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映画「散り椿」

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  年が明けて初めて電車に乗って映画を観てきました。周回遅れの映画を上映してくださる有難い下高井戸シネマです。観たのは長谷川等伯の屏風が出てくるというので、、昨年から気になっていた「散り椿」。すべてがロケだそうですが、とても美しい映画でした。ロケ地の多くが富山県だと聞くと、旅心がむくむくです。

 いまさらストーリーを記すまでもないと思いいますが、公式サイトには以下のように書かれています。

  享保15年。かつて藩の不正を訴え出たが認められず、故郷・扇野藩を出た瓜生新兵衛(岡田准一)は、連れ添い続けた妻・篠(麻生久美子)が病に倒れた折、彼女から最期の願いを託される。 「采女様を助けていただきたいのです……」と。 采女(西島秀俊)とは、平山道場・四天王の一人で新兵衛にとって良き友であったが、 二人には新兵衛の離郷に関わる大きな因縁があったのだ。 篠の願いと藩の不正事件の真相を突き止めようと、故郷・扇野藩に戻った新兵衛。 篠の妹・坂下里美(黒木華)と弟・藤吾(池松壮亮)は、戻ってきた新兵衛の真意に戸惑いながらも、凛とした彼の生き様にいつしか惹かれていくのだった。 散り椿が咲き誇る春—— ある確証を得た新兵衛は、采女と対峙することになる。そこで過去の不正事件の真相と、切なくも愛に溢れた妻の本当の想いを知ることになるのだった

 しみじみ知らないことが多いと嘆きましたが、散り椿は、山茶花のようにハラハラと花弁が散る品種で、原作の表紙になっている速水御舟の「名樹散椿」は、京都・地蔵院(椿寺)の五色八重散り椿を描いています。昨年秋の山種美術館の展覧会を見逃したのが残念です。

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 長谷川等伯を追って、生地の七尾市まで行ったほどですが、見事な複製が使われているのは、3点の屏風です。

 お城の中で、城代家老と采女が話し合っている場面など、何度か出てきたのは、ボストン美術館蔵の「龍虎図屏風」。

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 さらに、城内の広間にめぐらされているのは、智積院で拝見した目も彩な「松に秋草屏風」。

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 和紙問屋の田中屋惣兵衛の寝所を飾っていた、相国寺承天閣美術館の「萩芒図屏風」は、闇の中でわずかな光を受けて、美術館で見るのとは全く違う妖しさを秘めていました。

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  扇野藩は架空の藩で、江戸から戻ってきた若い藩主が入るお城は、昨年、バスの窓から眺めた彦根城でした。戻ってきた新兵衛が通る見事な栂並木は、立山寺という曹洞宗の名刹の参道です。行ってみたいと調べてみましたが、ローカル線から町営バスが1日4便ですから、公共交通では無理かもしれません。

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 享保15年という時代設定から浮かんでくるのは、享保17年の大飢饉。昨日、たまたま見たテレビの番組で、この飢饉で250万人が飢餓に瀕し、その対策としてサツマイモの栽培が奨励されたと言っていましたが、藩財政が苦しくなってきて、特産物に財源を求めるようになっていたことが、この物語の背景にあると原作者は考えていたのかもしれません。田中屋と結んで私腹を肥やす悪家老、颯爽と江戸から戻ってくる若殿、正義を求めて追放されるヒーローなど、いかにもという展開ですが、圧倒的な映像美にすっかり魅せられました。

 豪農の館・内山邸は、采女の屋敷として登場します。庭に散り椿を移植したそうです。

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  近ごろ流行りの聖地巡礼など無縁だと思っていましたが、雪が解けたら行ってみようかというのは本気です。そのあと神泉まで行って、松濤美術館で廃墟の絵を眺めて、いい日を過ごしました。「アンナ・カレーニナ」の予告編で流れた「ノルマ」のアリアを聴いて、また下高井戸に行く気になっています。




 

名残の紅葉・・・②大覚寺

 2日目に大覚寺に行ったのは、単なる思い付きです。一つは、バスが終点から終点で、絶対に座れること、しかも座っている時間が長いので、体力的に楽なことなど、とてもつまらない理由で市バスに乗りました。大覚寺は高校のときに遠足で行って以来ですから、大昔もいいところです。

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 せせらぎのある風景って、いいですね。

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 大覚寺は平安時代に開かれた由緒あるお寺ですが、だび重なる火災のため、一番古い建物でも桃山時代の建立です。江戸時代初期の表門(玄関門)をくぐると、左側に生け花が3点、展示されていました。

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 大覚寺は華道の嵯峨御流の総司所が置かれています。この流派を習っていた姉に敬意を表して一枚だけ。

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 式台玄関の左に宸殿(重文)が建っています。

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 宸殿は、後水尾天皇の中宮・東福門院(徳川秀忠の娘)の旧殿を移築したものと伝えられています。蔀戸を用いた寝殿造風の建物で、屋根は入母屋造、檜皮葺、周囲に広縁をめぐらしています。内部は大きく4室に分かれ、南正面の西側が「牡丹の間」(33畳)、東側が「柳松の間」(18畳)、奥の西側が「紅梅の間」(22畳)、東側が「鶴の間」(12畳)。各室には襖絵があり、中でも「牡丹の間」の牡丹図と「紅梅の間」の紅梅図の襖絵は、狩野山楽が描いたものですが、オリジナルは収蔵庫に収められ、ここにある襖絵は複製なので、気前よく写させていただけました。2013年に京博で開かれた特別展「狩野山楽・山雪」で姉とともにオリジナルを鑑賞したのは懐かしい思い出です。

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 牡丹の間の牡丹図。

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 うぐいす張りの廊下と「右近の橘」。

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 「左近の梅(桜ではありません)」と勅使門。前庭には一面に白砂が敷き詰められています。

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 庭を隔てて正寝殿(重文)が見えます。

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 正寝殿は、入母屋造、檜皮葺きの桃山時代建立の書院造建築で、内部は大小12の部屋に分かれています。

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上段の間。こちらの襖絵も複製です。

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 諸堂を結ぶ回廊は、縦の柱を雨、直角に折れ曲がっている回廊を稲光にたとえて村雨の廊下と呼ばれています。

