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陸奥の旅・・・③水沢(奥州市)

  最終日の5月20日になりました。当初は遠野を訪ねる予定で、例年、5月中旬から土日祝に運行される「遠野物語めぐり号」というバスを利用しようと思っていましたが、4月になっても情報があがってきません。バス会社と観光協会に電話して、昨年まで運行していたバスの会社は潰れた、なんとか夏休みまでに再開したい、という状況であることがわかりました。遠野は、遠野南部氏の城下町でもあって、祖母が遠野の話をしていた記憶があるので、行ってみたかったのですが、路線バスでは動きがとれません。

 しかたがないので、別の場所を探しました。迷った挙句、留守氏の城下町であり、曹洞宗の名刹正法寺行のバスが出ている奥州市の水沢を選びました。バスも東北本線も便数が少ないので、苦心惨憺です。

 正法寺行のバスが出る10時20分まで少し時間がありましたので、徒歩10分の水沢公園まで行ってみました。ここに高野長英記念館がありますが、見学する時間はありません。近世から近代の水沢の著名人は、高野長英、後藤新平、斎藤實の3人で、実は高野長英と後藤新平は親戚です。

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 水沢の市街地を離れると、のんびりとした田園風景が広がります。途中で蘇民祭で名高い黒石寺の前を通りました。25分で終点の正法寺前に着きましたが、またしても降りたのは私だけ。

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 拝観料を払っていると、車で来られたご夫婦の同行者と間違われて、危うく3人分払わされそうになりました。大木を見上げているご夫婦は北上から来られたそうで、ずっと一緒に回りましたが、とても親切な方でした。

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 1665年創建の総門の奥の石段が難所です。ご主人は昔、ここで研修をされたそうで、自然石を乱雑に積んだ石段は、どんな偉い人でも四つん這いにならないと登れないようにできているのだと教えてくださいました。四つん這いにならなくても登れましたが、かなり恐怖。上がってみたら、右側にスロープになった楽な道がありましたので、帰りはもちろんそちらを通りました。

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 この境内図のように、以前は総門を入って、庫裏の入口に拝観受付があったので、ご夫婦が間違われたのも納得です。正法寺は「奥の正法寺」の名で親しまれ、南北朝時代の1348年に開刹されました。総門・庫裏・本堂(法堂)は国指定の重要文化財です。かつては永平寺、鶴見の総持寺とならび、奥羽2州の本山でした。江戸時代になって本山の地位は失いますが、仙台藩から特別の待遇を受けていました。
 
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 本堂は日本一の大きさの茅葺屋根。間口29.6m、奥行21m、高さ26mで、現在の建物は1811年に伊達家が再建したものです。 

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 庫裏から入って、北上のご夫婦の案内で、堂内をめぐりました。茶菓の用意もあって、ご配慮に感謝です。

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 内部は撮影禁止。外はいいので、本道の側面を撮りました。

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 急な階段を上ると開山堂です。

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 雪国だからでしょうか、庫裏・本堂・開山堂は屋根の付いた階段や廊下でつながっています。

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 山門跡。いまは礎石しか残っていません。

 山深い禅宗寺院の清々しさに包まれたひと時でした。車で水沢まで送ってあげるとおっしゃるご夫婦の申し出を謝辞して、水沢まで戻りました。この先はタクシーです。武家住宅資料館まで520円。若い運転手さんは道がわからず、無線で聞いていました。

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 武家住宅資料館は、武家屋敷(内田家)と武家住宅資料センターが隣接しています。

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 まず武家屋敷から見学します。慶応2年(1866)に記された「水沢家中家並覚牒」によると、この屋敷は大番役・内田勘之丞のもので、禄高は96石2升となっています。角館の武家屋敷に比べると質素ですが、格式のある武家屋敷の一つです。

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 隣の武家住宅資料センターでは、歴史展示コーナーを懇切丁寧な解説付きで見学させていただきました。

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 水沢の領主・留守氏の苗字は、鎌倉幕府の陸奥国統治機関の一つであった留守職からきています。奥州藤原氏の滅亡後、御家人の伊沢家景がこの地位に任じられ、家景の子の時代から留守氏を称するようになりました。南北朝時代に勢力の衰えた留守氏は、伊達氏の救援を乞い、やがてその傘下に入ったため、水沢伊達氏とも呼ばれました。

 次は向かいに建つ後藤新平旧宅です。後藤新平は安政4年(1857)に留守家御小姓頭の家に生まれ、明治維新ののちは、医師・台湾総督府民政長官・満鉄総裁・逓信大臣・鉄道院総裁・内務大臣・外務大臣・東京市長などを歴任しました。とくに都市計画では「大風呂敷」と呼ばれるほど大胆な計画を提唱しています。

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 屋根は寄棟・茅葺きで、江戸中期の下級武士の住宅の様子を伝えています。

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 ここから西に延びる道は吉小路と呼ばれます。

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 少し歩くと高野長英生誕地の案内板に出会いました。

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 高野長英については、幼いころ、父の蔵書の「蛮社の獄」を主題にした小説を読んだときから興味がありましたが、ここで詳細を述べるのは控えます。水沢では三偉人の一人に数えられています。

 斎藤實記念館の前からバスが出ているので、バス停に向かう途中に高千代というお菓子屋さんがありました。ほかにはお店がないので、ここで一休みしていたら、正法寺で買った「九曜紋」というクッキーが置いてありました。お寺とこのお店が協力して、考案されたそうです。

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 吉小路の突き当りに斎藤實記念館が建っています。2.26事件の犠牲になった方ですが、めったに来ないバスの時間が迫っていたので、中に入ることはできませんでした。
 
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 コミュニティバスで水沢駅の近くまで行きました。

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 あちこちにこういう案内表示がありますが、控え目すぎて残念です。遠野のピンチヒッターの水沢は、観光客は一人もいませんでしたが、私なりに楽しめました。

