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京・近江の春旅・・・⑧堅田

  4月13日(木)は、快晴です。宿に荷物の発送を依頼して、リュックだけになりました。近江高島駅まで送っていただいて、湖西線で15分後に最終目的地の堅田着。来るときは鈍色だった湖は、桜に縁取られて輝いています。琵琶湖で対岸との距離が最も狭い箇所の西岸に位置する堅田は「湖族の郷」と呼ばれています。地元の方が、以前は「湖賊」だったが、司馬遼太郎氏が「湖族」に変えたほうがいいと提案されたと言われていました。堅田は、平安時代から京の都の外港として重要な役割を担い、湖上の「関務権(琵琶湖を航行する船を取り締まる権利)」「漁業権」「上乗権(船に乗り込み、安全に運行させる権利)」を掌握した堅田衆の活躍で、「堅田千軒」と呼ばれる豊かで活気あふれる自由都市が築かれました。

 堅田には多くの寺社が建立され、南北約2㌔の湖畔地域に六社と十ヵ寺が現存しています。そのすべては回れませんが、堅田町内循環バスで4分の堅田出町で下車し、浮見堂の一番乗りを目指します。本堅田の都市景観賞を受賞された民家の前を通りました。

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 天台宗の妙盛寺は、入りにくい雰囲気でしたので、通り過ぎました。

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 湖族の郷資料館と本福寺はすぐわかりましたが、見学は後回しにして浮見堂に急ぎます。

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 浮見堂は満月寺と称する臨済宗大徳寺派のお寺です。995年ごろに源信(恵心)僧都によって開かれたと言われますが、現在の浮見堂は昭和12年の再建です。

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 庫裏に続いて、浮見堂の古材を用いた茶室が建てられています。久しぶりの青空を浴びた松の影の濃さも嬉しい限り。

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 この景色を独占できるなんて、贅沢です。近くに観光バスの駐車場がありましたから、早めにきて正解だと思いましたが、午後になっても団体様は見当たりませんでした。

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 浮見堂の裏手からあたりをのんびり眺めました。遠くに琵琶湖大橋が見えます。

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 右のほうにイタリア料理のお店を確認。2日間、まともなランチをいただけなかったので、ここで取り戻そうと、予約を入れました。

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 誰もいないなんて、ありえない!

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 観音様はお厨子の中で、扉に写真が貼ってあります。 

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 うらうらとした気持ちで、満月寺を後にしました。

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 2,3分で、満開の桜で装った伊豆神社。創立は宇多天皇の時代の892年にさかのぼります。1569年に兵火で焼けてしまいますが、すぐに再建され、現在に至っています。伊豆神社という名前は比叡山の僧侶が伊豆の三島明神を勧請したことによっているそうです。 

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 盛りの桜を愛でる人も見当たらず、静かなお宮でした。

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 入口の張り紙通りのお作法で参拝してきました。

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 次は、本福寺。ここは少し思い入れがあるのですが、近づくと賑やかすぎる幼児の歓声に、ちょっとイメージが壊れました。境内に「こども園」が建っていて、保育士さんに見守られて、子どもたちが走り回っています。

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 門前に「本願寺舊址」と刻んだ石柱が立っています。蓮如上人が応仁の乱を避けて、近江布教の拠点とした所だという矜持が感じられました。また芭蕉の最古参の門人である千那がこの寺の住職であったため、芭蕉はこの寺に泊まり、多くの句を残しています。

 本福寺と聞いて思い出すのは、学生時代にゼミのテキストだった本福寺の六代目の明誓が記した「本福寺跡書」です。この中に記されたさまざまな歴史的事象は、庶民レベルの感覚でとらえられているので、真実の歴史を知ることができる文書です。割り当てられた部分の解釈をしどろもどろで報告した若いころが蘇ってきました。