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 五大堂(本堂)の廊下から大沢池が見えます。

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 五大堂の東面に池に張り出すような広い濡れ縁(観月台)があります。

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 大沢池のほとりを散策しました。入口付近に1892年に建立された「津崎邨岡碑」が立っています。大河ドラマにも登場した津崎村岡局の顕彰碑です。

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 大沢池は、周囲約1㌔の日本最古の林や泉のある人工の庭園です。

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 池畔の心経宝塔は、昭和42年(1967)に嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立されました。

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 この先に名古曽の滝跡があるのですが、台風で倒木が多く、立ち入り禁止でした。

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 門前からバスで京都駅まで戻ったのですが、野々宮付近の竹林の小径へ通じる道は大混雑でした。また京都に来ることができるかしらと思いながら、ラッシュアワーを避けて帰宅しました。

名残の紅葉・・・①東福寺

 仁左衛門さんの権太を見たさに、12月4日に南座に行ってきました。わずか10日前なのに、この気温差はなんでしょう。最寄りの私鉄では「ただいま冷房を入れております」というアナウンスが流れ、京都では汗だく。もう日帰りのできる歳ではありませんので、南座から京阪電車で1駅の安いホテルを予約しました。新幹線からいちばん近い在来線が奈良線。奈良線で一駅の東福寺は駅が京阪と隣接しています。というわけで、50年ぶりで東福寺に行ってきました、伏見稲荷と並んで外国人観光客が多い場所ですが、紅葉も盛りを過ぎていたので、普通の込み具合です。

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  尺八道場の明暗寺は、廃仏毀釈で三条にあったお寺が破壊されたあと、東福寺塔頭の善慧院で再興します。

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 あまり人がいなくて、ほっとしました。

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 境内の中央に位置する方丈は、明治14年(1881)12月の火災で焼失しますが、明治23年(1890)に再建され、この方丈の東西南北に趣向を凝らした庭園を配しました。庭園が完成したのは昭和14年(1939)です。昭和の作庭家重森三玲が手がけた四つの近代禅宗庭園は釈迦の生涯を意味する「八相成道」に因んで「八相の庭」と称されています。

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 方丈東庭は、狭い空間の中に七つの円柱の石組みと天の川を表す白川砂、苔、生け垣を配し夜空に輝く北斗七星に見立てています。撮影に失敗して円柱は四つしか写っていませんが、東司(トイレ)の解体修理の際に出てきた礎石を使っています。

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  南庭は方丈庭園の中でもいちばん広く210坪あります。巨石によって力強く配置された四仙島と、円く描かれた砂紋の八海が配置されモダンな空間です。正面に建つ向唐破風の表門は昭憲皇后(明治天皇の皇后)の寄進と言われ、明治期唐門の代表作です。

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  西庭は、サツキの刈込みと葛石(かずらいし)で表現された市松模様の庭で、「井田の庭」とも呼ばれます。サツキの刈込みの敷石に使われている葛石は、社寺の建物の壇の先端にある縁石のことですが、この葛石ももとは方丈で使われていた縁石を再利用したものです。

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 北庭は,釈迦の入滅までを表したもので、最初は規則性のある市松模様が、どんどんと崩れていき,,,一つずつの石が東へと消えていきます。ここで使われている四角い敷石は、勅使門から方丈に向けて敷きつめられていた切石を再利用したものです。奥のサツキの丸い刈込みや樹々が借景となり、秋には通天橋の紅葉までも借景として取り込んでしまう色彩豊かな庭園となっています。

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 お天気が良くないので、大方丈の「八相の庭」でゆっくり時をすごし、外国の観光客に大人気の通天橋は、北庭の西側の通天台から眺めました。

 重森三玲の存在に気付いたのは、うかつにも最近です。昨年、岡山県立美術館で復元された書院を拝見して、いつかは吉備中央町に行ってみたいと思っていますが、どうなりますか。いつもバスで素通りしている松尾神社の庭園も作例の一つだそうで、次の機会があれば行ってみたいし、また夢が膨らみます。

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 岡山県立美術館内に復元された書院。

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 三門です。中のお宝にはなかなか会えません。

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 前回の記憶に残っていたのがここだけとは情けないお話。重文のトイレです。
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 三門や東司とともに火災を免れ、重文に指定されている禅堂は、中世期より現存する最大最古の禅堂だそうです。

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 塔頭寺院がたくさんありますが、海北友松がいたのはどこかわかりませんでした。

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 戊辰戦争のとき、長州藩は東福寺に本陣を置きました。塔頭の退耕庵の門前に「戊辰役殉難士菩提所」の石碑が立っています。 

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 いつもこれが最後かもと思いながら、まだ未練があります。仁左衛門さんの「いがみの権太」をとうとう見ることができました。われながら知らないことが多くて呆れてしまいますが、関西弁で親の言うことを聞かなかったり、元気すぎる子どもを「ごんた」と呼ぶのは、この~演目からきているなんて初めて知りました。

湖東の旅・・・⑤五個荘

  石馬寺のバス停から八日市に向かって二つ目の金堂バス停で下車すると、五個荘のまちなみは至近距離です。近江鉄道バスはJR能登川駅と近江鉄道八日市駅を結んでいます。

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 五個荘は、湖東平野のほぼ中央に位置し、北・西・南の三方を和田山・繖山・箕作山に囲まれ、残る東側を愛知川が流れています。この地域の平野部には古代神崎郡条里を受け継いだ条里制地割が残っていて、金堂地区は十条五里と十一条五里にまたがっていたと推定されています。金堂の集落は、この条里制地割を基本とし、江戸時代の前期には大和郡山藩が元禄6年(1693)に設置した金堂陣屋を中心に、その三方に弘誓寺・浄栄寺・勝徳寺等の寺院を配置し 更にその周囲に民家が広がる集落構成の基礎ができたと考えられています。

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 まず近江商人屋敷の中で、いちばん近い外村繁邸に向かいました。

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 白壁と黒塀、静かな町並みです。

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  堂中通りに面して金堂馬場の五輪塔が立っています。総高197cmの7尺塔で、ほぼ完全な形です。四方に四門の梵字(キャ・カ・ラ・バ・ア)を配し、地輪に「正安二季庚子二月日」、「願主沙弥蓮□□建之」と刻んでいますが、正安2年は1300年に当り、在銘塔としては近江でいちばん古い五輪塔です。