 東北本線で一ノ関に向かうと、平泉で大勢の方が乗ってこられました。一ノ関で新幹線に乗ったら、私の席にほろ酔い加減の男性が・・・。間違っていないとおっしゃるので、チケットを確認していただいたら、次の列車の指定券を持っておられました。隣の席は空いていたので、仲良く仙台まで行って、お別れです。

 3日間、歩き回って、今年で2度目の独り旅は無事に終わりました。

陸奥の旅・・・③盛岡

 5月19日(金)になりました。2日目は今度の旅の主目的の盛岡訪問です。祖母がどこに住んでいたのかまるでわかりませんが、盛岡城は行ったはずです。各種の交通機関の時刻表とにらめっこし、行けそうなところと興味のある場所を組み合わせてスケジュールを作りました。

 角館ー盛岡 8:55-9:46 新幹線こまち 

 盛岡ー啄木記念館前 10:15-10:43 JR東北バス

 啄木記念館前ー盛岡駅前東口 11:51-12:28 県北バス

 盛岡駅前東口ー盛岡城跡 12:50-13:05 市営バス・でんでんむし号

 盛岡城跡ー原敬記念館前 14:36-14:56 盛南ループ200右回り

 原敬記念館前ー志波城古代公園 15:33-15:41 岩手県交通バス

 志波城古代公園ー盛岡駅前東口 17:00-17:25 岩手県交通バス

 多少の遅延を勘案して予定を立てましたが、結果的に無事にスケジュールをこなすことができました。

 盛岡に着くと、駅に隣接しているメトロポリタン盛岡に荷物を預けて、身軽になりました。久慈行のバスは10分ほどで市街地を外れ、左手に雪を頂いた岩手山を見ながら、新緑の林や牧場を駆け抜けて、ハイテンションのドライブ気分です。畜産関係の施設や大学がならぶ美しいコースでした。

 啄木記念館前で下車したあと、うっかりして反対側に行ってしまいました。元凶は↓の表示です。

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  渋民公園から啄木記念館までの道路を「啄木ふる里の道」と名づけ、国道から渋民小学校までの路上に啄木の歌10首を刻んだ石を埋め込んでいます。

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 渋民小学校の前で、引き返しました。

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 バス停に戻ると、反対側にそれらしい建物が見えます。

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 啄木記念館前の広い駐車場から岩手山を眺めました。啄木の理想の家を再現した記念館の右側に啄木が代用教員を務めた渋民尋常小学校と代用教員時代に一家が寄寓した斎藤家が移築されています。

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 まず茅葺の斎藤家。

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 続いて渋民尋常小学校。

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 昔はこういう始業の鐘が必ずあったようです。私の中学時代は小使さんが手持ちの鐘を振りながら廊下を歩いていました。

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 たぶん職員室。正面に奉置所があります。「明治時代には教育勅語とともに天皇陛下の公式肖像写真である御真影とともに厳重な保管が義務付けられた」という説明がありますが、昭和になると、立派な奉安殿が造られ、戦争に負けるまで校長先生が儀式の際は恭しく持ち出していました。 

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 いまは小使とは呼びません。用務員から主事さんに変わったようです。

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 啄木が愛用したオルガン。

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 2回の3年生と4年生の教室。

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 私が通った小学校にもこういう廊下があって、雑巾がけをさせられました。

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 記念館では「啄木と『一握の砂』」と名付けた企画展が開催されていました。『一握の砂』の成立過程や発刊当時や現代における評価、掲載された短歌の評釈・特徴・背景などについて、関連資料を見ながら啄木の作品について知ることができます。幼いころの寝室に父の本棚があって、そこに並んだ『啄木写真帖』というタイトルを見て、ブタキと読んでいました。愛読者というほどでもないし、63人から多額の借金をしていたという話を聴くと、ちょっと引いてしまいます。それでもけっこう諳んじていて、なかでも忘れがたいのは、この一首です。

正月の四日になりて
あの人の
年に一度の葉書も来にけり。

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 啄木の父が住職をしていた宝徳寺に向かう途中の田んぼに岩手山が見事に映り込んでいました。

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 なかなか立派なお寺です。啄木の父が宗費を滞納して、寺を追われますが、命日には法要が営まれています。

 バスで盛岡に戻り、100円で盛岡市内を循環する「でんでんむし号」でお城に向かいました。盛岡城跡で降りて、いざ登城。

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 本丸跡に来ました。祖母の先祖が仕えていた場所です。

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 城跡の一角に「もりおか歴史文化館」が建っていて、盛岡藩の歴史や南部家の至宝を展示しています。

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  「盛岡南部家の生き方」展は、盛岡南部家の歴代当主の実態を掘り下げ「殿様」の実像に迫ることで改めて盛岡の歴史を辿るという企画の第2弾で、今回は5代南部行信から10代利正まで6代の藩主に焦点をあて、江戸時代の真っただなか、南部家・盛岡藩では何が起こっていたのかを、さまざまな資料を基に紐解いています。残念ながら祖母の先祖はどこにも登場しませんでした。

 館内のお休み処「不来方」で軽食をいただいて、先ほど降りた盛岡城跡のバス停に急ぎます。

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 今度は盛南ループ200という中距離の循環バスに乗りました。200円均一ですが、どう見てもいつも乗っている小田急バスのかなり年季の入った車体です。

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 盛岡市街から北上川を越えてしばらく走ると、原敬の生家と記念館があります。原敬は平民宰相の名で有名ですが、祖父は家老まで務めた上級武士で、分家して自らの意思で平民となった人物です。南部藩士の血が少しは流れているので、どういう人か興味がありました。1921年に東京駅で右翼の青年に暗殺されたのはなぜなのか、謎を解く手がかりが得られればと思いましたが、簡単ではありません。

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 産湯の井戸だそうです。

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  祖父が1850年に建てた原敬の生家はいまは五分の一の規模になっています。庭園の菖蒲はまだ咲く気がありません。