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 本堂裏の牡丹園が開花のときを待っています。

 先ほど通り過ぎた「「湖賊の郷資料館」に入り、年配の男性の解説で堅田の歴史をお勉強というとカッコいいのですが、ほんの少し賢くなりました。実は堅田で興味があったビッグスリーの一つ、居初氏庭園(天然図画亭)は要予約ということでしたが、電話が通じません。堅田駅の観光案内所で尋ねると、ご当主が体調を崩されて・・・。ところが、資料館に5月28日だけオープンというチラシを見つけ、今回、断念した堅田からバスで行く葛川息障明王院訪問と併せて再訪を考えています。われながら、しつこい性格です。

 館内の写真は資料館のHPからの転載です。

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 11時半に予約したイタリアンのお店、ペコリーノに向かいます。このあたり、浮見堂の隣のちょっと敷居の高そうな料亭があるだけで、あまり選択肢はありません。ペコリーノは堅田藩陣屋跡に建っています。江戸時代、四代将軍徳川家綱の大老として権勢を誇った大老堀田正俊の一族が六代にわたり、約130年間、陣屋を置いた場所です。

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  •  ここがイタリアンのペコリーノ。

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     予約優先で特等席に案内してくださいました。朝、行った浮御堂がよく見えます。
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  •  前菜です。

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  •  あまりイタリアンらしくないのですが、メインは近江牛のシチューにしました。

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     ドルチェは不思議な食感です。
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  •  まだ時間があるので、午前中に行けなかった二つのお寺を訪ねます。いささか案内表示が不備で、資料館の方に教えていただいてたどり着けました。祥瑞寺は、臨済宗大徳寺派のお寺で、室町時代の応永年間(1394~1428)に、京都大徳寺の僧・華叟宗曇(かそうそうどん)が開きました。

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     「一休和尚修養之地」という石碑が立っているように、頓智話で有名な一休は、苦心の末、許されて入門し、22歳から34歳まで、このお寺で修行しました。関西に住んでいたころ、幼い子どもたちを連れて、軽自動車で近場のお寺を訪ねましたが、山城の一休寺(酬恩庵)もその一つです。さまざまな人生遍歴を経て一休寺で入寂した一休の墓所は、後小松天皇皇子の陵として宮内庁が管理していました。ただし、足利義満の子だという説もあります。一休寺も再訪したくなって、困ったものです。

     本堂は、昭和初期に再建された建物ですが、鎌倉時代の禅宗寺院建築の様式を忠実に踏襲しています。、

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     境内の芭蕉の句碑には、「朝茶飲む僧静かなり菊の花」と刻まれています。
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  •  句碑が立つ庭は静まりかえっていました。

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     白い雲と白い塀、桜、棕櫚。

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     最後にお参りした光徳寺は、本福寺のすぐそばに建っていますが、午前中は気が付きませんでした。観光協会の方、もう少し案内表示を増やしてください。
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     本堂の前の枝垂れ桜は満開です。兼好法師に「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」と言われても、やはり絢爛と咲いているほうがいいです。
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  •  このお寺で有名なのは、「堅田源兵衛の首」の物語です。応仁の乱(1467年)が起こったとき、蓮如上人 は親鸞 聖人の御真影(祖像)を持って  本福寺に移住されますが、その後、御真影を三井寺に預けます。返してもらおうとしたら、三井寺に「首を二つ持ってこい」と言われ、漁師源兵衛は父源右衛門に自分の首を斬らせて、それを持った父が自分の首も切ってくれと言って差し出したという浄土真宗の殉教物語が伝わっていて、源兵衛の頭蓋骨が拝めますが、あまりに恐れ多いし、ご遠慮しました。境内の源右衛門親子の銅像もちょっと怖いです。

     町内循環バスの乗り場がわからず、困っていたら、バスが近付いてきて、運転手さんが「あっち」と身振りで教えてくださいました。20mほど、禁断の全力疾走を余儀なくされて、やっと乗れましたが、知っている人にしかわかりません。

     湖西線で24分で京都。ずっと人影もまばらなところを歩いていましたから、京都駅構内の混雑に気おされながら帰途に就きました。今年も、いい旅ができて感謝しています。

    京・近江の春旅・・・⑦白髭神社&鵜川四十八体仏

     この日の最後の予定は鵜川四十八体仏と白髭神社です。路線バスが運行しなくなったあと、予約制の乗合タクシーが運行しています。例によって便数は少ないので、時刻表を見て、慎重に計画を立てました。30分前までに電話で時間とバス停を指定して予約しておく必要がありますが、300円です。約束の時間にバス乗り場に来たタクシーには、香港在住のカップルが乗っていました。運転手さんは、昨日、宿まで送っていただいた方です。