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 五個荘近江商人屋敷として一般公開されているのは、外村繁邸・外村宇兵衛邸・中江準五郎邸・藤井彦四郎邸の4邸です。外村繁邸の門前に行くと、「本日休館」の張り紙があって、門が閉まっています。そんなーっ! 呆然としていたら、男性が顔をのぞかせたので、事情を聞いてみました。28日から30日までイベントのため、4邸はすべて休館だとおっしゃるので、わざわざ東京から来たんですよと泣きついたら、内緒で入れてくださいました。それはありがたかったのですが、名園を見ながら外村繁邸では10000円の和食、藤井彦四郎邸では15000円のフレンチ、どちらも定員10名というイベントの告知は観光協会のHPにあっても、4邸すべて休館とはどこにも書いてありません。

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 外村繁は、昭和10年「草筏」が芥川賞候補、昭和13年池谷賞を受賞、昭和31年「筏」が野間文学賞を受賞した滋賀を代表する作家です。外村宇兵衛家の分家として江戸時代末期に建てられた屋敷で、総面積2395平方メートル・建物面積496平方メートルです。門を入ると川の水を取り入れた川戸と呼ばれる水屋があり、玄関に続く石畳の右手には広い庭があります。小説を書いていた小座敷や女中部屋・松の節つきの一枚板・蔵などがあり、各部屋からは庭が見えます。家の間取りはその用途によって幅広く使用できる工夫がされていました。                        

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 土蔵は「外村繁文学館」になって、生涯を伝えるパネルや遺品、手書きの原稿などが展示されています。

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 川戸は、 屋敷内に水路を引き込んで屋根をかけたもので、野菜や鍋・釜の洗い場として利用した他、淡水魚を飼ったり、防火用水の役目も果たしたそうです。岐阜県の郡上八幡にも似たような工夫があったのを思い出しました。

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 外村繁邸の隣の陣屋稲荷が建っている場所は、金堂陣屋跡です。元禄6年(1693)に大和郡山藩の飛び地所領を管理するため金堂陣屋が置かれ、陣屋を中心に条里制地割に沿って寺院や農家が整然と配されます。その後、五箇荘商人が誕生すると商家の本宅が建つようになり、金堂は農家と商家の本宅が混在する半商半農の集落となりました。

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 外村繁邸で出会った方(たぶん観光協会の方だと思います)に、どこか開いているところはないかと伺って、教えていただいたのが、「近江商人博物館」です。途中に大城神社が建っています。観音寺城の鬼門に当たり、佐々木氏の守護神として信仰されました。城郭のような石垣にびっくりです。

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 外村繁氏も通っていた五個荘小学校の正門です。

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 五個荘小学校の向かいの近江商人博物館で近江商人の発生前史から隆盛期、さらに未来へと続く近江商人について、映像や模型、レプリカ等で知ることができました。近江商人といっても、湖西の高島商人、近江八幡の八幡商人などが知られていますが、日野商人がもっとも起源が古く、五個荘でも小幡商人と保内商人の対立など、興味深い内容です。

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 2階には中路融人記念館があって、「日本画ができるまで 小下図おひろめ展」が開催中でした。恥ずかしながら、画家の名前も小下図という言葉も知りませんでしたが、母の故郷の湖国・東近江の原風景を愛して、描き続けた画家の制作過程がわかる小下図と完成した絵が並べて展示されています。幻想的な日本画の世界に心惹かれるひと時でした。

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 こういう絵を描く方です。

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 帰り道で「景清道」を見つけました。平安末期、平家再興を祈願するため、京を目指した平家の家人で、悪七兵衛の異名を持つ伊藤景清(藤原・平)が通ったという伝承がありますが、中山道の間道として機能したようです。佐々木六角氏が近江の領主だったころは、五個荘町から野洲まで続いていて、昨年、安土からタクシーで行った教林坊のそばも通ります。

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 バス停に戻る道で見かけた美しい土蔵、

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 寺前・鯉通りに二軒のお寺が並んで建っています。浄栄寺は金堂という地名の由来にかかわるお寺で、聖徳太子がこの地を訪れたさい、大きな金堂を建てたが、時が過ぎて朽ちていたのを宝治元年(1247)に浄栄法師が再興したと伝えられています。

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 弘誓寺山門は元禄5年(1692)に建立されました。

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 清らかな水が流れる堀割が縦横に走り、錦鯉が優雅に泳いでいます。

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 弘誓寺本堂は、宝暦14年(1764)の建築で、真宗の大型本堂として江戸時代を代表するものです。

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 外観だけ写してきました。こちらは外村宇兵衛邸です。

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 中江準五郎邸は、昭和初期に朝鮮半島や中国で20店舗の三中井百貨店を営んだ中江家4兄弟の末弟の本宅です。休館日の札が恨めしい。

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 最後に「金堂まちなみ保存交流館」に寄りました。主屋は江戸時代に平屋の建物として建てられ、明治6年(1873)に2階が増築されます。当時は外村一族の外村宗次郎が住んでいましたが、その後、三中井百貨店の中江4兄弟の三男・富十郎の邸宅になります。戦後は荒廃していたのを改修して保存会が管理していて、親切な男性が詳しく説明してくださいました。

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 この地域に山脇製菓の滋賀工場があるそうで、かりんとうを売っていました。 お土産を買おうにもお店など一軒も見当たらないし、親切にしてくださったので、買ってきました。金堂のバス停から能登川駅にに戻り、ホテルで預かっていただいていた荷物を受け取って、帰途につきました。

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 米原のお弁当は、お値段が安いのに、地元の食材をたくさん使って、お味もなかなかです。

 3日間とも石段だらけの旅でしたが、雨はバスの中と夜だけで、無事にハードな旅を終えることができて喜んでいます。近江と渡来人、近江と石造文化など、いろいろなテーマを考えながら歩きました。




 



湖東の旅・・・④石馬寺

 11月29日(木)は、夜来の雨もあがって、朝から秋晴れ。自然石の滑りやすい石段300段と聞いていた石馬寺(いしばじ)に無事行けそうです。初日に乗った八日市行の近江鉄道バスは6分で石馬寺バス停に着き、そこからのどかな道を10分ほど歩くと、石標が立っています。真っすぐ進み、数分で石段の下に到着しました。