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 原敬生家に隣接して建てられている原敬記念館には、原敬の業績をたたえる政界の貴重な資料や原敬日記、遭難時の衣服、遺品、遺墨等が展示されています。お客さんを案内してきた観光タクシーの運転手さんが、原敬がいかに偉かったかを熱く語っておられましたが、政党政治に対する一部の不満が暗殺を呼び、15年後には日中戦争につながっていったのを振り返ると、悪夢の再来がないことを願わずにはいられません。原敬の暗殺の4年後に治安維持法が成立し、その後、20年で敗戦です。

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 近世と近代を行ったり来たりしましたが、最後はいきなり古代です。記念館前から志波城古代公園までバスに乗って、10分足らずで着きました。 

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 外郭南門から入ると、並木のかなたに官衙建物が遥か彼方に建っています。道路工事の際に発見された志波城の遺構は、一辺929mの外大溝、一辺840mの築地塀で囲まれた広大なものでした。

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 並木の両側の田んぼは見学した日の翌々日に田植えが行われ、実った古代米は資料館で販売されるそうです。

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 築地塀の各辺の中央には門が造られ、約60m間隔で櫓が建っていました。

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 正門となる外郭南門は桁行15m、高さ11mの楼門で、復元された古代の門としては、平城宮跡朱雀門に次ぐ大規模なものです。

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 城内には掘立柱建物と竪穴建物がありました。掘立柱建物は官衙として使われ、1200から2000棟にのぼる竪穴建物は兵舎として用いられたと言われています。

 この広大な城は、いつ、誰が、なんのために築いたのでしょうか。古代公園の隣に建てられたガイダンス施設「志波城古代公園案内所」で知識を得ることができました。内部は撮影禁止ですから、↓は盛岡市のHPからお借りしました。

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 案内所で歴史ドキュメント「志波城物語~坂上田村麻呂とアヌシキの願い」を見ましたが、なかなかよくできています。

 天皇を中心とする政府が律令をもとに国を統治していた古代にあって、東北北部は、まだその国の範囲外で、人々は「蝦夷」と呼ばれていました。政府は各地に城柵を造り、国の範囲を北上させていきますが、774年以降、宮城県北部から岩手県南部の蝦夷は政府と対立し、争いが続きます。桓武天皇によって、征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は802年に胆沢城を造営し、胆沢の阿弖流為(アテルイ)を降伏させて、争いを収めました。その翌年の803年に築かれたのが陸奥国で最北かつ最大級の志波城です。

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 爽やかな風の吹く志波城の中を歩きながら、国家はいつも領土拡大を願い、そのために犠牲になった人々も多いという思いが去りませんでした。

 17時発の最終バスで盛岡に戻り、JR系のホテルにチェックイン。体力の限界まで行動してしまいますので、駅に直結のホテルを選んでいます。

陸奥の旅・・・①角館 

  母方の祖母は盛岡の南部家家臣の家に生まれ、若くして遊学し。女子美の2回生だったと聞いていますが、母が早世したため、縁が薄く、詳しいことは何もわかりません。それでもルーツの一つですから、まだ足が動くうちに行っておきたい場所が盛岡でした。ついでにと言っては申し訳ないのですが、新幹線で県境を越えて桜で有名な角館まで行って、翌日、盛岡を訪ねる予定を立てました。ラッシュアワーを避けた行程ですから、角館に着いたのは13時24分です。何事も何周も遅れていて、やっとタブレットに慣れましたので、新幹線の中でナンシーで上演された「セミラーミデ」のライブを視聴しました。ロッシーニのオペラの中でいちばん好きなオペラは、とてもインパクトが強く、新緑の角館を歩いていても、身体の中で鳴り響いていました。

  5月も18日となり、桜が散ったあとの角館は閑散としています。有名な観光地だけあって、いろいろな建物がそれらしい雰囲気を作りこんでいます。

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 観光案内所は名前のとおり蔵造り。

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 徒歩で観光する者は想定外かもしれません。路線バスも市民バスもひどく本数が少ないのですが、調べたとおり待ち時間10分で市民バスが来ました。乗客は2人です。角館には二つの武家屋敷通りがあって、このバスは田町武家屋敷通りの西宮家前に停まります。

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 角館の町は元和6年(1620)に葦名義勝によって造られました。古城山城を北端に南に向かって3本の道路を設定して、町づくりが進められています。当時、内町の武家屋敷群とは別に、町の南側地区「田町」に80戸の武士が住む事になりますが、彼らは、秋田藩主佐竹氏直臣でした。葦名義勝は秋田の領主佐竹義宣の実弟です。田町に住んだ武士の中でも筆頭格が西宮家で、明治後期から大正時代にかけては地主として繁栄し、その時代に建てられた5棟の蔵と母屋が商業施設として使われています。

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 西宮家の筋向いは、角館出身で新潮社の創業者佐藤義亮氏にちなむ記念館ですが、素通りしました。

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 次に、この界隈で気になっていた常光院を訪ねました。角館の葦名氏は3代で断絶し、佐竹氏の支族である佐竹北家が11代にわたって領主となります。常光院は佐竹北家の菩提寺ですが、それらしい雰囲気はありません。代わって、目を惹いたのは戊辰戦争戦没者墓地です。

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 戊辰戦争のおり、佐竹北家は新政府軍に付いたため、幕府に忠誠を誓う奥州列藩同盟に攻め立てられました。はるばる九州から援軍としてやってきた大村藩士や平戸藩士などの戦没者が病院となっていた常光院に葬られたそうです。中には15歳の少年もいて、傷ましいと思いました。

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 案内板に従って桧木内川のほとりに来ました。半月前なら見事な桜が見られたかもしれません。誰もいない堤は、それはそれで趣があります。 

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 横町橋のたもとで右折すると、内町の武家屋敷はすぐそばです。

