカメラが不具合で、撮ったはずの写真がありません。ショック! 落胆! ブログを書く気も失せましたが、記憶のために公的機関が公開されている資料を頼りにまとめておきます。

 最初の訪問先は、これまであまりご縁のなかった窯跡を中心にした公園です。土岐市駅から北に向かって10分ほど歩き、国道19号線の岩畑交差点を渡ると、数分で美濃陶磁歴史館前に出ます。ここはあとで見学することにして、その先の細い山道をさらに数分歩くと、急に視界が開けて、公園に着きました。

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 織部の里公園は、昭和5年(1930)に荒川豊蔵氏による牟田洞窯跡の発見がきっかけになって、美濃地域の各地で調査が行われ、昭和6年(1931)に多治見工業学校(当時)が岐阜県土岐市泉町久尻に所在する古窯跡群を調査した結果がいまにつながっています。

 窯跡は、元屋敷陶器窯跡と元屋敷陶器窯跡の操業以前の大窯(元屋敷東1号~3号窯)に大別されます。

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 元屋敷東1号窯は、全長は不明ですが、最大幅3.9メートルです。元屋敷では16世紀後半に、この窯が最初に築かれ、天目茶碗、灰釉皿、すり鉢などが生産されました。現在では当時の姿を完全復元しています。

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 元屋敷東1号窯の次に築かれた元屋敷東2号窯は、全長7.5メートル、幅3.9メートルで、この窯で新しい意匠の瀬戸黒、黄瀬戸、灰志野が登場しました。のちに取り壊され、床面は元屋敷東3号窯の作業場として使われています。現在は、内部の構造がわかるように復元されています。

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 残存長5.8メートル,幅2.9メートルの元屋敷東3号窯では志野の量産を行い、沓茶碗と呼ばれる歪みなどの変化がつけられた茶碗が誕生します。志野は、多器種にわたり焼成されますが、生産された志野の中には、のちの織部に共通する意匠が見られます。この窯は発掘調査された姿を型どりして露出展示しています。

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  元屋敷窯跡は、全長約24.7メートル、幅2.2メートルで、焚口、燃焼室(胴木間)、焼成室14房から構成されています。焼成室が地上に築かれ、階段状に連なるこの窯の構造は「連房式登窯」と呼ばれ、九州の唐津から導入されたと考えられています。黒織部、青織部、志野織部などの織部製品が生産されていました。この窯は上屋で保護され、両脇の階段から間近に見学できます。

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 丘陵の裾には、5月下旬に咲くあやめ園と6月上旬に咲く菖蒲園が開かれ、土岐市は観光客を招致したいようですが、お気の毒にも誰にも会いませんでした。

 先ほど通り過ぎた美濃陶磁歴史館に行きましたが、ここも貸切です。元屋敷陶器窯出土品を中心に、美濃桃山陶を展示しています。「やきものの型」という企画展をゆっくり拝見できて楽しかったのですが、珍しく撮影可なのに、何も写っていなかったのは、痛恨の極みでした。

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 元屋敷窯出土の織部と志野。重要文化財だらけでした。

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 このときは写真が失敗とは思わなかったのですが、絵葉書買ってきて正解でした。

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 いきなり古代史です。白洲正子氏は荒川豊蔵氏の案内で永保寺を訪ねたのち、可児の身隠山古墳のあたりを歩いた、身隠山古墳は景行天皇のころ美濃に君臨した八坂入彦の墓だと伝えられていると『かくれ里』に書いておられますが、歴史館の裏手に八坂入彦の娘の弟媛の墓だと伝えられている古墳があると知って、好奇心から足を延ばしてみました。

 『日本書紀』によれば、景行天皇は八坂入彦の娘の弟媛を妃に迎えたいと望みますが、弟媛は頑なに拒み、姉の八坂入媛を推薦した、八坂入媛は、のちに皇后となり成務天皇を生んだということになっています。

 乙塚古墳は直径27.3m、高さ6.6mの円墳で、東濃にある500を超える古墳の中で最も立派な石室を持つ古墳として知られています。大型の花崗岩の切石を積み上げて長さ12.3mの石室をつくり、遺体を納めた玄室は、長さ5.2m、幅2.6m、高さ2.7mです。土岐市埋蔵文化財センターによる調査では、東濃では極めて少ない方墳の可能性があるといわれていますが、7世紀前半から中葉という年代観は、『日本書紀』の記述とは合いません。ヤマトタケルの父として名高い景行天皇は実在を疑う説もありますし、仮に実在したとしても4世紀前半に比定されますから、史実ではないと思います。

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 乙塚古墳の西北西約50メートルに段尻巻古墳があります。直径約20メートル、高さ約4メートルで、削平のため 墳形がやや損なわれています。規模から乙塚古墳の陪塚ではないかと思いましたが、石室の構造からこちらの方が先に築造されたと考えられるという解説でした。7世紀前半というと、聖徳太子や蘇我氏、さらにいわゆる「大化の改新」の時代。美濃の豪族はどういう人だったのでしょうね。

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  帰りは坂道を下ればいいだけですから簡単です。通りすがりのお店で「ひつまぶし」を注文して、カメラをチェックしたら、メモリカードがずれていて、全滅が判明。この日の写真は「心斎橋」というお店だけです。熱田神宮のそばの老舗と比べるのは可哀そうです。

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 多治見のホテルで荷物を受け取って、帰途に就きました。多治見の街並みなどは見られなかったので、再訪もありです。帰って20日経ちました。夏の暑さを逆手にとって、多治見のマスコットキャラクターは「うながっぱ」だそうですが、関連グッズはご遠慮して、永保寺ゆかりの「涼味水月麩」と土岐市名物「竹皮羊羹」を買ってきました。 

 この猛暑を生き延びたら、どこに行こうか、あれやこれやとプランを練るのも楽しい作業です。









































梅雨の合間の近江・美濃・・・⑤永保寺

 三井寺拝観後、ホテルに戻って一休み。初めに書いたように、このホテルは12時までお部屋が使えます。大津→米原→名古屋→多治見と小刻みに乗り継いで、14時過ぎのバスで虎渓山永保寺を訪ねました。ここも『かくれ里』で初めて知ったお寺です。昨年、足利市の鑁阿寺や山梨市の清白寺、東村山市の正福寺の国宝の唐様建築を拝観しましたので、ここも是非と思っていました。有名な円覚寺舎利殿は、行きはしましたが、普段はそばには寄れません。混雑を覚悟で11月2日に行くしかないのですが・・・。