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 紅葉の木陰から鬼のような石段が始まります。

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 滑らないようにという心優しい立札と手すりがありますが、乱れ石積みの古道を慎重に登りました。

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 昨日、バス旅で出会った男性は、27日に訪ねられたそうですが、拝観は9時半からだと言われます。お寺のHPもこの張り紙も9時からと書いてあるので、不思議だと思っていたら、数分後に謎が解けました。

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 石と苔と真っ赤な落ち葉のコントラストに見とれていると滑ります。 

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 写真ではなだらかに見えますが、実はかなりの段差で、汗だくになりました。六所神社と石馬寺の分岐点あたりが石段の中間です。ここで下りてくる方に出会いました。幼稚園に通うお子様を送っていかれる住職夫人です。9時に境内に入れますが、拝観は戻られてからなので、9時半だと判明しました。それにしても1日に最低2回はこの石段を昇り降りされる暮らしはさぞかしご苦労がおありでしょう。

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 お地蔵様に励まされて300段の「かんのん坂」を登り切りました。

 寺伝によると、約1400年前、聖徳太子が、鎮護国家、仏法興隆を祈る道場を求め、繖山 の麓まで来ると、駒は歩みを止めて進まなくなり、傍らの松の樹につないで山に登ったところ、瑞雲たなびく風光明媚な風景が広がっていた、聖徳太子は「積年の望みをこの地に得たり」と深く感動して再び山を下ると、松の樹につないだ駒が傍の池に沈んで石と化していた、この奇瑞に大いに霊気を感じ、この山を「御都繖山」と名付け寺を建立、馬が石となった寺「石馬寺」と号されたと言われています。

 建立以後、法相宗、天台宗と転宗し、近江源氏の佐々木氏の帰依を受けますが、信長の上洛に反対した佐々木氏と戦った信長の兵火で伽藍や院坊をすべて失います。豊臣氏の時代は寺領と山林を没収されますが、
徳川氏の時代に復興しました。正保元年(1644)松島・瑞巌寺の雲居国師を中興の祖として迎え、臨済宗妙心寺派の寺院として現在に至ります。

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 300年の歴史を持つ、由緒ある本堂です。

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 役行者をお祀りする行者堂です。なんという美しい佇まいでしょう。

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 旧本堂跡は墓地になっていました。

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 石馬寺という名前のお寺はここだけだそうですが、石馬寺垣も初めて聞く名前です。

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 石庭の写真はHPからです。

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 夫人が帰ってこられて、平成12年(2000)に完成した宝物殿の扉を開けてくださいました。274cmの阿弥陀如来坐像を中心に重文のお像がずらりと並び、丁寧な説明の音声が流れます。一人で拝観するのはもったいないようなお堂でした。

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 如来阿弥陀坐像(平安時代)は、膝上で定印を結ぶ丈六像です。県内には丈六の大像は少ないため、貴重な作例だそうです。お椀を逆さにして頭に乗せたような肉髻、細かい螺髪、顔立ちの優しさ、量感に乏しい体の表現、抑揚に乏しく衣文線の彫出などから、平安時代後期制作の阿弥陀像だと考えられています。

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 十一面観音立像は2体ありますが、そのうちの1体です。衣文線を大きく刻み、渦文を配し、変化に富んだ天衣を廻らすなど古様なので、平安時代前期の制作と考えられています。

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 白洲正子氏が『かくれ里』の中で「私の興味をひいたのは、水牛に乗った大威徳明王であった。…ことに水牛がすばらしい。…恭順を示しながら、一朝事あれば飛び出しそうな気配である」と絶賛された平安時代後期の大威徳明王です。水牛が右足を曲げて立とうとしているところに大威徳明王が坐している姿を表現しています。

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 異色を放っているのが役行者及び前鬼・後鬼像です。顔の表情の皺や痩せた身体を表現するための筋肉など、作者の巧みな技術が窺えます。制作は鎌倉時代(13世紀後半)とみられますが、この時期で1mを越える本格的な役行者としては貴重な作例です。 帰るとき、「役行者大菩薩御影」をくださったので恐縮しました。   

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 本堂には聖徳太子の直筆と伝えられる三文字の木額がかかっています。

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 境内のあちこちに石仏がおられます。

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 300段の石段を下ったところに石馬寺縁起発祥の古い池があります。聖徳太子が山を下ると、松の樹につないでおいた馬が石になって池に沈んでいたという伝説が残っていますが、残念ながら池が濁って定かではないので、HPの写真を借用しました。

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 繖山を見ながら、バス停に向かいました。バスを下りてから、住職夫人とご子息以外はどなたにも会いませんでした。

湖東の旅・・・③百済寺・永源寺

 午後は釈迦山百済寺と永源寺を訪ねます。百済寺は、飛鳥時代の推古14年(606)に聖徳太子の勅願によって開かれた近江最古の仏教寺院だと伝えられています。 創建当時は、日本に仏教を伝来した渡来僧や先進的な文化、技術を伝えた渡来系氏族の氏寺として発達しました。 平安時代になって比叡山延暦寺が開創されると、百済寺も天台宗となり、規模は拡大されて、「湖東の小叡山」「天台別院」と称されるほど壮大な寺院になります。
 平安末期から鎌倉、室町時代には、度重なる火災や戦乱による厄災によって、建物の多くを焼失しましたが、なお勢力を保ち続け再興を果たします。しかし、 室町時代から安土桃山時代に替わる元亀4年(1573)に、織田信長の焼き討ちによって全山が灰燼に帰してしまいました。本尊「十一面観世音菩薩」(別名:植木観音菩薩、全高3.2m)は背後の山を越えた8㎞先の奥の院に避難することができ焼失を免れています。天正12年(1584)には仮本堂が建てられたものの、長らく再建には至りませんでした。
 江戸時代になり、寛永14年(1637)に明正天皇から再建を勅許する論旨を得て、僧侶たちは諸国に勧進し、幕府の老中や大奥、東叡山寛永寺、彦根藩主などから寄進、喜捨を受け、慶安3年(1650)に本堂、仁王門、山門(赤門)等が完成し、いまもその姿を留めています。