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 内町の武家屋敷町は道路の幅から曲がり角まで、390年前の姿をとどめています。まず小野田家と河原田家が隣り合っていて、無料公開。屋内に入ることはできませんが、戸を開け放って、よく見えるようにという心遣いが嬉しいです。16世紀末に開花した秋田蘭画の中心人物の一人である小野田直武は、この小野田家の人でした。

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時間がないので、資料館も素通り。

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 資料館より見ごたえがあるという青柳家に着きました。武家屋敷は300坪が平均値ですが、周囲の土地を買い取って、3000坪の敷地に母屋を始め、多くの建物を配して、「角館歴史村」と称しています。入場料は500円でした。

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 母屋は200年前の建物がそのまま残っています。

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 二階建ての武器蔵には青柳家のルーツを伝える武具や江戸時代からの文献が収められています。

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 裏山から庭園内の池に数百年間絶えず流れ込む沢水は神明水と呼ばれています。

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解体新書記念館には青柳家の親戚にあたる小野田直武の業績を顕彰する展示があります。直武は1774年に日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書である『解体新書』の附図を描いた人です。

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 小野田直武像はまだ入口で、まだまだ展示館が続き、さながらテーマパークです。

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 こちらは佐竹北家の家臣で、財用役や勘定役といった財政面を担当していた石黒家の屋敷です。美しいお嬢さんが丁寧に説明してくださって、好感が持てました。400円です。

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 欄間の亀の透かし彫りがご自慢でした。

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 代々の当主の五月人形が飾られていました。

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 簡素ながら格式を感じさせるお庭でした。

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 静まりかえった新録の通りに清冽な沢水が流れています。4時半閉館の平福記念館に急ぎました。

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 武家屋敷跡に大江宏氏設計の「平福記念美術館」が建っています。角館出身で近代日本画の巨匠と言われる平福穂庵・百穂父子の作品の常設展とおもに郷土の作家の特別展を見せていただけますが、この時期の特別展は小松みどり氏の写真展でした。

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 平福穂庵の作・松前アイヌ帰漁の図 (1883年頃)

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 こちらは百穂の1912年の作品を今年のカレンダーにしたものです。100年以上前、百穂は雑誌「婦人之友」の表紙を手掛けていました。私が生まれる前に亡くなった方ですから、継母が購読していた「婦人之友」の表紙は別の方の作品ですが、鮮やかな罌粟の花を美しいと思いました。

 ここから角館駅まで徒歩25分。最後の力を振り絞って、もう一カ所に向かいます。

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 武家屋敷のハナズオウが夕日に映えていました。我が家のハナズオウはずいぶん前に終わってしまいまいしたから、やはり北国です。

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 やっと着いたのが町はずれの葦名家菩提寺である天寧寺。角館の領主としては3代で終わった葦名氏の最後の跡継ぎ千鶴寿丸は参詣したおり、縁側から落ち、沓脱石に頭をぶつけて3歳で亡くなったそうです。

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 境内はあっけらかんとした雰囲気です。ここからうんざりするほど歩いて、角館駅前の「フォークロロ角館」にたどり着きました。この日の歩数は18000歩を超えて、もうへとへと。角館のお宿はあまり選択肢がありません。駅から30秒という一点でここを選びました。

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姉と友と

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 路傍でオレンジ色の草花を見かけたのは、かなり前です。可憐な姿に惹かれ、我が家の庭にもきてほしいと思ったこともありました。ところが、この花は移植に弱いようで、いつも枯れてしまいます。今年、とうとう風に乗って、やってきました。喜んでいたら、ニュースで、この花は外来植物で繁殖力が旺盛なので、実をつける前に取り除いたほうがいいと知って、ちょっとガッカリです。

 名前もわかりました。ナガミヒナゲシです。

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  1961年に世田谷区で見つかって、2010年には青森県と沖縄県以外の都道府県で確認されているそうですから、いまは全国に分布しているかもしれません。

 スペインを鉄道で旅していると、線路沿いにアマポーラが群生していて、旅情をかきたてられたものでした。

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 ナガミヒナゲシのほうが少し色が淡いのですが、そっくりですよね。当地に越してきたころは、庭にムサシノスミレが自生していました。しばらくして、中央線の線路沿いによく見かけたムラサキダイコンがやってきて、いま路地で花盛りです。どなたかが中央線の線路わきにナノハナとムラサキダイコンの種をまかれたのが始まりと聞いたことがありますが、こちらは在来種だから、御咎めなしなのでしょうか。

 10年ほど前に関西の姉の家からいただいてきたナルコユリもいま涼し気な佇まいで、あでやかなツツジとともに食卓を飾っています。もう少したつと、いっしょにやってきたハンゲショウも姿を現すかなと心待ちにしています。ハンゲショウは絶滅危惧種になりかかっているそうですから、大事にしなければ。姉は一人住まいになってから、広い家をもてあまして、姪の家から3分の場所に移って、植物たちともお別れしたと言っていました。

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京・近江の春旅・・・⑧堅田

  4月13日(木)は、快晴です。宿に荷物の発送を依頼して、リュックだけになりました。近江高島駅まで送っていただいて、湖西線で15分後に最終目的地の堅田着。来るときは鈍色だった湖は、桜に縁取られて輝いています。琵琶湖で対岸との距離が最も狭い箇所の西岸に位置する堅田は「湖族の郷」と呼ばれています。地元の方が、以前は「湖賊」だったが、司馬遼太郎氏が「湖族」に変えたほうがいいと提案されたと言われていました。堅田は、平安時代から京の都の外港として重要な役割を担い、湖上の「関務権(琵琶湖を航行する船を取り締まる権利)」「漁業権」「上乗権(船に乗り込み、安全に運行させる権利)」を掌握した堅田衆の活躍で、「堅田千軒」と呼ばれる豊かで活気あふれる自由都市が築かれました。

 堅田には多くの寺社が建立され、南北約2㌔の湖畔地域に六社と十ヵ寺が現存しています。そのすべては回れませんが、堅田町内循環バスで4分の堅田出町で下車し、浮見堂の一番乗りを目指します。本堅田の都市景観賞を受賞された民家の前を通りました。