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     鵜川のバス停の位置がよくわからないので、白髭神社前まで行って、まず体力・気力のあるうちに、鵜川四十八体仏を拝観しに行きました。湖沿いの道路を10分ほど近江高島方面に向かうと、左側に坂道があって、「いにしえの街道 西近江路」と彫り込まれた石柱の上に「←鵜川四十八体仏」という表示を見つけて、一安心。

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     木立が途切れて見晴らしのいい場所に駐車場があります。

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     5分ほどで着きました。この石造阿弥陀如来坐像群は、1553年に安土観音寺城城主の佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため、対岸にあたる高島市鵜川に建立したと伝えられて、白洲正子氏の『近江山河抄』でもその説がとられていますが、現地に立っていた解説には、冷泉為広の『為広越後下向日記』の1491年の項に、この地に四十八体の石の阿弥陀があったと記されている、さらに1436年の周辺の境界争いの記録に「四拾八躰」という文字があるので、四十八体の石仏は、そのころにはすでに存在し。境界の目印として認識されていた、と書かれていますから、建立年代は100年以上遡れそうです。

     付近には古墳もあり、背後には墓石が建ち並んで、いまも墓地として機能しています。東を向いて静かに並ぶ石仏は、大きさも表情も少しずつ違います。だれもいない静かな世界でした。四十八体仏と呼ばれていますが、13体は江戸時代に坂本に運ばれ、昭和になって2体が盗まれたので、いまは三十三体です。2,015年に行かれた方のブログの写真にはちゃんと立っていた屋根付きのお賽銭箱は見事にひっくり返っていました。

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     雑木林の道を下っていくと、琵琶湖が眼前に広がります。

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     国道161号線を白髭神社に向かうと、湖の中に立つ鳥居が見えてきます。頑張ってあるかなければ。

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     着きました。白髭神社は近江最古の神社で、祭神は猿田彦命です。猿田彦命は、天孫降臨で知られる邇邇芸命(ににぎのみこと)を先導したと言われ、古くから延命長寿白髭の神として人の世の営みや業ごとの全てを先導される神とされています。

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      国道161号に面した鳥居の奥に建っているいるのは、明治時代の1879年に建てられた拝殿です。

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     拝殿と棟続きの本殿は、国指定の重要文化財です。豊臣秀吉の遺命を受け、秀頼公の寄進により1603年に建立されました。檜皮葺きの入母屋造り、桃山時代特有の建築で、片桐且元書の棟札も残されています。

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     左側の若宮神社の横の石段を上がって。上の宮に行きました。、

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     石段を登ると、天照太神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)、八幡三社が並んでいます。

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     鳥居の奥には白髭神社古墳群があり、岩戸社は古墳を取り込んで建てられています。

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     この奥に古墳や磐座がありますが、体力が限界に近づいて、探訪は諦めました。

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     紫式部の歌碑。

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     最初に着いたときは外国の方を含めて大勢の方でにぎわっていましたが、16時を過ぎると、閑散としてきました。

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     湖中大鳥居。外国の方は、この鳥居を目がけてやってくると乗合タクシーの運転手さんが言われていました。司馬遼太郎氏の『街道をゆく』シリーズは、「湖西のみち」から始まります。この場所からは表紙のような写真は撮れません。信号はないし、スピードを上げた車が驀進するし、決死の覚悟で国道を横切って撮った貴重な写真です。

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     16時45分に乗合タクシーが来るので、バス停に戻りました。近江高島で3回タクシーに乗って、3回とも同じ運転手さん。私の行動が無謀に見えるらしく、「取り返しのつかないことになるよ」と本気で心配してくださいました。鵜川四十八体仏まで往復したと言ったら、呆れています。

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     近江高島駅に宿のお迎えが来て、ハードな行程は無事にこなせました。あとは温泉に入って、美味しいものをいただいて、極楽です。