 またしても極めて本数の少ない市民バスに乗り、虎渓山バス停で降りると、目の前に「虎渓山永保寺」と刻んだ石碑が立っていますが、お寺は中央本線の線路を渡り、左側の森に向かって5分ほど歩きます。

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 踏切を渡って直進すると案内板がありますが、そこからかなり急な坂道を下ります。

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 中国の虎渓に景色が似ていることから、虎渓山という山号を持つ永保寺は、作庭の名手として知られる夢窓疎石によって開かれた臨済宗南禅寺派の寺院です。境内に広がる夢窓疎石作の庭園は、切り立った岸壁が露出する梵音巌と、その下に建つ観音堂を中心として、手前に臥竜池を配すなど、夢窓疎石の特徴を残す名園として名勝に指定されています。夢窓疎石が作った庭園で、作庭当時の建造物を残す庭園は他に例がありません。季節外れの境内は、防火設備のメンテナンスをする作業員の方以外は、訪ねる人はわずかです。拝観料は不要なかわりに、足を休めるベンチなどは皆無で、「登るな!」「入るな!」という怖い張り紙が多く、観光寺院ではなく、若い雲水さんが魂の成就を目指す修行の場だという主張が色濃く感じられました。

 

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 観音堂は、桁行三間に梁間三間、一重裳階の付いた、檜皮葺の入母屋造建築です。夢窓疎石が永保寺を開いた一年後の正和3年(1314)に建てられたとされ、一見すると禅宗様仏殿のように見えますが、随所に和様の技法が取り入れられた、特異な折衷様の建築となっています。年に一度、3月15日に開扉されるようですが、普段はお堂に入るどころかそばにも寄れません。

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 池泉回遊式庭園の臥竜池に架かる無際橋が美しいたたずまいを見せています。

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 庭園の一角に「勅使門跡」と記した石碑があります。

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 奥まで行くと、「光明天皇勅願所」という石碑もあります。光明天皇は、4月に訪ねた常照皇寺にゆかりの深い光厳天皇の弟君で、北朝では二代目の天皇です。天皇や上皇が国家の安寧を祈願した社寺を勅願所と呼ぶことがあり、寺領を与えられるなど経済的恩恵があったようです。

 境内の最奥に、観音堂とともに国宝に指定された開山堂が建っています。こちらも屋根の反りが好みのお堂ですが、南京錠がかかって、近づけません。

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  開創である夢窓国師が死去した翌年の1352年は、開山の元翁本元が没した20年後でした。その年、永保寺では、境内の最も奥まった場所であり、かつてはその付近に夢窓疎石や元翁本元が庵を結んだと言われる僊壺洞に、僊壺堂が建立されました。これが現在の開山堂です。

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開山堂の脇を流れる清流。

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 境内に沿って土岐川が流れています。

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 熊谷市と並び称される酷暑の町・多治見市ですが、さわやかな風が吹き抜ける境内でした。

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 永保寺に接して四カ所の寺院があります。続芳院も塔頭寺院として永保寺の護持に当たってきたそうです。

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 なんだか意味不明の庭園がありました。

 市民バスで多治見駅前に戻り、けっしてお勧めできないビジネスホテルに泊まりました。

梅雨の合間の近江・美濃・・・④三井寺

  関西の暮らしが長かったわりには、行っていない名所がたくさんあります。aliceさんのブログを拝見して、またしても真似をしたくなりましたが、周到な用意をした者としない者の格差を露呈するはめになりました。まあ、石山寺よりは楽ですから、また機会があればと負け惜しみを言っておきます。ただ、JR大津駅前から門前までのバスは非常に少ないので、要注意です。午前中は行きは7時59分発、帰りは10時56分発しかありません。

 三井寺のHPを拝見して、感動したのは、以下の「おしらせ」です。いま思い込みの激しい為政者によって、若い人達の将来が危惧されるなかで、宗教界の方々はどう考えていらっしゃるのかと思っていましたが、平和を希求される方々もおられるのだと勇気づけられました。

http://www.shiga-miidera.or.jp/img/index/20150623.pdf

 日曜日だというのに、こちらも閑散としています。

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  大門(仁王門)は、室町時代の建造で、重要文化財に指定されています。記録によると、天台宗の古刹常楽寺の門で、秀吉によって伏見に移され、1601年に家康によって現在地に建てられたとされています。

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 受付でいただいた参拝順路に従って、一番から十一番までお参りしました。

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 大門(仁王門)を入ってすぐ右手に南面して建つ比較的簡素な造りのお堂が室町時代に建立されたと思われる重要文化財の食堂(釈迦堂)です。 中世寺院の食堂の様式を伝えていますが、本尊に清凉寺式釈迦如来をお祀りしているので、釈迦堂と呼ばれています。

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 金(本)堂がちらりと見えてきました。

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 側面から見ても品格があります。

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現在の建物は北政所によって慶長4年(1599)に再建された桃山時代を代表する建築です。誰もいなくて、一人で諸仏を拝んできました。

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 金堂と軒を接するように閼伽井屋が建っています。天智・天武・持統の三天皇が産湯に用いたという泉が涌いています。覆屋は慶長5年(1600)の建立で、正面上部に左甚五郎作の龍の彫刻があります。

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  日本最古の庭園ではないかと言われる閼伽井石庭。

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  鐘楼は慶長7年(1602)の再建です。梵鐘は近江八景「三井の晩鐘」で知られています。

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 霊鐘堂に鎮座しておられるのは奈良時代の梵鐘です。俵藤太秀郷が三上山の百足退治のお礼に竜宮から持ち帰ったという伝承があります。講談社の絵本で育った私の世代でないと、ピンとこないでしょうね。「弁慶の引摺り鐘}」伝承のほうが有名かもしれません。

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 一切経蔵は室町初期の建築です。慶長7年(1602)に毛利輝元が山口の国清寺から移築して寄進しました。高麗版一切経を納める回転式の八角輪蔵があります。

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 唐院は開祖円珍の廟所として最も神聖な場所で、奥の大御堂の前に三重塔・灌頂堂・春日護摩堂が並んでいます。

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 清々しい朝の境内を散策しながら、三井寺文化財収蔵庫に向かいました。