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 天台宗の妙盛寺は、入りにくい雰囲気でしたので、通り過ぎました。

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 湖族の郷資料館と本福寺はすぐわかりましたが、見学は後回しにして浮見堂に急ぎます。

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 浮見堂は満月寺と称する臨済宗大徳寺派のお寺です。995年ごろに源信(恵心)僧都によって開かれたと言われますが、現在の浮見堂は昭和12年の再建です。

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 庫裏に続いて、浮見堂の古材を用いた茶室が建てられています。久しぶりの青空を浴びた松の影の濃さも嬉しい限り。

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 この景色を独占できるなんて、贅沢です。近くに観光バスの駐車場がありましたから、早めにきて正解だと思いましたが、午後になっても団体様は見当たりませんでした。

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 浮見堂の裏手からあたりをのんびり眺めました。遠くに琵琶湖大橋が見えます。

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 右のほうにイタリア料理のお店を確認。2日間、まともなランチをいただけなかったので、ここで取り戻そうと、予約を入れました。

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 誰もいないなんて、ありえない!

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 観音様はお厨子の中で、扉に写真が貼ってあります。 

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 うらうらとした気持ちで、満月寺を後にしました。

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 2,3分で、満開の桜で装った伊豆神社。創立は宇多天皇の時代の892年にさかのぼります。1569年に兵火で焼けてしまいますが、すぐに再建され、現在に至っています。伊豆神社という名前は比叡山の僧侶が伊豆の三島明神を勧請したことによっているそうです。 

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 盛りの桜を愛でる人も見当たらず、静かなお宮でした。

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 入口の張り紙通りのお作法で参拝してきました。

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 次は、本福寺。ここは少し思い入れがあるのですが、近づくと賑やかすぎる幼児の歓声に、ちょっとイメージが壊れました。境内に「こども園」が建っていて、保育士さんに見守られて、子どもたちが走り回っています。

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 門前に「本願寺舊址」と刻んだ石柱が立っています。蓮如上人が応仁の乱を避けて、近江布教の拠点とした所だという矜持が感じられました。また芭蕉の最古参の門人である千那がこの寺の住職であったため、芭蕉はこの寺に泊まり、多くの句を残しています。

 本福寺と聞いて思い出すのは、学生時代にゼミのテキストだった本福寺の六代目の明誓が記した「本福寺跡書」です。この中に記されたさまざまな歴史的事象は、庶民レベルの感覚でとらえられているので、真実の歴史を知ることができる文書です。割り当てられた部分の解釈をしどろもどろで報告した若いころが蘇ってきました。

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 本堂裏の牡丹園が開花のときを待っています。

 先ほど通り過ぎた「「湖賊の郷資料館」に入り、年配の男性の解説で堅田の歴史をお勉強というとカッコいいのですが、ほんの少し賢くなりました。実は堅田で興味があったビッグスリーの一つ、居初氏庭園(天然図画亭)は要予約ということでしたが、電話が通じません。堅田駅の観光案内所で尋ねると、ご当主が体調を崩されて・・・。ところが、資料館に5月28日だけオープンというチラシを見つけ、今回、断念した堅田からバスで行く葛川息障明王院訪問と併せて再訪を考えています。われながら、しつこい性格です。

 館内の写真は資料館のHPからの転載です。

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 11時半に予約したイタリアンのお店、ペコリーノに向かいます。このあたり、浮見堂の隣のちょっと敷居の高そうな料亭があるだけで、あまり選択肢はありません。ペコリーノは堅田藩陣屋跡に建っています。江戸時代、四代将軍徳川家綱の大老として権勢を誇った大老堀田正俊の一族が六代にわたり、約130年間、陣屋を置いた場所です。

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  •  ここがイタリアンのペコリーノ。

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     予約優先で特等席に案内してくださいました。朝、行った浮御堂がよく見えます。
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  •  前菜です。

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  •  あまりイタリアンらしくないのですが、メインは近江牛のシチューにしました。

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     ドルチェは不思議な食感です。
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  •  まだ時間があるので、午前中に行けなかった二つのお寺を訪ねます。いささか案内表示が不備で、資料館の方に教えていただいてたどり着けました。祥瑞寺は、臨済宗大徳寺派のお寺で、室町時代の応永年間(1394~1428)に、京都大徳寺の僧・華叟宗曇(かそうそうどん)が開きました。

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     「一休和尚修養之地」という石碑が立っているように、頓智話で有名な一休は、苦心の末、許されて入門し、22歳から34歳まで、このお寺で修行しました。関西に住んでいたころ、幼い子どもたちを連れて、軽自動車で近場のお寺を訪ねましたが、山城の一休寺(酬恩庵)もその一つです。さまざまな人生遍歴を経て一休寺で入寂した一休の墓所は、後小松天皇皇子の陵として宮内庁が管理していました。ただし、足利義満の子だという説もあります。一休寺も再訪したくなって、困ったものです。

     本堂は、昭和初期に再建された建物ですが、鎌倉時代の禅宗寺院建築の様式を忠実に踏襲しています。、

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     境内の芭蕉の句碑には、「朝茶飲む僧静かなり菊の花」と刻まれています。
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  •  句碑が立つ庭は静まりかえっていました。

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     白い雲と白い塀、桜、棕櫚。

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     最後にお参りした光徳寺は、本福寺のすぐそばに建っていますが、午前中は気が付きませんでした。観光協会の方、もう少し案内表示を増やしてください。
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     本堂の前の枝垂れ桜は満開です。兼好法師に「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」と言われても、やはり絢爛と咲いているほうがいいです。
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  •  このお寺で有名なのは、「堅田源兵衛の首」の物語です。応仁の乱(1467年)が起こったとき、蓮如上人 は親鸞 聖人の御真影(祖像)を持って  本福寺に移住されますが、その後、御真影を三井寺に預けます。返してもらおうとしたら、三井寺に「首を二つ持ってこい」と言われ、漁師源兵衛は父源右衛門に自分の首を斬らせて、それを持った父が自分の首も切ってくれと言って差し出したという浄土真宗の殉教物語が伝わっていて、源兵衛の頭蓋骨が拝めますが、あまりに恐れ多いし、ご遠慮しました。境内の源右衛門親子の銅像もちょっと怖いです。