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 小野道風が書いたという説明文がありましたが・・・。

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バスの駐車場から少し歩くと、本坊・喜見院と庭園があり、庭園から遠望台まで美しい坂道を登っていきます。

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 遠望台に着きました。

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 遠望台に『信長公記』とルイス・フロイスの完訳『日本史』を引用した説明板がありました。最近、ある方がルイス・フロイスの『日本史』を引用と断らずに使って問題になっていますが、同じことをして大学を追われた方を知っています。
 
  『信長公記』百済寺伽藍 御放火の事
四月七日、信長公、御帰陣。其の日は守山に御陣取り、此れより直ちに百済寺へ御出      で、二、三日御逗留あって、鯰江の城に佐々木右衛門督義治立て籠もるを、攻め衆人数、佐久間右衛門尉・蒲生右兵衛大輔 ・ 丹羽五郎左衛門尉・柴田修理亮に仰せつけられ、四方より取り詰め、付城させられ侯。
近年、鯰江の城、百済寺より持ち続け、一揆同意たるの由、聞こし召し及ばる。
四月十一日、百済寺堂塔・伽藍・坊舎・仏閣、悉く灰燼となる。哀れなる様、目も当てられず。其の日は岐阜に至りて御馬を納められ侯ひき。
 百済寺が信長と敵対する佐々木氏と結んでいると思った信長が焼き討ちを命じたことがわかります。
 イエズス会の宣教師として来日したルイス・フロイスは、織田信長と二条城の建築現場で出会いました。フロイスは「優れた理解力と明晰な判断力を有し、神仏やその他の偶像を軽視し、全ての異教的占いを信じない。宇宙に創造主はおらず、霊魂の不滅などもなく、死後には何も存在しない、と公言している」と信長の宗教観を書き表していますが、百済寺についても「百済寺と称する大学には、相互に独立した多数の僧院、座敷、池泉と庭園を備えた坊舎1000坊が立ち並び、まさに“地上の天国”」と絶賛し、信長の焼き討ちによって失われた百済寺を深く惜しむ内容を書き残しています。

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 江戸時代に再建された本堂です。

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 仁王門を出て長い石段をひたすら下ります。
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 散り紅葉の参道を歩く猫さん。

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 このあたりは、かつての本坊があったところです。

 湖東三山は天台宗のお寺でしたが、最後に行った永源寺は臨済宗永源寺派大本山です。
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 永源寺は瑞石山(飯高山)と愛知川(音無川)の山中に建っています。室町時代初期の康安元年(1361)に近江の領主佐々木氏頼が寂室禅師を迎えて開山しました。戦国時代になると、度重なる兵火で焼かれ、現在の伽藍は江戸中期以降に再興されたものです。周囲を隔てる土塀を構えないのは、権威を嫌った開山の遺志によっています。石段や坂道が険しかった湖東三山に比べると、羅漢坂を除けば楽勝です。

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 120段の石段(羅漢坂)を上ると、左側の岩山に釈迦・文殊・普賢像とユニークな表情をした十六羅漢像が迎えてくださいます。

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 総門の前に来ました。
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 山門(重文)は、寛政7年(1795)井伊家の援助等により着工し、7年の歳月を費やして享和2年(1802)に完工しました。 楼上に釈迦牟尼佛・文殊菩薩・普賢菩薩と十六羅漢を奉安しています。

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 本堂(方丈)は、康安元年(1361)佐々木氏頼が創建しましたが、度重なる火災によって焼け失せます。現在の建物は明和2年(1765)に井伊家の援助で建立されたもので、屋根は国内屈指の葦葺きです。

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 法堂の前の池は、お洒落です。

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 経堂は応永11年(1404)佐々木満高が創建。 現在の建物は延宝4年(1676)南嶺禅師が再建しました。
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 開山堂は開山寂室禅師を祀るお堂です。 享保10年(1725)に彦根城主・井伊直惟から能舞台の寄進を受けて再建されました。

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 紅葉は盛りを過ぎて人出も減ったと思っていたら、大勢の人が坂を登ってきます。愛知川に架かる橋は日没後のライトアップを見る方々で埋め尽くされていました。

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 総門の提灯に灯りがともって、バスの旅も終わりに近づきました。定期観光のメリットは、苦労しないで目的地に行ける、拝観手続きや食事の予約などはガイドさん任せで、オプション以外はお財布の出番がない、同好の方と会話が弾む等々。デメリットは、集合時間が気になって、慌ただしい、いきなり目的地に着くので、苦労してプランを立て、地元の方と触れ合い、わくわくしながらたどり着いたときの達成感がない、等々。

 永源寺前からバスに乗ったころから、雨が降ってきました。天気予報では午後は雨ということでしたから、やはり晴女かなと少しうぬぼれています。彦根駅前で大半が下車し、能登川のホテルに戻りました。最近は個人情報うんぬんで、住んでいる都道府県を聞かれるだけになりました。首都圏から来た方が多かったのですが、北海道から独りで来られた年配のご婦人がおられて、ガイドさんが驚いていました。

 1日でこんなに紅葉漬けになったのは、初めて。盛りは過ぎたとはいえ、その美しさはじゅうぶん体感できました。どのお寺も続々と観光バスが到着していましたが、一週間前はもっともっと混雑していたそうですから、かえってよかったのかもしれません。

 

湖東の旅・・・②金剛輪寺・西明寺・一休庵

 2日目は、私としては異例の定期観光利用です。湖東三山はずっと前からパソコンの「次の旅」と名付けたフォルダーに居続けていましたが、いま行っておかないと、無理になりそうです。いずれも公共交通ではアクセスが難しく、季節運行のシャトルバスは11月25日で終わりですから、12月1日まで運行している定期観光に申し込みました。湖東三山(金剛輪寺・西明寺・百済寺)と永源寺を回るコースです。

 バスは長浜から米原を経由して、最終出発地の彦根は10:35発です。少し早めに彦根に着きましたが、どこかに入るほど時間はないので、季節限定一周20分の「ご城下巡回バス」に乗りました。子どもたちが小学生だったころ、彦根と小浜に泊まる旅をして以来の彦根の町です。