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 2014年10月に、宗祖・智証大師生誕1200年慶讃記念事業として開館しました。          桃山絵画の最高傑作とされる国宝・勧学院客殿の狩野光信筆の襖絵39面をはじめ仏像、仏画、仏具など重要文化財13件53点(平成27年11月現在)を収蔵、展示しています。貸し切り状態で、ゆっくり拝見しました。

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 十一面観音立像
 

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 勧学院は3名以上で事前に申し込まないと入れません。aliceさんのブログには美しい写真があります。襖絵は収蔵庫に収められたので、いまは精巧なレプリカになっていますが、庭園も素晴らしいそうです。レプリカでもいいから、入りたかったと未練が残ります。

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バスの発車まで少し時間がありましたので、江戸時代の僧坊を改装して2015年にオープンした「ながら茶房 本寿院」でお茶をいただきました。

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 これで三井寺ともお別れです。紅葉は12月の上旬まで美しいから、また来てくださいとお寺の方に言われました。

 

 

 

梅雨の合間の近江・美濃・・・③石山寺

  JR石山駅のバスターミナルから今度は石山寺に向かいます。行かれた方のブログに出ていた「石山団地」行のバスに乗ったら、石山寺はいっこうに現れず、終点に着いてしまいました。運転手さんに「石山寺には行かないんですか」と尋ねたら、「折り返して帰りに寄るから、ちょっと待ってて。料金はいいよ」。どうも行きと帰りで経路が違うようです。ほどなくやってきたバスで石山寺山門前に着きました。

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  東大門(重文)の前は閑散としています。

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 参道に沿って、支院が並んでいますが、いずれも拝観できません。

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  石山の名が出た奇岩は天然記念物の硅灰岩です。


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 石段を上がって、本堂(国宝)へ。

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 清水寺と同じ舞台造りです。ご本尊の如意輪観音像は33年に一度のご開帳が2016年でしたので、絶対に無理です。平成14年に御本尊の胎内から四躯の金銅造仏像が発見されました。飛鳥・白鳳・天平の可愛らしい仏像です。

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 石山寺は747年に聖武天皇の命で東大寺別当の良弁僧正により聖徳太子が持っていた如意輪観音像を祀ったのが始まりとされています。正倉院文書によると、国家事業として石山寺の造営が進められ、聖徳太子の観音像は新しい本尊「塑像・如意輪観音菩薩」に埋め込む形になりました。この如意輪観音像は5m近い丈六仏だったそうで、脇侍の金剛蔵王像と執金剛神像とともに762年に完成します。1078年に本堂が火災により焼失し、本尊と脇侍も大きく損傷しましたが、1096年に再建されたときに現存の本尊が新しく作られました。

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 本堂内の「源氏の間」。紫式部がここで源氏物語を書いたという伝承があります。

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 経蔵は校倉造り。

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 美しい姿の塔は1194年に建立された日本最古の多宝塔です。内部には快慶作の大日如来像が安置されていますが、暗くて判然としません。

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 源頼朝の供養塔だそうです。

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 梅林の中を這い上がっていきます。

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 眼下に瀬田川が見えて、汗がすっと引く感じ。

 豊浄殿に着きました。受付の方に「坂道、大変だったでしょう。ここが終点ですよ」とねぎらわれて、6月30日までの「源氏物語と手紙」展を拝見。

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  手紙は基本的にはメッセージを人に伝える方法の一つとして生み出されたものですが、その実用的な用途を越えて大きな働きをすることがあります。『源氏物語』五十四帖には271通もの手紙が登場するそうですが、この中で手紙は登場人物の心情を写し出すだけでなく、時には物語を大きく転換する役割も担っています。

 この展覧会では、『源氏物語』に登場する手紙のさまざまなありようを石山寺所蔵の画帖や屏風を通じて紹介されています。最古の仮名書状として知られる「虚空蔵菩薩念誦次第紙背消息」(重要文化財)や、「時鳥の願文」として有名な「伝法記」紙背書状(重要文化財)など、石山寺が所蔵する手紙の歴史史料として広く知られる所蔵品もあわせて展示されていて、貴重な機会を得ることができました。

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「源氏物語図色紙貼交屏風」(江戸時代)

 帰りは別の道を通って、月見亭や芭蕉庵、鐘楼、御影堂などを拝観しましたが、けっこうな道のりで、年齢制限大ありです。




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 月見亭は近江八景「石山の秋月」を眺めた場所だと言われています。明治~昭和の各天皇や皇室の方々も景観を眺められていたそうです。1156年~58年の創建で、何度も修繕が行われ、現在の建物は1687年の再建です。

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 鐘楼まで下りてきました。梵鐘は鎌倉時代後期のものとされています。

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 真言宗の開祖弘法大師と第三代座主淳祐内供の遺影を安置するお堂です。単層の檜皮葺で、内部は室町時代初期を降らない様式となっています。現在の外観は慶長期に整備されました。

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 やっと平らなところに下りて来て、バスでJR石山駅に戻り、大津のホテルにたどり着きました。昼食をいただく機会を逸した、よくあるパターンです。







梅雨の合間の近江・美濃・・・②MIHO MUSEUM

  2泊した大津のホテルは、JRの駅に直結なのと、チェックアウトが正午なのが取柄です。着いたとき、明日の朝食は混雑が予想されると言われて、さては団体様と覚悟しましたが、なんの問題もありませんでした。エレベーターでご一緒した上海から来たという方々もとてもフレンドリーでしたし,、海外を旅して、現地の方に親切にしていただいた身としては、できるだけ楽しんでいただきたいと思います。

 MIHO MUSEUMは、明日からしばらく休館するので、少し早めにJR石山まで行って、バスを待ちました。これが大正解。ほどなく長蛇の列ができ、満員で発車。唐橋を渡り、瀬田川沿いをしばらく走ったあと、カーブの多い山道に入りますから、50分近く立ちっぱなしは耐えられません。

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 レセプション棟でチケットを買って、美術館まで電気自動車に乗りました。

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 特別展は「和ガラスの美を求めてー瓶泥舎コレクション―」。愛媛県松山市にある美術館から逸品が来ています。一部は明治のものもありますが、ほとんどが江戸時代に作られたものです。記憶にとどめたいので、各章から代表作をUPしました。

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 第1章 江戸の暮らしにタイムスリップ

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 第二章 日本好みのシンプルと装飾

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 後ろの景色は絵なのですが、手の込んだ涼し気な屏風でした。

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 第3章 和ガラスの色

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 第4章 ガラスの花園ー吹きガラスの食器・酒器Kiiro