     

    京・近江の春旅・・・⑥鴨稲荷山古墳&高島歴史民俗資料館

     ここで一気に古代に突入します。高島市は、古代史のなかでも注目すべき人物の生誕地だという説がありますが、それが継体天皇(オホド王)です。私が日本史とかかわっていたころ、江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説や水野祐氏の三王朝交代説が万世一系論を否定する学説として喧々囂々と議論されていました。古代史については『記紀』のほかには『上宮記』ぐらいしか文献資料がないので、それをどう解釈するかによって、いろいろな理論構成が可能です。

     水野氏の説は、非常に簡単に言ってしまえば、皇室は、①崇神王朝(三輪王朝)、②応神王朝(河内王朝)、③継体王朝の三王朝が交替しているというもので、天皇の名前や考古資料も援用して、センセイショナルに展開されました。ただ、水野氏は継体天皇は越前の勢力だと考えているので、話は簡単ではありません。『日本書紀』によれば、武烈天皇の跡継ぎがいなかったので、福井県にいた応神天皇五世の孫というオホド王が迎えられた、なぜかすぐには大和に入らず、各地を転々としたのち、19年たって、やっと大和に入ったとされています。結婚後、10年ほど住んだ大阪府枚方市にも継体天皇が暮らした樟葉宮跡がありました。

     1902年に県道改修のさい、鴨稲荷山古墳と名付けられた未盗掘の古墳が発見されました。全長60mの前方後円墳で、後円部に横穴式石室が構築され、家形石棺が納められていました。副葬品のおもなものは、金銅製宝冠、飾履、金製耳飾、金銅製大刀などです。被葬者は、6世紀代の貴人で、継体天皇を擁立した三尾氏の族長だと推定されています。

     コミュニティバスがあることはありますが、便数が少ないので、安曇川駅からタクシーで古墳まで行きました。途中で継を体天皇の胎盤を埋めたという胞衣塚が見えたりして、越前・説への対抗意識まんまんです。地図の田中王塚古墳は、継体天皇の父・彦主人王のお墓だと伝えられています。

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     いまは石棺の上に保存のための建物が建てられています。墳丘が良く見えるベンチに荷物を置いて、写真を撮っていたら、自転車で通りかかったご婦人が大声で叫んでいるので、何かと思ったら「カラス! カラス!」。付近には食事ができる場所がないので、買ってきたお弁当を盗まれました。あーあ。しかも、一生懸命撮ったつもりの写真はカメラの不具合で何も写っていないことにあとで気が付く始末。カメラも汚されて、踏んだり蹴ったりです。

     気を取り直して、古墳から150mの高島歴史民俗資料館に行きました。

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     出土品のおもなものは京博が所蔵しています。前日に行ったのですが、特別展の開催時は閉鎖されていてみられません。しかたがないから資料館の精巧なレプリカで我慢しましょう。昨年、「黄金のアフガニスタン展」で見たティリヤ・テペ出土の金冠と並べると、材質もデザインもはるかに素朴ですが、歩揺状垂飾を多用する様式は似ています。

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     ↑鴨稲荷山古墳出土の金銅冠 ↓ティリヤ・テペ遺跡出土の金冠Pho_g10Oookamo3

     履は、装飾が足の裏にまで施されているので、歩けません。「埋葬用の品」か「儀式の際、足が付かないほど高い椅子に着座して履き、足をぶらぶらさせて歩揺をきらめかせた」か、説が分かれています。

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     金製の耳飾のレプリカです。

     継体天皇については、多くの謎があり、朝鮮半島との関連も考えられそうですが、古代から近世にわたる展示品を眺めて、わくわくする時間を過ごしました。タクシーを呼んでいただいて、近江高島駅の近くで降りました。大溝陣屋遺跡や町割り水路などを見学したのち、近江高島駅前に戻りました。

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      1619(元和5)年に大溝藩主として入った分部氏によって整備された武家屋敷地の出入り口の中でいちばん重要な門。

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      分部氏は、町人地の通り中央に生活と防火に備えた町割り水路を設けました。現在の水道のように、水路を流れる水は人々の生活と密着して利用されていたようです。