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 乗客は31名。最初に金剛輪寺に着きました。ここがいちばんハードだという噂ですが、観光バスは二天門前の急な階段の少し下まで入れます。ただし、この場所は駐車禁止ですから、帰りは総門の前まで長い長い石段を下りなければなりません。

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 金剛輪寺は奈良時代中期の天平13年(741)、聖武天皇の勅願により、行基が開いたと伝えられますが、確実ではありません。平安時代に天台宗の開祖の最澄の弟子、慈覚大師円仁が天台宗の寺院として金剛輪寺を再興します。その後は比叡山の影響下で大々的に発展し、中世には100を超える僧坊が境内に建ち並ぶ大寺院になりました。しかし、元亀2年(1571)、比叡山が織田信長によって焼き払われると、比叡山の傘下であった湖東三山も、その標的とされ、天正元年(1573)に兵火によって炎上してしまいます。

 幸いにも、境内のいちばん奥に位置する本堂大悲閣、三重塔、二天門は、焼失を免れました。これは僧侶が「既に全山焼失」と虚偽の報告をしたため、それ以上の放火がなされなかったためだそうです。本堂大悲閣は、鎌倉時代の和様建築の代表として国宝に指定されています。

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 本堂で住職様の有難いお話を拝聴。罰当たりにも、途中で抜け出して、混まないうちに内陣の御仏を拝ませていただきました。本尊の聖観音菩薩(天平期)は秘仏で、住職が一代に一度だけ開帳できるそうですが、現住職はまだお若いので、30年ぐらい先というお話でした。9体の重文のお像のうち、日本最古の大黒天は、11月9日から12月9日までの特別公開です。

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  日本最古の大黒天半跏像(弘仁期)。

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 木造十一面観音立像(平安中期)

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  三重塔は古文書に寛元4年(1246)4月9日の記事があり、国宝の本堂より40年余り先に建立されたことがわかります。江戸時代末期には荒廃して三重目が欠損し、初重と二重目を残すだけという状態でしたが、昭和49年(1974)に復元されました。

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 二天門は本堂より遅れて、室町時代の中ごろに建立されました。八脚門ともいわれるように当初は楼門でしたが、江戸時代中期に二層部分を取り壊され、創建当時の姿ではありません。

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 本堂から山門まで長い石段が続き、参道の両側の千体地蔵には真っ赤な風車が供えられています。 

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 参道の途中に金剛輪寺本坊・明寿院が建っています。かつては学頭所として使われた建物で、1977年には火災で書院、玄関、庫裏を失いました。現在の建物はその後に再建されたものです。正徳元年(1711)に建てられた護摩堂と、安政年間(1854-1860)建造の茶室「水雲閣」は焼失を免れ、現在まで残っています。

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 明寿院の南・東・北の三方を囲むように、大きくて立派な「明寿院庭園」が配されています。桃山、江戸初期、江戸中期と違う時代に作庭された、三庭からなる池泉回遊・鑑賞式庭園です。三庭のなかでいちばん古い桃山時代の庭は「石楠花の庭」とも呼ばれ、春になるとカキツバタや滋賀県の花にも指定されているシャクナゲが鮮やかに咲くそうです。

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 博物館は時間がなくて、残念でした。それなのに集合時間に20分も遅れてきた人がいたのは、ツアーの辛いところです。

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 山門(黒門)前に集合して、次は西明寺に向かいます。

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 天然記念物の不断桜が4本あります。

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 天平年間に開創され、17の諸堂、300の僧坊があったそうですが、織田信長の焼き討ちに遭います。西明寺も本堂(国宝)、三重塔(国宝)、二天門(重文)は難を逃れ、現存しています。僧坊跡の石垣は、まるで城郭のようです。

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 中門から名勝庭園(蓬莱庭)を通って、本堂に向かいます。

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 本堂は鎌倉時代の初期に飛騨の匠が建立した純和様建築で、釘を使用していません。西明寺も本尊の薬師如来は秘仏です。

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 事前調査で三重塔の内部が11月8日から30日まで拝観できると知って、ご住職のお話はパスして、駆け込みました。雨天非公開ですが、幸い天気予報は外れて雨は降っていません。所持品をすべて預けて丁寧な解説つきで拝観したのは私一人でした。

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 内部は撮影禁止ですから、写真はHPからお借りしました。中央に本尊の大日如来を安置し、周りを四天柱が囲みます。各柱には8尊の菩薩が描かれています。天井は折上小組格天井で、折上と小組の裏板を花文で飾っています。須弥壇と床板を除く全面に、菩薩像、仏具、花鳥文、法華経変相図が極彩色で描かれていますが、これらの絵画は巨勢一派が純度の高い岩絵の具で描いたものです。

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 気が付くと集合時間が迫っています。急ぎ足で坂道を下りましたが、またしても10分以上遅れてきた人がいて、それならもっと見ていたかったと・・・。

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 昼食は門前の一休庵で「近江路御膳」を美味しくいただきました。

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湖東の旅・・・①石塔寺

  2018年、最後の旅は性懲りもなく近江の湖東。これで近江は卒業と思っていましたが、また興味のわくところを見つけたので、責任は負えません。11月27日(火)、ラッシュアワーを外して出たつもりですが、最寄りの駅では空席あまただった電車が終点に近づくにつれ、殺人的混雑です。交通機関の遅延もなく、余裕で乗れた新幹線では富士山がきれいに見えて、幸先はよさそう。

 米原で乗り換えて、能登川の駅前ホテルに荷物を預け、ローカルバス乗車というのは、いつものパターンです。

 今日の目的地の石塔寺は、「いしどうじ」と読みます。アクセスが悪く、往きは能登川駅→八日市駅(近江鉄道バス)→桜川駅(近江鉄道)というルートを選びました。お寺のHPでは桜川駅から石塔口までコミュニティのバスで行って徒歩15分と書いてありましたが、Googleアースで調べると、誰も歩いていない田んぼの中の道が続き、30分はかかりそうですから、ここはタクシーと思っていました。近江鉄道は気の毒なほどすべてが古びていて、列車はワンマンカー、駅はほぼ無人駅。14時台の貴生川行の乗客は5人でした。桜川駅から2.2㌔ですから、歩けない距離ではありませんが、ここで体力を消耗すると、のちのち響きそうですし・・・。