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 第5章 和ガラス意匠さまざま

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 第6章 清涼なるガラスー切子の妙味

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 薩摩切子銅紅被せ十字紋碗 丸に十の字の薩摩藩の紋が施されています。

 第7章 ハレの日のCoolな職人技

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 第8章 受け継がれる日本の美

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 ガラスビーズ飾り屏風 四曲一隻 長谷川栄太郎作(明治28年頃)

 

 日本にガラスが伝わったのは、弥生時代で、すでに炉の跡も見つかっています。当時は勾玉のような装飾品が多かったようです。正倉院の御物にも見事な器がありますが、これは日本製ではないかもしれません。平安時代以降、衰えを見せたガラス製品は戦国時代にやってきたキリスト教の宣教師が献上品として用いたことが大きくかかわって、珍重されるようになりました。鎖国が行われると、長崎を通じて輸入されていましたが、長崎でガラスが作られると、大坂や江戸に広がっていきました。

 そのあと開館20周年記念特別企画の「古代オリエント美術の愉しみ」を拝見し、床に施されたディオニュソス・モザイクもじっくり見せていただきました。

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 中央のディオニュソスがナクソス島でアリアドネを発見する場面を描いた部分と、周辺の幾何学文様、ギリシャ・ローマの神々や神話的世界を描いた部分とで構成されています。ディオニュソスの胸に表現された傷跡などは、のちに加えられたキリスト教への転向に伴う改竄ではないかと考えられています。 

 有名なディオニュソス・モザイクのあるケルンにはとうとう行けませんでしたので、時代もづ柄も違いますが、これで我慢しておきます。

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 この美術館は、宗教団体が母体になっていますが、宗教色は感じられませんでした。 

梅雨の合間の近江・美濃・・・①青蓮院&将軍塚

  2017年上半期最後の旅は、またしても近江が中心ですが、aliceさんのブログに触発されたのと、海北友松展が尾を引いて、まず京都の寺院を拝観する予定でした。私の旅のパターンは、平日主体ですが、土日祝しか運航されないバスに乗ろうと、6月17日(土)に出かけました.。これは長所と短所があります。ラッシュアワーを外しましたので、私鉄もJRも混雑に巻き込まれることなく新幹線に乗れたのは長所。ところが、京都駅前のコインロッカーにカートを預けて、市バスに乗ったら、河原町通りを中心に大渋滞。これは想定以上の短所でした。泣く泣く今日の最後の旅程の建仁寺は諦めて、青蓮院と将軍塚に絞りました。

 神宮前で下車して、平安神宮とは反対方向の粟田口にある青蓮院門跡に向かいます。粟田口は「京の七口」の中でも、東海道、東山道、北陸道の三道に通じ、江戸と京都を結ぶ交通の要衝として最も重要な出入り口でした。現在は白川小学校の門となっていて、その横に「粟田口」の石柱が残っています。

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 数分で山門の前に着きました。

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  青蓮院は門主が皇族か摂関家出身の天台宗の門跡寺院ですが、親鸞が9歳で得度したので、門前には「親鸞聖人得度聖地」と刻んだ大きな石碑が建っています。平安時代にさかのぼる由緒と格式を誇りながら、明治26年の火災で建物のほとんどを失いました。

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 拝観入口の手前右手に建つ長屋門は、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもので、明治26年の火災を免れました。

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 静かな参道でした。

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 拝観受付を済ませて、まず華頂殿を拝見。三十六歌仙の額絵と木村英輝氏が奉納した60面の襖絵が目をひきます。

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 縁側に腰かけて、相阿弥のお庭を眺めました。洋の東西を問わない、海外の観光客もいらっしゃって、ともに静かな時間を持てることを嬉しく思いました。雅な御殿のような雰囲気です。

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 渡り廊下を通ってひっそりとした宸殿に行きました。右近の橘と左近の桜が植えられています。宸殿は門跡寺院特有で、家康の孫の東福門院の御所を移築した建物は明治26年の火災で焼失したのち、復興されました。

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 小御所の近くの渡り廊下に面して、秀吉の寄進と言われる「一文字手水鉢」が置かれています。

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 四脚門も長屋門とともに明正天皇の中和門院の門を移築したもので、明治26年の火災を免れました。

 次の目的地は「青龍殿」「大舞台」「将軍塚」の三点セット。11月とGW以外は土日祝にバスが運行されています。お寺の方に「バス停はローソンの前」と教わって、待つことしばし、蹴上を過ぎるとぐんぐん坂を登ります。

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 平成26年に東山山頂に落成した将軍塚青龍殿は、国宝の青不動を安置していると聞いて、心が動いたのですが、残念ながら拝観できたのは、精巧なレプリカでした。ちゃんと時期を選んで行かないとだめですね。反省。

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 門は粟田口の青蓮院の門にそっくりです。青龍殿は、大正2年(1915年)に大正天皇即位を記念して「大日本武徳会京都支部武徳殿」として建立された木造総檜造御殿風平家建の巨大な武道場「平安道場」の維持費が嵩むことから、京都府が解体廃棄処分を決めていたところ、青蓮院の門主が文化財として保存し後世に伝えるべきと考えられ、4,年11か月を要して交渉し、移築再建が実現したものです。移築中の写真と完成予想図をお借りしました。

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 内部は撮影禁止なので、工事関係者の方のお写真です。空調機がたくさんあって、真夏は涼みにもってこいかも。いかにも武道場といった空間です。

 次は京都の町が一望できる大舞台。

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 青不動は残念でしたが、吉岡徳仁氏の「ガラスの茶室ー光庵」が拝見できました。傍らのベンチもガラスです。以下は吉岡氏のご挨拶です。

京都の将軍塚青龍殿にて開催されております「 ガラスの茶室 - 光庵 」の会期が2017年9月10日(日)までとなりました。

国内外から多くの反響をいただき、沢山の方々にご覧いただきましたことを、心より御礼を申し上げます。展示最終日まで残すところ3 ヶ月ではございますが、皆様のご来場を心よりお待ちしております。

「 ガラスの茶室 - 光庵 」は、2011 年に開催されました第54 回ヴェネツィア ビエンナーレ国際美術展 Glasstress 2011 にて、建築プロジェクトとして発表致しました。2015 年春、京都・フィレンツェの姉妹都市提携50 周年を記念し、京都の天台宗青蓮院門跡境内、将軍塚青龍殿の大舞台にて展示させていただきました。光庵は、自然と一体化することで時間を知覚化し、日本文化の根源を問う作品です。



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 清水の舞台の4,6倍の広さだそうです。

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 桓武天皇が都を定めたときに、この地に将軍の像に甲冑を着せて埋め、都の安泰を祈ったという伝説のある約20m四方の将軍塚です。白洲正子氏でなくても、これは古墳ではないかと思わざるをえませんが、調べてみると、やはり! 