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     ここから駅に向かう途中に「高島びれっじ」と名付けられた商業施設があります。古民家を利用したお店が多いのですが、屋外休憩所でコンビニで買ったサンドイッチでチープなお昼をいただきました。

     写真は失敗でしたので、以上の写真は、すべて公式サイトからお借りしました。 

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     ここから次の目的地に向かいます。乗合タクシーの到着時間は2時43分です。

    京・近江の春旅・・・⑤興聖寺@朽木

     4月12日(水)になって、雨もやっとやみました。この日は、朽木谷の興聖寺、鴨稲荷山古墳と高島歴史民俗資料館、鵜川四十八体仏と白髭神社と予定がぎっしり。交通機関の時刻表を前に、ああでもない、こうでもないとプランを組み立てていくのも楽しみの一つです。宿の車で駅まで送っていただき、9時21分発の湖西線で1駅、9時24分にJR安曇川駅に着いて、接続が心配だった9時30分発のバスに余裕で乗れました。安曇川を遡って、35分で終点の朽木学校前に着いたのですが、乗客は私一人。お寺の近くを通る路線は1日6便で、午前中は走行しないので、バス停から15分ほど歩かなくてはなりません。大型の車がスピードを上げて行きかう国道367号線は、かつては朽木街道とも鯖街道とも呼ばれた若狭と京都を結ぶ道で、国道沿いに朽木旭屋という鯖寿司のお店があります。朽木街道と言えば、朝倉攻めに向かった織田信長が浅井長政ぬ裏切られて進退窮まったとき、朽木氏の助けを得て、この街道を通って京都に戻った道です。

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     このあと大ショックな失敗をしてしまって、ガッカリです。愛用の安物カメラは、ときどきメモリカードの接続が悪くなって、撮ったつもりが、何も写っていない状態になってしまうので、チェックはしていましたが、肝心の朽木谷の写真がありません。しかたがないので、以下は記憶のために興聖寺さまの公式サイトから画像をお借りしました。 

     10分ほど歩いて、朽木旭屋を過ぎると、右手に集落があって、やっと国道からお別れです。ここは朽木岩瀬という場所で、木地師が住んでいたと伝えられています。ykさまのブログで『脊梁山脈』のご紹介があって、読んでみたことがあります。その小説で語られていた木地師の本拠、近江愛知郡小椋谷から分かれたのが朽木の木地師です。

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     集落の右側の杉と藪椿が茂る坂道を上ると、木立の奥に曹洞宗の興聖寺が建っています。鎌倉時代に近江の守護、佐々木信綱が道元禅師の勧めで建立したと伝えられていますが、当初は安曇川の右岸に建てられ、江戸時代になって、室町幕府の将軍の仮御所があった現在の場所に移されました。

     まずお堂の前の1530年に三好長基による動乱の京都から朽木に逃れて2年ほど滞在した室町幕府12代将軍足利義晴を慰めるために作られたという池泉回遊式庭園を拝見しました。ここを訪ねる動機となった『ー白の聖都ー小説白山平泉寺』に出てくる13代将軍義輝も細川幽斎(藤孝)を従えて6年半滞在します。この地で生まれた幽斎の子の忠興は千利休を当庭園に案内したそうです。管領の細川高國の作庭とされる庭園は、他に朝倉遺跡庭園と北畠氏館跡庭園があります。朝倉遺跡は昨年訪ねましたが、北畠氏館跡はかなり難易度が高そうです。何度も言及した平泉寺の旧玄成院庭園も高國の作と伝えられています。

     庭園名が旧秀隣寺庭園(足利庭園)となっているのは、この場所に江戸時代に建立されたお寺が秀隣寺で、秀隣寺が他所に移転したのち、移ってきたのが興聖寺だといういきさつがあります。

      庭園の面積は234坪。上部に谷水を引いて「鼓の滝」とし、下流は曲水にして池の中には鶴と亀の島を配しています。楠の化石の石橋をしつらえた原形は築庭当時そのままですが、あとで住職から7000万円の予算で改修する予定だと伺いました。半分は国の補助、残りは自力で調達しなければならないが、檀家は100軒で大変だと嘆いておられます。お金持ちの方、どうかご寄付を!