     町内循環バスの乗り場がわからず、困っていたら、バスが近付いてきて、運転手さんが「あっち」と身振りで教えてくださいました。20mほど、禁断の全力疾走を余儀なくされて、やっと乗れましたが、知っている人にしかわかりません。

     湖西線で24分で京都。ずっと人影もまばらなところを歩いていましたから、京都駅構内の混雑に気おされながら帰途に就きました。今年も、いい旅ができて感謝しています。

    京・近江の春旅・・・⑦白髭神社&鵜川四十八体仏

     この日の最後の予定は鵜川四十八体仏と白髭神社です。路線バスが運行しなくなったあと、予約制の乗合タクシーが運行しています。例によって便数は少ないので、時刻表を見て、慎重に計画を立てました。30分前までに電話で時間とバス停を指定して予約しておく必要がありますが、300円です。約束の時間にバス乗り場に来たタクシーには、香港在住のカップルが乗っていました。運転手さんは、昨日、宿まで送っていただいた方です。

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     鵜川のバス停の位置がよくわからないので、白髭神社前まで行って、まず体力・気力のあるうちに、鵜川四十八体仏を拝観しに行きました。湖沿いの道路を10分ほど近江高島方面に向かうと、左側に坂道があって、「いにしえの街道 西近江路」と彫り込まれた石柱の上に「←鵜川四十八体仏」という表示を見つけて、一安心。

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     木立が途切れて見晴らしのいい場所に駐車場があります。

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     5分ほどで着きました。この石造阿弥陀如来坐像群は、1553年に安土観音寺城城主の佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため、対岸にあたる高島市鵜川に建立したと伝えられて、白洲正子氏の『近江山河抄』でもその説がとられていますが、現地に立っていた解説には、冷泉為広の『為広越後下向日記』の1491年の項に、この地に四十八体の石の阿弥陀があったと記されている、さらに1436年の周辺の境界争いの記録に「四拾八躰」という文字があるので、四十八体の石仏は、そのころにはすでに存在し。境界の目印として認識されていた、と書かれていますから、建立年代は100年以上遡れそうです。

     付近には古墳もあり、背後には墓石が建ち並んで、いまも墓地として機能しています。東を向いて静かに並ぶ石仏は、大きさも表情も少しずつ違います。だれもいない静かな世界でした。四十八体仏と呼ばれていますが、13体は江戸時代に坂本に運ばれ、昭和になって2体が盗まれたので、いまは三十三体です。2,015年に行かれた方のブログの写真にはちゃんと立っていた屋根付きのお賽銭箱は見事にひっくり返っていました。

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     雑木林の道を下っていくと、琵琶湖が眼前に広がります。

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     国道161号線を白髭神社に向かうと、湖の中に立つ鳥居が見えてきます。頑張ってあるかなければ。

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     着きました。白髭神社は近江最古の神社で、祭神は猿田彦命です。猿田彦命は、天孫降臨で知られる邇邇芸命(ににぎのみこと)を先導したと言われ、古くから延命長寿白髭の神として人の世の営みや業ごとの全てを先導される神とされています。

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      国道161号に面した鳥居の奥に建っているいるのは、明治時代の1879年に建てられた拝殿です。

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     拝殿と棟続きの本殿は、国指定の重要文化財です。豊臣秀吉の遺命を受け、秀頼公の寄進により1603年に建立されました。檜皮葺きの入母屋造り、桃山時代特有の建築で、片桐且元書の棟札も残されています。

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     左側の若宮神社の横の石段を上がって。上の宮に行きました。、

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     石段を登ると、天照太神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)、八幡三社が並んでいます。

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     鳥居の奥には白髭神社古墳群があり、岩戸社は古墳を取り込んで建てられています。

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     この奥に古墳や磐座がありますが、体力が限界に近づいて、探訪は諦めました。

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     紫式部の歌碑。

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     最初に着いたときは外国の方を含めて大勢の方でにぎわっていましたが、16時を過ぎると、閑散としてきました。

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     湖中大鳥居。外国の方は、この鳥居を目がけてやってくると乗合タクシーの運転手さんが言われていました。司馬遼太郎氏の『街道をゆく』シリーズは、「湖西のみち」から始まります。この場所からは表紙のような写真は撮れません。信号はないし、スピードを上げた車が驀進するし、決死の覚悟で国道を横切って撮った貴重な写真です。

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     16時45分に乗合タクシーが来るので、バス停に戻りました。近江高島で3回タクシーに乗って、3回とも同じ運転手さん。私の行動が無謀に見えるらしく、「取り返しのつかないことになるよ」と本気で心配してくださいました。鵜川四十八体仏まで往復したと言ったら、呆れています。

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     近江高島駅に宿のお迎えが来て、ハードな行程は無事にこなせました。あとは温泉に入って、美味しいものをいただいて、極楽です。

     

    京・近江の春旅・・・⑥鴨稲荷山古墳&高島歴史民俗資料館

     ここで一気に古代に突入します。高島市は、古代史のなかでも注目すべき人物の生誕地だという説がありますが、それが継体天皇(オホド王)です。私が日本史とかかわっていたころ、江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説や水野祐氏の三王朝交代説が万世一系論を否定する学説として喧々囂々と議論されていました。古代史については『記紀』のほかには『上宮記』ぐらいしか文献資料がないので、それをどう解釈するかによって、いろいろな理論構成が可能です。