 東山の山頂にある青蓮院門跡大日堂の敷地内に1~3号墳、敷地の南側の山林内に4~14号墳があり、3号墳は古くから将軍塚と呼ばれていますが、もともとは径40mの中期の大型円墳と思われるそうです。

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 展望台に続く庭園には、紅葉、桜、藤、シャクナゲ、サツキなどが植えられています。回遊式庭園に枯山水庭園を取り込んだもので、すがすがしい気分で散策しました。バス停は、みるみる長蛇の列になりましたから、早めに行って正解です。




近江と南山城・・・⑤京田辺市の三寺院

  3日目は、南山城の古寺をめぐることにしました。4月に堅田の祥瑞寺を訪ねたときから、一休寺を再訪したかったし、aliceというハンドルネームで素晴らしいブログを書いておられる方が紹介されている同じ京田辺市内の古寺に安置された十一面観音を拝観したいと思っていましたが、やっと願いがかないました。

 近鉄の新田辺駅に着いたのは、9時12分。9時31分発のバスは13分で一休寺に着くはずでしたが、降車ボタンを押したのに、停まってくれません。慌てて声をかけたときは、バス停からかなり離れていました。運転手さんが「すんません。気ぃつけます」と謝るので、怒るわけにもいきません。子どもたちが幼かったころ、近くに住んでいたので、軽自動車で来たことがありますが、一休宗純のお墓が宮内庁の管理になっていたこと以外は忘れ果てていました。

 このお寺のもとの名は妙勝寺でした。鎌倉時代に臨済宗の高僧大応国師が開きますが、その後、兵火で焼け失せ、復興できないままだったのを一休禅師が康正年間(1455~6)に再興し、「酬恩庵」と名付けます。晩年をここで過ごされたので、「一休寺」という通称で知られています。

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 総門をくぐると石畳の参道が続きます。 両脇には楓が植えられ、苔も艶やかです。 静かな境内を独りで歩く幸せな時間でした。

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 参道の奥に拝観受付があります。

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 一休禅師は文明13年(1481)にこのお寺で88歳で亡くなります。墓所は宮内庁が御陵墓として管理をされていて、門扉には菊の花の紋があります。一休禅師は後小松天皇と側室の伊予局との間に生まれたので、皇子だということなのでしょう。

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 隣接する茅葺の虎丘庵と虎丘庭園は3日前までに3名以上で予約が必要です。方丈から茅葺屋根が見えました。

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 由門の奥に庫裏・唐門・東司(トイレ)が並んでいます。

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 庫裏は僧侶の居住の場であり、食事を整える場でもあります。慶安3年(1650)に加賀城主前田利常が方丈・唐門・東司とともに再建しました。

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 重要文化財のトイレの左側に現代のトイレがあります。

  庫裏は方丈につながっています。どこも独占状態でした。

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 襖絵は狩野探幽の作品です。

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 一休禅師像の髭はご本人のものだそうです。★の付いた写真はお寺のHP所載です。

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 方丈庭園・南庭。南庭は宗純の墓所と虎丘庵を背景として、これらの建物の北部斜面を利用してサツキの刈込があり西部に大きい蘇鉄が植えられている典型的な江戸時代の禅苑庭園です。刈込から軒下までは白砂が敷き詰められ、簡素で落ち着いた雰囲気を醸しています。

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 方丈庭園・東庭。大小の石を立てたり横にしたりする様子は十六羅漢になぞらえたとされています。

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 方丈庭園・北庭。禅院枯山水としての蓬莱庭園です。東北隅に約2メートルの巨石を配し、いわゆる観音石として用いています。

 方丈の三方に配された庭園は、石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の合作で、江戸初期の庭園としては第一流であり、当時の庭園の白眉とされています。

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 本堂は永享年間(1429~40)に、足利幕府6代将軍義教の帰依で建立されました。大和・山城の唐様仏殿では最古です。残念ながら非公開でした。

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  開山堂は大正時代に改築をされたものですが、様式は完全に昔のものを残しています。 堂内に安置されている妙勝寺を創建した大応国師(南浦紹明)の木像は、一休禅師が荒廃した妙勝寺を再建した63歳の時につくられたものです。

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  宝物殿は本格的な土蔵建築で、一休禅師の頂相や墨跡が展示されています。木の扉を開けて、ゆっくりと見せていただきました。

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 いちばん奥の二十世紀の森には可愛らしい石仏が並んでいました。一休寺の裏山の開発による景観破壊の恐れがあったとき、保存に協力した地元の方が彫った自画像のような羅漢です。

 11時5分のバスで新田辺駅に戻り、三山木駅からバスで観音寺に行こうと思っていたのですが、バスが遅れて、電車の10分の乗り継ぎ時間に間に合いませんでした。これまでこういう憂き目に遭わなかったのが不思議なくらいですが、バスがダメならタクシーしかありません。運転手さんと相談して、大御堂観音寺で待っていただいて、最後の目的地の寿宝寺に向かうことにしました。寿宝寺は予約が必要なので、一休寺の方丈から電話でお願いしてあります。

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 庫裏のインターフォンを恐る恐る押すと、普段着姿の男性が現れ、「お堂の前でお待ちください」。ほどなく僧衣をまとった先ほどの男性が扉を開けて、案内してくださいました。先達のaliceさんが書いていらっしゃるとおり、ご説明は、立て板に水です。

 いただいた「略縁起」を要約しておきます。天武天皇の勅願により義淵僧正が創建。その後、聖武天皇の御願により良弁僧正が伽藍を増築。息長山普賢教法寺と称して、その盛んな姿を見た人は「筒城の大寺」と呼んだ。

 本尊は十一面観音立像で、古記録によると、天平16年(744)に安置された。 法相・三論・華厳の三宗を兼ね、七堂伽藍は壮麗を極めたが、何度も火災に遭い、永享9年(1437)の火事では、諸堂13、僧坊20余りを数えた建物のほとんどが失われ、大御堂だけが再建され現在に至っている。