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     樹齢500年近い老椿。利休は一期一会の心を表す花だと称賛したそうですが、花の盛りに出会えて幸せでした。

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     雪がまだ残るお堂に上がり、住職と住職夫人からご説明をうけました。七堂伽藍を構えたお寺は、いまは司馬氏おっしゃるようなつつましいお寺です。

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     本堂に細川護熙氏ご夫妻と学生時代の秋篠宮さまの写真が掲げてありました。細川家ゆかりのお寺ですから、お越しになるのはわかりますが、秋篠宮さまがなぜ来られたのかは、よくわかりません。

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     住職夫人の丁寧なお話を伺ったのち、「階段を上って、ゆっくりご本尊様を拝んでください」と言って、立ち去られたので、お言葉に甘えました。写真も可で、とてもおおらかなお寺です。

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     本尊釈迦如来像(国・重要文化財)は、平安後期後一条天皇の皇子が幼少のとき亡くなられ、天皇の叔父の関白頼道が供養に彫らせた三仏の一体。桧の寄木造りで、作者は不明ですが、定朝様式です。どういういきさつで、ここに安置されたのでしょうか。

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     縛り不動明王坐像。朽木時頼が北条高時の命令で千早赤坂城を焼き討ちしたとき、楠木正成の念持仏が兵火に遭いそうだったのを救い出して帰り、以後、鎮守としてまつられました。泥棒が盗もうとしたら、金縛りにあったので、この名があると言われています。

     帰りのバスは、小学生が1人乗ってきて、ほっとしたのもつかの間、すぐに降りてしまって、またしても貸切です。地方創生大臣も的外れな失言をしていないで、こういう状況をどうにかできないものでしょうか。江若交通のバスは、12時12分に安曇川駅に着きました。

     

     

























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    京・近江の春旅・・・④宝船温泉

     私の旅は、駅前ホテル泊が多いのですが、今回は珍しく温泉旅館に2泊しました。昨年の3月に湖東の高月から越前を旅した時に読んだ『-小説 白山平泉寺ー 白の聖都』の中心人物が足利義輝が朽木谷にいたときに土地の女性との間に儲けた子どもだったという設定になっていて、朽木谷という場所に興味を抱いたのが、この旅の発端でした。いろいろ探して見つけた、近江高島の宝船温泉・ことぶき。いつもの楽天トラベルから予約したら、ほどなく女将からメイルがきて、細かい心遣いに、ほっとしたものです。

     送迎は午前9時から10時と午後3時から5時ということでしたので、最初はタクシーでチェックイン。まずは露天風呂で疲れを癒します。4室、1日4組限定の小さなお宿ですから、浴室は貸切にできます。お食事は1日目はお部屋で、2日目は個室のお食事処でいただきましたが、泊まった方はこぞって激賞されています。

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     近江牛の陶板焼き野菜添え、自家製ソーセージ、サーモンの燻製。

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     鴨の燻製と鴨の生ハム、筍、自家製食前酒(2品)。


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     琵琶鱒のお造り。

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     近江牛のブラウンシチューと自家製パン。


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     山菜とわかさぎの天ぷら。

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     あぶり牛トロ寿司。

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     鴨のつみれ鍋。 

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     アドベリーとカシスのジャムを添えたアイスクリーム。

     ↓は朝食の一部です。 確かに皆さんがおっしゃるように、ここでしかいただけない手作りのお料理が並びましたん。

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     お部屋はこういう感じ。

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     以下は宿の公式サイトから。

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    琵琶湖はすぐそば。

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     客室へのアプローチ。

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     露天風呂は二畳ぐらいの大きさです。

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     露天風呂の入口。

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     女性用内風呂。

     大女将、女将、若女将の三世代が、役割分担をして、気持ちのよい連携プレー。表に出てこないご主人が板さんのようでした。

     では、大絶賛かというと、そうはいきません。一つはバリアフリーの配慮があまりないので、足腰に問題があると辛いです。お食事は正座、浴室に手すりはありません。つっかけを履いて往復するアプローチもちょっと怖い。その辺は覚悟が必要です。