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 うらぶれた桜川駅で降りたのは私だけ。めったに来ないコミュニティバスが停まっていましたが、予定通りタクシーに電話しました。

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 近江タクシーは、電話の対応も運転手さんの接客態度も東京ではまずありえないほど抜群です。柔らかい関西言葉で話してくださっているうちに10分足らずでお寺の門前に着きました。

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 寺伝によると、釈迦入減後100年、阿育大王がインドを治めたとき仏法の興隆を願って8万4千の塔婆を造り、それに仏舎利を納めて三千世界に撒布した、平安時代、唐に留学した寂照が近江国にもその1つが埋まっていると聞き、日本へ向けた手紙を木箱に納めて海中に投じた、3年後に箱が明石浦に漂着し、掘り当てた塔がこの阿育王塔であるとされていますが、信仰の世界のお話ですから・・・。

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 参道の傍らにも石仏が並んでいます。

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 受付で拝観料を納めて、まず158段の石段を登りました。司馬遼太郎氏は、「途中で、なんどか息がきれた」とか、「つらかった」とか、こぼしておられますが、あとで訪ねた諸寺に比べれば、まだ足に優しいほうです。

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 石段の中ほど左側にあったお堂ですが、境内案内図にも説明はありませんでした。

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 これまで登った石段。

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 これから登る石段。

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 やっと着きました。

 司馬氏が「最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景については、私は生涯わすれることができないだろう」と述べられ、白洲氏が「日本一の石像美術」と称賛される三重石塔を独り占めして、しばし夢心地。広場には何万という五輪塔や石仏が初冬の午後の日差しを浴びていました。三重石塔は、飛鳥時代あるいは奈良時代前期の作とされ、三重石塔としては日本最古・最大のもので、国指定の重要文化財です。屋根は緩やかに丸みをおび、総高7.5mの塔身は縦長で、いちばん下の塔身は二枚石を合わせ、上部の安定をはかっています。

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 三重石塔東側の五輪塔2基とその横にある宝塔も、国指定の重要文化財です。

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 広場の右側に400mにわたって、石仏が並び、一周すると八十八か所をお参りできるようになっています。

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 この三重石塔によく似た塔が韓国にいくつかあります。Yun_10915Photo by (c)Tomo.Yun

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 韓国・陜川郡の海印寺三層石塔(旅行業者さんのサイトより) 

 こういう類例を知ると、八日市や日野にあった渡来人の大集落との関連を考えないわけにはいきません。

 石段をおりて本堂にお参りしました。

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 山門には「阿育王山」と記した扁額が掲げられています。

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 扉が少し開くような工夫がしてあって「お参りの際には扉を開けてください」という札が置いてありました。

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 石棺のような庭石が気になります。

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 お寺の周りは自販機もありません。タクシーに迎えにきていただいて、近江鉄道桜川駅駅→近江鉄道八日市駅→近江鉄道近江八幡駅→JR近江八幡駅→JR能登川駅というルートで駅前ホテルに戻りました。帰りの近江鉄道は、高校生が大勢乗っていて、他人事ながらほっとしました。

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 限界まで行動してしまいますので、私のホテル選びは、駅に限りなく近いことが最重要ポイントです。このホテルは大浴場があります。2泊して4回利用しましたが、いつも貸切状態でした。

ファジョーリとサヴァール

 寄る年波には勝てず、夜の外出は極力控えていますが、 マメリと仁左衛門丈の助六とファジョーリは例外です。

 11月22日(木)19時、VBOのシンフォニアに続いて、初来日のファジョーリの第一声。

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 CDとロッシーニの映像の世界だけで知っていた方と同じ場所にいるのが信じられない。夢のような2時間半を過ごしながら、とても言葉にはならない感動に包まれました。

 次の日、パソコンを開くと、怒涛のような称賛が専門的な知識をもとに寄せられていて、とても私のような素人が何かを語れるものではありません。親切な方がまとめてくださったtwitterにも珠玉の言葉がちりばめられていて、そうだ、そうだとうなずきながら読ませていただきましたが、23日の時点で560のコメントがあって、すべては読み切れず、これから楽しく拝見しようと思っています。私の席からはわからなかったことも知りえて、感謝したり、喜んだり。アンコールの2曲目の前に客席とやりとりがあって、「アルタセルセ」の超絶技巧のアリアがアカペラで歌われたのは、2階席の方が団扇でリクエストしたからだとか、公演で来日中のピアニストのキーシンがカーテンコールの写真を撮ろうとして、係員に注意されていたとか、、エピソードも豪華です。

 ただ、もたもたしていて、残念な座席しかとれなかったので、もっと十全な音が聴けるはずと水戸に電話をかけたら、サイドだけど3列目があると仰るので即決し、次の日のサヴァールの公演の前に特急券を買いに行きました。興奮しすぎの疲れもあって、交通系ICカードを忘れたり、お財布を落としたり、靴が合わなかったり、くたくたになりましたが、24日(土)もおそらく最初で最後の体験ができたのは、幸せすぎです。

 ジョルディ・サヴァール&エスペリオンⅩⅩⅠ「スペイン黄金世紀の舞曲 フォリアとカナリオ~旧世界と新世界~」

 ヴィオール(ヴィオラダ・ガンバ)の名手のサヴァールと4人の演奏家が奏でる音楽はとても愉しいものでした。フォリアは、中世にイベリア半島で発展した民衆起源のダンスや踊り歌の一つ、カナリオはカナリア諸島で生まれたと思われる舞曲だそうです。次第に洗練されて、宮廷舞曲に変化していきますが、ブリューゲルの絵を思わせる曲もありました。オペラ「ドン・カルロ」の祖父と父の時代、日本でいえば豊臣秀吉の時代の音楽です。「皇帝の歌」は天正少年遣欧使節が帰国後、秀吉の前で演奏した可能性があると言われています。

 終演後もいろいろあって、私の日常からすると、とんでもないハードスケジュール。翌日の朝は体中が痛んでいましたが、関西から引っ越してきたころに小学生だった子どもを連れて行った水戸に45年ぶりに向かいました。