     水野氏の説は、非常に簡単に言ってしまえば、皇室は、①崇神王朝(三輪王朝)、②応神王朝(河内王朝)、③継体王朝の三王朝が交替しているというもので、天皇の名前や考古資料も援用して、センセイショナルに展開されました。ただ、水野氏は継体天皇は越前の勢力だと考えているので、話は簡単ではありません。『日本書紀』によれば、武烈天皇の跡継ぎがいなかったので、福井県にいた応神天皇五世の孫というオホド王が迎えられた、なぜかすぐには大和に入らず、各地を転々としたのち、19年たって、やっと大和に入ったとされています。結婚後、10年ほど住んだ大阪府枚方市にも継体天皇が暮らした樟葉宮跡がありました。

     1902年に県道改修のさい、鴨稲荷山古墳と名付けられた未盗掘の古墳が発見されました。全長60mの前方後円墳で、後円部に横穴式石室が構築され、家形石棺が納められていました。副葬品のおもなものは、金銅製宝冠、飾履、金製耳飾、金銅製大刀などです。被葬者は、6世紀代の貴人で、継体天皇を擁立した三尾氏の族長だと推定されています。

     コミュニティバスがあることはありますが、便数が少ないので、安曇川駅からタクシーで古墳まで行きました。途中で継を体天皇の胎盤を埋めたという胞衣塚が見えたりして、越前・説への対抗意識まんまんです。地図の田中王塚古墳は、継体天皇の父・彦主人王のお墓だと伝えられています。

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     いまは石棺の上に保存のための建物が建てられています。墳丘が良く見えるベンチに荷物を置いて、写真を撮っていたら、自転車で通りかかったご婦人が大声で叫んでいるので、何かと思ったら「カラス! カラス!」。付近には食事ができる場所がないので、買ってきたお弁当を盗まれました。あーあ。しかも、一生懸命撮ったつもりの写真はカメラの不具合で何も写っていないことにあとで気が付く始末。カメラも汚されて、踏んだり蹴ったりです。

     気を取り直して、古墳から150mの高島歴史民俗資料館に行きました。

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     出土品のおもなものは京博が所蔵しています。前日に行ったのですが、特別展の開催時は閉鎖されていてみられません。しかたがないから資料館の精巧なレプリカで我慢しましょう。昨年、「黄金のアフガニスタン展」で見たティリヤ・テペ出土の金冠と並べると、材質もデザインもはるかに素朴ですが、歩揺状垂飾を多用する様式は似ています。

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     ↑鴨稲荷山古墳出土の金銅冠 ↓ティリヤ・テペ遺跡出土の金冠Pho_g10Oookamo3

     履は、装飾が足の裏にまで施されているので、歩けません。「埋葬用の品」か「儀式の際、足が付かないほど高い椅子に着座して履き、足をぶらぶらさせて歩揺をきらめかせた」か、説が分かれています。

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     金製の耳飾のレプリカです。

     継体天皇については、多くの謎があり、朝鮮半島との関連も考えられそうですが、古代から近世にわたる展示品を眺めて、わくわくする時間を過ごしました。タクシーを呼んでいただいて、近江高島駅の近くで降りました。大溝陣屋遺跡や町割り水路などを見学したのち、近江高島駅前に戻りました。

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      1619(元和5)年に大溝藩主として入った分部氏によって整備された武家屋敷地の出入り口の中でいちばん重要な門。

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      分部氏は、町人地の通り中央に生活と防火に備えた町割り水路を設けました。現在の水道のように、水路を流れる水は人々の生活と密着して利用されていたようです。

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     ここから駅に向かう途中に「高島びれっじ」と名付けられた商業施設があります。古民家を利用したお店が多いのですが、屋外休憩所でコンビニで買ったサンドイッチでチープなお昼をいただきました。

     写真は失敗でしたので、以上の写真は、すべて公式サイトからお借りしました。 

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     ここから次の目的地に向かいます。乗合タクシーの到着時間は2時43分です。

    京・近江の春旅・・・⑤興聖寺@朽木

     4月12日(水)になって、雨もやっとやみました。この日は、朽木谷の興聖寺、鴨稲荷山古墳と高島歴史民俗資料館、鵜川四十八体仏と白髭神社と予定がぎっしり。交通機関の時刻表を前に、ああでもない、こうでもないとプランを組み立てていくのも楽しみの一つです。宿の車で駅まで送っていただき、9時21分発の湖西線で1駅、9時24分にJR安曇川駅に着いて、接続が心配だった9時30分発のバスに余裕で乗れました。安曇川を遡って、35分で終点の朽木学校前に着いたのですが、乗客は私一人。お寺の近くを通る路線は1日6便で、午前中は走行しないので、バス停から15分ほど歩かなくてはなりません。大型の車がスピードを上げて行きかう国道367号線は、かつては朽木街道とも鯖街道とも呼ばれた若狭と京都を結ぶ道で、国道沿いに朽木旭屋という鯖寿司のお店があります。朽木街道と言えば、朝倉攻めに向かった織田信長が浅井長政ぬ裏切られて進退窮まったとき、朽木氏の助けを得て、この街道を通って京都に戻った道です。

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     このあと大ショックな失敗をしてしまって、ガッカリです。愛用の安物カメラは、ときどきメモリカードの接続が悪くなって、撮ったつもりが、何も写っていない状態になってしまうので、チェックはしていましたが、肝心の朽木谷の写真がありません。しかたがないので、以下は記憶のために興聖寺さまの公式サイトから画像をお借りしました。 

     10分ほど歩いて、朽木旭屋を過ぎると、右手に集落があって、やっと国道からお別れです。ここは朽木岩瀬という場所で、木地師が住んでいたと伝えられています。ykさまのブログで『脊梁山脈』のご紹介があって、読んでみたことがあります。その小説で語られていた木地師の本拠、近江愛知郡小椋谷から分かれたのが朽木の木地師です。

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     集落の右側の杉と藪椿が茂る坂道を上ると、木立の奥に曹洞宗の興聖寺が建っています。鎌倉時代に近江の守護、佐々木信綱が道元禅師の勧めで建立したと伝えられていますが、当初は安曇川の右岸に建てられ、江戸時代になって、室町幕府の将軍の仮御所があった現在の場所に移されました。