 若住職のお話ですと、いまは大御堂観音寺と名乗っていますが、かつての寺名の普賢教法寺はこの地域の地名にゆかりを残しているそうです。バスで来るつもりで調べた最寄りのバス停の名もお寺の住所も普賢寺です。

 お厨子を開けてくださって、十一面さまとご対面。立ち位置も丁寧に指示してくださって、違う角度で拝観すると、いっそう味わい深いものがありました。7体しかない国宝指定の十一面観音像であることに誇りを持たれているようで、7体の一覧表を示して、天平仏と平安仏の違いなども詳しく説明してくださいました。

  国宝十一面観音菩薩の一覧(7件)

  1. 渡岸寺十一面観音菩薩立像(滋賀県) 9世紀中頃
  2. 六波羅蜜寺十一面観音菩薩立像(京都府) 951年
  3. 観音寺十一面観音菩薩立像(京都府) 8世紀後半
  4. 法華寺十一面観音菩薩立像(奈良県) 9世紀前半
  5. 聖林寺十一面観音菩薩立像(奈良県) 8世紀後半
  6. 室生寺十一面観音菩薩立像(奈良県) 9世紀末
  7. 道明寺十一面観音菩薩立像(大阪府) 9世紀前半

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 奈良時代中期の天平仏を代表する仏像です。木式木心乾漆造で、下地の上に漆を塗り金箔で表面を加工しています。 度重なる修理によって形を変えていた部分もありましたが、昭和期の高度な補修技術により現状の姿に整えられました。光背が鮮やかすぎると思いましたら、やはり後補されたものでした。天平物は木心乾漆造が多く、平安仏は一木造が多いと言われました。

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 一休寺に比べるのは気の毒ですが、心をこめたお庭があります。運転手さんがキッパリ言われたとおり、25分で拝観は終わり、近鉄三山木駅の反対側に位置する寿宝寺に向かいました。帰りは駅までは5分もかかりません。

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 寿宝寺は、慶雲元年(704)、天武天皇の時代に創建されたと伝えら、古くは「山本の大寺」と称された七堂伽藍の備わった大きな寺でしたが、度重なる木津川の氾濫によって転々とし、享保17年(1732)に現在の小高い地に移転しました。

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 本尊の十一面千手千眼観音は、境内の観音堂に安置されています。インターホンで来意を告げると、若い奥様が鍵を開けて、説明をしてくださいました。この立像は、平安時代後期に作られた一木造りです。実際に千本の手を持つ観音は、大阪河内の「藤井寺」と奈良の「唐招提寺」の観音とともに三大傑作とされています。本尊と向かって左手の降三世明王、右手の金剛夜叉明王は、ここから1㌔南西にある式内社の佐牙神社の神宮寺に祀られていたもので、神宮寺が明治初めに廃寺になった際、寿宝寺に移されたと伝えています。唇に施された朱の色は、いまも褪せておりません。千手のすべての掌に眼が描かれ、千手千眼観音を表しています。

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 奥様は、この観音さまは以前は藁葺屋根の本堂にお祀りされていて、その屋根から差し込む月明かりで拝むのが最も優しい姿だ、その雰囲気を感じてほしいと言われて、扉を閉め、天井の蛍光灯をつけてくださいました。すると、口元をきっと結んだ厳しいお顔が、優しいお顔に変わりました。そして、掌に墨で描かれた眼がよりくっきりと浮かんできます。いまでも寿宝寺の主な行事は、陽の落ちた夜に行われるそうです。その美しいお姿を拝むことができて、 満ち足りた気持ちで旅を終えることができました。予約が必要ですし、雨の日はお堂を開けることができないので、かなり難易度の高いお像です。

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 境内の一隅に「和同4年設定 山本驛旧跡」と記した石柱が立っていました。古代官道の要所だったようです。

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 駅前のコメダ珈琲で一休み。隣席の関西のご婦人と楽しくおしゃべりをして、実り多き旅も終わりです。

 いつも公共交通で動いていますが、今回の旅は、1日目は、ほかにアクセスの方法がなくタクシー、2日目は、お財布紛失騒ぎで3度のタクシー利用、3日目は、予定した電車とバスに乗れずタクシーと、滋賀県と京都府のタクシー業界振興に貢献してきました。 

 

近江と南山城・・・④葛川明王院

  堅田から江若バスで46分、叡山の山麓を走って、「途中越え」で有名な途中を過ぎ、花折峠の坂道を登ると、安曇川ぞいの葛川(かつらがわ)地区に明王院があります。いつもどおり市街地を過ぎると、乗客は私だけです。このあたりは1000m級の山々が連なる比良山系の登山口になっていて、登山カードを入れるボックスを見かけました。

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 明王院に行く途中に高級料亭の比良山荘があります。

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 清らかな沢水が音を立てて流れていました。

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 地主神社は帰りにお参りすることにして、明王谷川に架かる朱塗りの三宝橋を渡ると、石垣の参道の向こうに葛川明王院が見えます。

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 拝観をお願いしようと道を隔てて左側の政所表門から社務所を訪ねたのですが、「作業中なので、ご用の方は電話してください」という携帯電話の番号付きの張り紙が掲げてあって、ひっそりとしています。ここは拝観料をお払いするような観光寺院ではありませんでした。政所表門は江戸時代初期の建立です。休憩所には茶菓の用意がしてあって、壁には回峰行者さんの写真が貼られています。明王院は、貞観5年(859)に比叡山無動寺の相応和尚によって創立され、葛川での参籠修行(葛川参籠)は、かつては旧暦6月の蓮華会(水無月会)と旧暦10月の法華会(霜月会)が7日間にわたって行われていましたが、現在は蓮華会のみが夏安吾と称して7月16日から20日までの5日間にわたって行われています。夏安居は山林徒渉とともに回峰行の重要な修行に位置づけられ、百日回峰は葛川での夏安居に参加しなければ満行とは認められないそうです。

 中世から近世にかけて、葛川参籠を行った者は参籠札という卒塔婆形の木札を奉納することが習わしで、元久元年(1204)銘のものを最古として、約500枚の参籠札が残されています。その中には足利義満や足利義尚、日野富子のものも含まれ、葛川参籠が広い階層によって行われたことがわかります。

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 振り返った景色です。

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  階段の上は本堂、右側は護摩堂。

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  宝暦5年(1755)建立の護摩堂。天保5年(1834)建立の奥の庵室は、行者が寝泊まりする建物で、内側は畳敷きです。