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 620席の素晴らしいホールです。ステージが低いのも嬉しい限り。舞台に向かって左側の席はヴァイオリニストの背中を拝見することになってしまいましたが、目の前をファジョーリリ様が行ったり来たりされるので、天にも昇る心地と言っても過言ではありません。会場が広いと声を張り上げてしまうと歌手の方が言われていますが、この規模は理想的で、頑張って水戸まで来て、一生分の得をした気分です。初台では定かに見えなかった表情、指の表現、リズムをとるエナメルの靴、ある時は挑むような、ある時は身をよじるような肩の動き、少し落とした腰、胸の動きなど、全身が音楽の化身でした。そして、もう聴こえてきたものと言ったら・・・。隣席の男性が1曲目が終わったあと、しばらく固まっていて、「なんだ、これは! ありえない」と呟かれた気持ちがわかります。

 この日のアンコールは、まず「アリオダンテ」より“暗く不吉な夜の後に” 。団扇がなかったので、2曲目は「セルセ」より“オンブラ・マイ・フ” 。曲名を告げられたとき、大きな拍手がわきました。2月に来日するサバドゥスが一曲目に予定している曲です。そして、恒例になりかかっている聴衆を巻き込んだ「リナルド」より“私を泣かせてください” で終わりました。

 初台も水戸も聴衆が立派で、フライング気味の拍手もないし、息をのんで音楽に心を奪われ、スタンディングオベーションで称賛と感謝を表していました。

 日本ではヘンデルのオペラを鑑賞する機会はほとんどありません。私の場合は、バイエルンの来日公演の「アリオダンテ」だけです。「アリオダンテ」は、マドリッドとジュネーヴで体験できましたが、ミラノからジュネーヴに向かう国際列車の中で聴いたミンコフスキの「アリオダンテ」は宝です。あとはボローニャの「ジュリオ・チェーザレ」、ミュンヘンの「ロデリンダ」とローザンヌの忘れがたい「リナルド」ですが、オペラとしては、もう二度と見られないかと思うと悲しくなります。

 VBOは、まだチャンスがあるかもしれません。かなり前に三鷹で聴いたとき、わっ、凄い、と思いましたが、次の曲で現れたカルミニョーラに唖然呆然として、CDを買いあさったのも懐かしい思いでです。

 とにもかくにも、生きていてよかった、足が動いてくれてありがとうの数日でした。

 

草津から甲賀へ・・・⑧旧竹林院・大津市歴史博物館

 計画段階では予定していませんでしたが、少し時間があったので、日吉大社のすぐそばの旧竹林院に寄ってみました。比叡山の麓の大津市坂本は、門前町として栄え、あちらこちらに歴史をいまに伝える建物や史跡が残されています。なかでも比叡山の僧侶の隠居所である里坊は、坂本の町並みをつくっています。旧竹林院は、里坊の一つで、邸内には主家の東西に3,300㎡の見事な庭園が広がっています。

 旧竹林院は、天正20年(1592)に建立され、明治になって資産家の手に渡りましたが、いまは大津市が所有しています。主家は二階建てで、一階と二階から美しい庭園を見下ろした後、広い庭園をめぐりました。

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 主家を出て、歩いて一周します。

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 ここから見える山が神体山の八王子山です。

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 庭園に大宮川の清流を引き込んでいます。

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 バスは30分に1便ですから、頑張って京阪坂本比叡山口駅まで歩きました。

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 京阪電車で大津市役所前まで行き、最後の目的地の大津市歴史博物館に向かったのですが、HPの徒歩5分は全力疾走した場合で、10分以上かかりました。京阪石山坂本線は、駅の名も、穴太、滋賀里、大津京、近江神宮など、ゆかしいし、レトロな車体もほっこりします。

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 テラスから琵琶湖が見えます。

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 ここまで坂道を登ってきたのは、この展覧会が見たかったからです。昭和33年(1958)に大津市内の有名社寺10社寺が連携して「湖信会」が設立されて60年目になり、2015年に「琵琶湖とその水辺景観ー祈りと暮らしの水遺産」というテーマで、延暦寺、園城寺(三井寺)、日吉大社、西教寺、建部神社、浮見堂、石山寺が「日本遺産}に登録されたのを記念して、普段は拝観することの難しい秘仏も含めて宝物が公開されると知って、旅をここで締めくくることにしました。

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 なんといってもこれ! 以前、「国宝展」で押すな押すなの挙句、ちらっと拝見したお宝を半ば独占状態で拝見できて、わくわくしました。近江神宮所蔵の国宝・崇福寺塔心礎納置品です。崇福寺は、天智天皇(626-671)が大津へ都を遷した翌年、大津京の鎮護のために建立した寺で、幻の大津京の所在地を探る手がかりとして注目されていましたが、滋賀里の西の谷を隔てて南北に並ぶ丘陵上で遺構が発見されました。南に金堂・講堂、中央に小金堂・三重塔、北に弥勒堂などがあり、かなり大きな寺であったと考えられます。塔心礎からは、荘厳華麗な舎利容器(国宝)が出土し、中に濃緑色の瑠璃製小壺などが納められていたことで有名になりました。高さ3㎝の小さなガラスの壺は、金内箱・銀中箱・金銅外箱の箱に納められています。

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 今朝、訪ねた西教寺からは、秘仏の薬師如来坐像↑をはじめ、8点のお宝がおでましです。


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 同じく西教寺の阿弥陀如来像(行快作)です。

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 昨年、堅田からバスで40分かけてお参りした明王院の近くの地主神社の女神坐像にもお会いできました。

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 堅田の満月寺(浮見堂)の聖観音坐像など、数人の入場者だけで見せていただくのがもったいない展示でした。

 長等山を背に坂を下って、京阪石山坂本線をびわ湖浜大津で乗り換え、京阪山科まで行ったのは大正解でした。博物館の方は、京阪大津京から湖西線の大津京に乗り替えるルートを勧めてくださったのですが、できるだけ歩く距離の少ない経路がいいと思って、同じホームで乗り替えられる路線を選んで、JR山科駅に着くと、湖西線は人身事故で運転休止とアナウンスしていたので、ぞっとしました。

 ずっと粗食に甘んじていたので、せめてもの贅沢と和久傳のお弁当を求めて新幹線に乗りました。あれもこれもと欲張った旅を思い通りに終えることができて、感謝感激です。

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