     もう一つは、ぐっと些細なことかもしれませんが、インテリアのセンスがイマイチ。設備も昭和レトロの世界です。

     でも、なかなかいただけない新鮮な食材を使った美味しいものがどっさりいただけます。目の前が琵琶湖というロケーションで、のんびりするにはいい宿です。

    京・近江の春旅・・・③海北友松展@京都国立博物館

     周山からJRのバスで京都駅前に戻ったのは、12時半ごろでした。4月11日から京博で開催される「開館120周年記念特別展覧会 海北友松」を目指して、市バスで急ぎます。ここは2013年の「狩野山楽・山雪展」以来、4年ぶり。雨はまだまだ降り続いているので、選択肢はこれしかありません。昼食の時間が惜しくて、平成知新館のお庭を展望できるロビーでコンビニのサンドイッチ。本当はせめて老舗のお弁当がいただきたかったのですが。

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     海北友松の作品は、東博の展覧会などで拝見していましたが、これほどまとまった展覧会は初めてです。初日のせいか、それほど混雑はしておらず、熱心な外国人の来館者が目立ちました。

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     海北友松は、加納永徳や長谷川等伯と並び称される桃山画壇の巨匠です。近江浅井家の家臣の家の五男に生まれ、若いころは東福寺で有髪の小僧として修行しますが、浅井家や浅井家に仕える兄が信長に滅ぼされると、還俗して狩野派の門をたたき、画の道に進みました。

     友松については、若かりし頃に読んだ辻邦生氏著『嵯峨野明月記』に紹益という名で登場し、本阿弥光悦に「鬱屈した暗い情熱を秘めて信長に反抗している人々」として光秀の家臣の斎藤利三とともに語らせているので、日本の絵画にあまり興味がなかったころから記憶にとどめていました。「古武士のように厳格で謹直な人柄」「画品のなみなみならぬのを見て一驚した」「古淡な、閉じられた、瞑想的な気分があった」「木洩れ日の下を流れくだる石清水の清らかさと艶やかさをもつ、不思議な形姿にみちていた」と表現される作品にぜひとも接したいと願っていました。

     友松の前半生は謎めいています。まず狩野派から独立する60歳以前の作品が紹介され、続いて豊臣秀吉、石田三成、細川幽斎などかかわりの深かった人々の関連作品や史料が展示されています。孫の友竹が記した「海北家由緒記」からは、一家のプライドが読み取れました。原本を拡大し、現代語訳を添えるという親切な展示をされた学芸員に敬服しました。

     60歳を過ぎた友松の活躍の舞台になったのは、京都の建仁寺です。大方丈や支院の障壁画は見ごたえがあります。2014年に東博の「栄西と建仁寺展」で観たスケールの大きい「雲竜図」にも再会できました。

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     建仁寺の障壁画が評判となり、桂離宮の基礎を築いた八条宮智仁親王のサロンに出入りするようになった晩年は、気宇壮大な激しさから画風が変り、飄々とした仙人図や金碧屏風などが描かれます。残念ながら「浜松図屏風」は後期の出展で観ることができませんでしたが、「網干図屏風」の網の描写に感動しました。

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     最後は友松の最高傑作と言われながら、滅多に観ることができない作品です。1958年に海外に流失し、カンザスシティのネルソン・アトキンズ美術館が所蔵している「月下渓流図屏風」が60年ぶりに里帰りしました。早春の夜明け前に朧月の淡い光に浮かび上がる優しい風景です。土筆やスミレが可愛らしく描かれ、観る人の心を和ませてくださる優品に接することができて幸せです。当時としては83歳という長壽を全うした友松がついに得た境地を受け止めて、博物館をあとにしました。

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     三十三間堂前からのバスはひどい混雑でした。ホテルに預けた荷物を引き取って、湖西線で近江高島に着いたころは琵琶湖も朧です。