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 石段を登りました。 

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 杉木立の中に本堂が建っています。

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 自由にお堂に上がれます。

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 本堂は正徳5年(1715)の建立ですが、保存修理工事の結果、平安末期に建立されたお堂の部材の一部が転用されていることがわかりました。境内の発掘調査によって、平安末期には現状に近い寺観が整えられていたと推定されています。『梁塵秘抄』に葛川への参詣道について歌った今様が収められていますし、九条兼実の日記『玉葉』の治承5年(1181)6月18日条に、「今日より法源が葛川に参籠した」という記述が年代のわかるいちばん古い資料として知られています。

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 お堂の中に4月に行った京博の海北友松展のポスターが貼ってありました。

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 この格子の奥に、本尊の千手観音像と脇侍の毘沙門天像・不動明王像が安置されていますが、本尊は秘仏です。このお像は、相応の時代まではさかのぼらず、平安時代末期(12世紀)の作とされています。

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 虚飾のない清々しいお堂でした。最後まで誰にも会わない静かな境内です。

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 三宝橋を渡って、地主神社に向かいました。

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 どこにいても明王谷川の滔々とした瀬音が聞こえてきます。

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 地主神社は明王院の横を流れる明王谷川に架けられた三宝橋のそばにあります。祭神は国常立命ですが、この地の地主神である思古淵明神(しこぶちみょうじん)も祀られています。思古淵は安曇川流域に多く祀られる神で、この地域の開拓の祖神であり、水の神として、崇められています。
 ひっそりとした境内には、拝殿・弊殿・本殿の三棟が一直線に並んでいます。拝殿は新しい建物ですが、弊殿・本殿は室町時代の建築です。

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 左から本殿、幣殿、拝殿が並んでいます。

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 本殿は春日造と呼ばれる左右が反り上がるもので、大津には珍しい建物です。前面の蟇股といわれる部分には、牡丹・唐草・笹竜胆・蓮など12種類ものデザインの彫刻がなされ、しかも左右対象という非常に凝ったものに仕上げられています。

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 拝殿から幣殿・本殿を写してみました。

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 境内社の思古淵明神・大行神社・ 山神社が可愛らしく並んでいます。

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 坊村のバス停付近の民家は昔は茅葺だったのでしょうね。こういう民家は4月に訪ねた常照皇寺のある村落でも見かけました。京都から若狭に向かう街道でつながっているから当然といえば当然です。バスを待っていたら、登山帰りの中学生が十数人。次の停留所でも今度は中高年の登山客がドッと乗ってきて、行きに心配していたバス会社の経営問題はひとまず解消しました。あとから乗ってきた中高年が「女の人だけ座らせて」と中学生に言って、結局、全員が座っていました。山道を立ちっぱなしは辛いので、ここを訪ねるときは、早めにバス停に行くことをお勧めします。

 堅田からJRで京都に向かい、駅前のホテルにチェックイン。4月に利用したとき、ホテル内のレストランがあまり・・・でしたので、伊勢丹地下の老舗弁当コーナーで、噂の和久傳の二段弁当を購入しました。      

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近江と南山城・・・③居初氏庭園

 実はこの時期に近江を訪ねようと思ったのは、4月に湖西の堅田を訪ねたときの宿題が二つあったからです。一つは滅多に入れない居初氏庭園、もう一つは土日以外はバスの便がうまくつながらない葛川明王院。この二カ所を目指して、守山まで行って、堅田行のバスに乗りました。居初氏庭園は5月28日を逃すと、次は秋まで入れないので、電話で見学会の予約を入れてあります。守山発の江若バスは琵琶湖大橋を渡って湖東から湖西に行きます。堅田駅前から市内循環バスが居初氏庭園の近くまで行っていますが、降りたあとがわかりにくいという情報があったので、タクシーに乗りました。これが大失敗。料金をと思ったら、お財布が見当たりません。もたもたしていると運転手さんに悪いし、バッグの奥にあるだろうと軽く考えて、予備のお金で支払って、今度は見学会の会費500円を出そうと思って、くまなく探せど、行方不明!

 落としたとしたら、江若バスか、路上か、タクシーです。親切な観光協会の方が電話で照会してくださっているので、和菓子とお抹茶をいただきながら、お庭を拝見。現金はわずかですが、カード類の始末が面倒ですから、落ち着きません。

 堅田は古くから湖上交通の要衝で、中世には堅田衆と呼ばれる自治組織が支配し、水上交通・漁業権・徴税などの特権を持っていました。居初家は、平安時代は下鴨神社に食料などを貢納する供御人の系譜をひく旧家です。12~13世紀には「三党」と呼ばれる居初、小月、刀禰の3家が存在し、中世末期まで勢力を保っていましたが、豊臣秀吉が湖上の自由交通を認めたため、堅田衆の勢力は衰えます。江戸時代になって、幕府への請願の結果、居初家は舟運を取り仕切る権利が再び認められました。

 居初家は文化人との交流があり、現存の居初氏庭園と「天然図画亭」と称する書院は、茶人藤村庸軒によって作られたものです。書院の北から東に広がる庭園の東側hは、琵琶湖の湖面と対岸の三上山などの山並みを借景としています。

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 庭園には延段(自然石や切石を直線状に敷き並べた通路)が配されています。

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 書院は入母屋造りの茅葺で、幅5尺の広縁を巡らせています。

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 もう少しゆっくりしたかったのですが、タクシーの運転手さんがお財布を届けてくださったので、お礼もかねて乗せていただきました。午後のバスまでまだ時間があります。「お勧めのところはありますか」と観光協会の方に伺ったら、「私が経営しているビューロッジ琵琶のある真野浜は絶景ですよ」と言われて、素直に従いました。時間がなくて、↓の2枚の居初家の外観の写真はwikipedia所載のものです。

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 住宅外観。中央が主屋。出格子の左側に入口があります。

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 庭園への入口の塀門。ここから入ることはできません。

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 真野浜は、ひたすら湖。夏は賑わうのでしょうが、ひっそりしています。

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 ビューロッジは本日休業でした。しばらく湖を眺めてから、タクシーに電話して、駅の近くのお食事処で降ろしていただきました。

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 運転手さんお勧めの「こはち」は、地元の方々でにぎわっていました。接客は抜群、お味は普通ですが、この町は、あまり選択肢はありません。