     まずお堂の前の1530年に三好長基による動乱の京都から朽木に逃れて2年ほど滞在した室町幕府12代将軍足利義晴を慰めるために作られたという池泉回遊式庭園を拝見しました。ここを訪ねる動機となった『ー白の聖都ー小説白山平泉寺』に出てくる13代将軍義輝も細川幽斎(藤孝)を従えて6年半滞在します。この地で生まれた幽斎の子の忠興は千利休を当庭園に案内したそうです。管領の細川高國の作庭とされる庭園は、他に朝倉遺跡庭園と北畠氏館跡庭園があります。朝倉遺跡は昨年訪ねましたが、北畠氏館跡はかなり難易度が高そうです。何度も言及した平泉寺の旧玄成院庭園も高國の作と伝えられています。

     庭園名が旧秀隣寺庭園(足利庭園)となっているのは、この場所に江戸時代に建立されたお寺が秀隣寺で、秀隣寺が他所に移転したのち、移ってきたのが興聖寺だといういきさつがあります。

      庭園の面積は234坪。上部に谷水を引いて「鼓の滝」とし、下流は曲水にして池の中には鶴と亀の島を配しています。楠の化石の石橋をしつらえた原形は築庭当時そのままですが、あとで住職から7000万円の予算で改修する予定だと伺いました。半分は国の補助、残りは自力で調達しなければならないが、檀家は100軒で大変だと嘆いておられます。お金持ちの方、どうかご寄付を!

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     樹齢500年近い老椿。利休は一期一会の心を表す花だと称賛したそうですが、花の盛りに出会えて幸せでした。

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     雪がまだ残るお堂に上がり、住職と住職夫人からご説明をうけました。七堂伽藍を構えたお寺は、いまは司馬氏おっしゃるようなつつましいお寺です。

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     本堂に細川護熙氏ご夫妻と学生時代の秋篠宮さまの写真が掲げてありました。細川家ゆかりのお寺ですから、お越しになるのはわかりますが、秋篠宮さまがなぜ来られたのかは、よくわかりません。

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     住職夫人の丁寧なお話を伺ったのち、「階段を上って、ゆっくりご本尊様を拝んでください」と言って、立ち去られたので、お言葉に甘えました。写真も可で、とてもおおらかなお寺です。

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     本尊釈迦如来像(国・重要文化財)は、平安後期後一条天皇の皇子が幼少のとき亡くなられ、天皇の叔父の関白頼道が供養に彫らせた三仏の一体。桧の寄木造りで、作者は不明ですが、定朝様式です。どういういきさつで、ここに安置されたのでしょうか。

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     縛り不動明王坐像。朽木時頼が北条高時の命令で千早赤坂城を焼き討ちしたとき、楠木正成の念持仏が兵火に遭いそうだったのを救い出して帰り、以後、鎮守としてまつられました。泥棒が盗もうとしたら、金縛りにあったので、この名があると言われています。

     帰りのバスは、小学生が1人乗ってきて、ほっとしたのもつかの間、すぐに降りてしまって、またしても貸切です。地方創生大臣も的外れな失言をしていないで、こういう状況をどうにかできないものでしょうか。江若交通のバスは、12時12分に安曇川駅に着きました。

     

     

























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    京・近江の春旅・・・④宝船温泉

     私の旅は、駅前ホテル泊が多いのですが、今回は珍しく温泉旅館に2泊しました。昨年の3月に湖東の高月から越前を旅した時に読んだ『-小説 白山平泉寺ー 白の聖都』の中心人物が足利義輝が朽木谷にいたときに土地の女性との間に儲けた子どもだったという設定になっていて、朽木谷という場所に興味を抱いたのが、この旅の発端でした。いろいろ探して見つけた、近江高島の宝船温泉・ことぶき。いつもの楽天トラベルから予約したら、ほどなく女将からメイルがきて、細かい心遣いに、ほっとしたものです。

     送迎は午前9時から10時と午後3時から5時ということでしたので、最初はタクシーでチェックイン。まずは露天風呂で疲れを癒します。4室、1日4組限定の小さなお宿ですから、浴室は貸切にできます。お食事は1日目はお部屋で、2日目は個室のお食事処でいただきましたが、泊まった方はこぞって激賞されています。

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     近江牛の陶板焼き野菜添え、自家製ソーセージ、サーモンの燻製。

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     鴨の燻製と鴨の生ハム、筍、自家製食前酒(2品)。


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     琵琶鱒のお造り。

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     近江牛のブラウンシチューと自家製パン。


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     山菜とわかさぎの天ぷら。

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     あぶり牛トロ寿司。

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     鴨のつみれ鍋。 

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     アドベリーとカシスのジャムを添えたアイスクリーム。

     ↓は朝食の一部です。 確かに皆さんがおっしゃるように、ここでしかいただけない手作りのお料理が並びましたん。

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     お部屋はこういう感じ。

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     以下は宿の公式サイトから。

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    琵琶湖はすぐそば。

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     客室へのアプローチ。

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     露天風呂は二畳ぐらいの大きさです。

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     露天風呂の入口。

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     女性用内風呂。

     大女将、女将、若女将の三世代が、役割分担をして、気持ちのよい連携プレー。表に出てこないご主人が板さんのようでした。

     では、大絶賛かというと、そうはいきません。一つはバリアフリーの配慮があまりないので、足腰に問題があると辛いです。お食事は正座、浴室に手すりはありません。つっかけを履いて往復するアプローチもちょっと怖い。その辺は覚悟が必要です。

     もう一つは、ぐっと些細なことかもしれませんが、インテリアのセンスがイマイチ。設備も昭和レトロの世界です。

     でも、なかなかいただけない新鮮な食材を使った美味しいものがどっさりいただけます。目の前が琵琶湖というロケーションで、のんびりするにはいい宿です。

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