近江と南山城・・・②近江八幡


 混雑を避けて家を出たので、宿のある近江八幡駅に着いたのは15時少し前でした。涼風を求めて水郷めぐりがしたかったのですが、駅前からバスで乗り場までいかねばならず、ほとんどが15時までですから、もう間に合いません。司馬遼太郎氏の『街道をゆく 近江散歩』に{「よしのはえた水面をわけてゆくという遊びは、むかしからあったそうである。・・・むかしはこういう舟あそびを『舟ゆき』といったそうである。・・・豊臣英次も『舟ゆき』をして遊んだという」と書かれたよしを見ながらの「舟ゆき」は、またの機会に、と諦めて、観光案内所の女性の助言でバスで大杉町まで行ってみました。大杉町のバス停から新町のバス停付近におもな見どころが固まっています。

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 白雲橋から八幡堀を見下ろすと、「八幡堀めぐり」の舟はまだやっています。もちろん乗りました。

 八幡堀は天正13年(1585)に豊臣秀次が八幡山に城を築き開町したことに始まります。秀次は、八幡堀と琵琶湖とを繋ぎ、湖上を往来する船を城下内に寄港させることで、人、物、情報を集め、さらに楽市楽座制を実施することで城下を大いに活気づけました。

 八幡堀(全長4,750m)は交通路や生活の場として長らくその役目を果たしてきましたが、生活形態が変わりだした昭和30年代になると、市民にとって忘れ去られた存在となり、やがて無用の長物から公害源となりだしました。昭和40年になると、八幡堀に堆積したヘドロは1.8m。蚊やハエの発生源や市民による不法投棄の場所と成り果て、地元自治会は衛生的観点から署名を添えて埋め立てを陳情したそうです。

 このような状況のなか、昭和47年に近江八幡青年会議所が「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」を合い言葉に全市民へ浚渫と復元を呼びかけました。当初は保存運動は孤立状態を招きますが、辛抱強い活動の結果、市民の目も変わってきます。昭和50年9月、ついに滋賀県は進みかけけていた改修工事を中止し、国にその予算を返上することになりました。私の町でも玉川上水に蓋をして駐車場にするという計画があって、住民運動で中止されたのを思い出します。

 八幡堀を守る会、地元自治会、観光物産協会、観光ボランティアガイド協会などが清掃活動を続け、八幡堀は近江八幡のまちづくりのシンボルとして、観光客の訪ねたい場所として、風情ある風景を取り戻しました。 ここ数年、日本各地を旅していますが、京都・奈良を除くと、これほどにぎわっている町は例がありません。

 近江八幡の「舟ゆき」は、乗船時間80分のコースなど4コースあるそうですが、辛うじて間に合った航路がいちばん短い「八幡堀めぐり」の舟に乗って、船頭さんの説明を聴きながら、35分間、のんびりと楽しみました。

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 長野県から来たという楽しい3人組と若い二人連れと私の6人で、近江商人の家を眺めながら、行楽気分を味わいました。

 次はお堀に沿った遊歩道から新緑で覆われた水面を見下ろしながら、舟の航路とは反対方向へぶらぶら歩き。「毛虫に注意!」という張り紙があるほど、桜の並木が続きます。満開のときは、さぞや見事なこでしょう。

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 新町のバス停付近の新町通りや魚屋町通りには、近江商人の屋敷がたくさん残っています。

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  市立歴史資料館(旧西川家住宅・歴史民俗資料館・旧伴家住宅)に行ってみましたが、入場は16時までで、ここも時間切れでした。他日を期して、外観だけを拝見。

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 旧西川家住宅。西川利右衛門は大文字屋の屋号で、江戸・京都・大坂に店舗を構え、蚊帳や畳表を商って、財をなしました。西川家は初代から11代まで約300年にわたり活躍しますが、昭和5年に子孫が途絶え、土地と建物は市に寄贈されました。現在の建物(主屋)は3代目によって宝永3年(1706)に建てられたもので、昭和58年(1983)1月7日に国の重要文化財に指定され、昭和60年(1965)10月から改修工事が行われました。

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 歴史民俗資料館。

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 旧伴家住宅。7代目伴庄右衛門能尹が伴庄右衛門家本家として、文政10年(1827)から天保11年(1840)の十数年をかけて建築したものですが、明治時代になって当時の八幡町に譲渡したのち、小学校・役場・女学校と変遷しました 。.

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 旧伴家住宅のある通りに「朝鮮人街道」と刻んだ石碑があります。

 秀吉の朝鮮侵略は、大きな傷跡を残しますが、江戸幕府は、対馬の宗氏を介して関係改善を図ります。国書偽造という涙ぐましい努力の末、国交は回復し、将軍の代替わりに際し、12回にわたって朝鮮から通信使が来日しています。朝鮮通信使は、学者・医者・画家などを含む総勢500人の大使節団で、貴重な文化交流の場でもありました。
 ソウルからプサンを経て対馬へ渡り、船で瀬戸内海・淀川を経て京都へ到着すると、その後は陸路で中山道・東海道を通過して江戸に着くという長い道のりの中に「朝鮮人街道」と呼ばれる道があります。現在の野洲市小篠原から安土・近江八幡を経て彦根市鳥居本までの約40kmがその道です。

 昨年訪れた高月に生まれた雨森芳洲は、対馬藩に仕え、朝鮮国との外交に当たります。彼は「国によって風儀も嗜好も異なるので、日本側の物差しだけで接しては必ず不都合が生じる。 相手国の歴史・言葉・習慣・人情や作法などをよく理解し尊重して真心の外交をおこなうべきである」と主張し、通信使の信頼も厚かったと伝えられています。

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 このあたりでひときわ重厚な趣をかもしているのが、非公開の西川甚五郎邸です。西川家は八幡山城築城の時に工務監督を務めたといわれる旧家で、甚五郎はふとんの「西川」の基を築いた生粋の八幡商人です。

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 西川甚五郎邸の隣の小公園にヴォーリズ像が立っています。八幡堀、豊臣英次、近江商人に続く近江八幡のキーワードは、メンソレータムで有名な近江兄弟社を創設し、建築家であり宣教師であったヴォーリズでしょう。名誉市民になったときに、お祝いの花を少女が渡している情景です。数えきれないほどある建築作品の中で、私にとって忘れがたいのは、いま改築中の大阪・心斎橋大丸。関西を離れて40年あまり、いまも記憶の中にはワクワクする店内の雰囲気が残っています。(写真の最後の2枚は借り物です)

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 ヴォーリズ像のある小さな公園の前の新町バス停から駅前に戻り、ホテルのベッドに倒れこみました。

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