    京・近江の春旅・・・②常照皇寺

     4月11日(火)は、天気予報どおり朝から雨! 午前中は念願の常照皇寺を訪ねる予定ですが、京都駅前からJRのバスで周山まで80分かかります。立ちっぱなしでは身体がもちませんから、早めにホテルを出たら、1番。でも、だんだん列が伸びて、7時50分の発車時間が迫ると、満員のご盛況でした。30分ほど走った立命館大学前でガラガラになり、竜安寺、妙心寺、仁和寺を過ぎると、乗客は二人だけ。ほどなくその方も降りてしまって、その後の40分は貸切です。

     神護寺のある高尾や高山寺のある栂の尾にさしかかると、雨に濡れた山峡の美しさに魅せられます。やがて北山杉で有名な中山に入り、小浜まで81㌔などという標識も見えました。このまま走ると若狭に至る周山街道です。たった一人で終点の周山で下車。この先は、京北ふるさとバスの臨時便が山国御陵前まで連れて行ってくださいます。徒歩15分ということでしたが、それほど時間はかかりませんでした。出かける前は臨時便の運行は4月13日までとなっていたのですが、先ほどHPを開いてみたら、いったん16日まで延長になり、さらに23日まで延長されています。その理由は、お寺に行けばわかると思います。

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     雨はさほど激しくないのですが、風が強くて、傘がさせません。滴がレンズにかかって、下手な写真がいっそう見苦しくなりました。山門をくぐって、鬱蒼とした参道を進みます。↓は、最初の勅使門から山門を振り返った景色です。

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     常照皇寺は光厳法皇によって1362年に開かれ、歴代天皇の帰依を得た皇室ゆかりのお寺で、「大雄名山萬壽常照皇禪寺」を正式名とする臨済宗天龍寺派に属する禅宗寺院です。

     光厳法皇(光厳天皇・光厳上皇)について、簡単にまとめておきたいと思います。そもそも鎌倉時代の1242年に即位した後嵯峨天皇がのちの亀山天皇を偏愛し、皇統をその子孫に伝えようとしたことが複雑な問題の発端となります。譲位を迫られた亀山天皇の同母兄の後深草上皇の不満は大きいものでした。政治権力だけではなくて、広大な皇室領荘園の争奪もからまって事態が深刻になっていった結果、1301年になって、後深草の系統である持明院統と亀山の系統である大覚寺統が交互に即位する両統迭立が妥協策としてとられることになりました。

     それから30年、大覚寺統の後醍醐天皇は1331年に鎌倉幕府打倒の企てが発覚して笠置に逃れ、19歳で即位したのが持明院統の光厳天皇です。ところが1333年に足利高氏(尊氏)や新田義貞によって鎌倉幕府は滅び、後醍醐は配流先の隠岐の島から京に戻ると、光厳の即位無効を宣言しました。いまも光厳は歴代天皇に数えられておりません。時代は建武の新政を経て持明院統の北朝と大覚寺統の南朝が並立する南北朝時代に移りますが、室町幕府を開いた足利尊氏の思惑もあって、北朝の上皇も半ば人質のようなかたちで歴史の波に翻弄されました。出家して各地を転々としていた光厳がやっと見つけた安住の地が皇室とゆかりの深い山国と呼ばれたところです。ここで崩御された光厳の御陵が常照皇寺の隣に築かれていますが、諸事情で参拝はできませんでした。

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     勅使門をくぐると、雨に濡れて鮮やかさを増した境内の奥に二番目の勅使門が見えますが、柵でさえぎられていて、右手の小路をたどって、方丈に向かいます。

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     いよいよ桜が拝見できるとわくわくします。

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     方丈の入口付近で、帰途につく観光バスの御一行様に出会いました。「蕾は固いよーっ」とご不満の様子です。添乗員さんが、「来年はいつ頃がいいでしょう?」と誰にもわからないことをお寺の方に聞いていました。

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     市納金は300円から500円ということでした。団体様が帰られて静まりかえった方丈で、いよいよ「車返しの桜」「九重桜」「左近の桜」の三名木とご対面の運びとなりましたが、確かに満開とは程遠い状態です。

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     方丈前庭の「御車返しの桜」は、江戸時代に後水尾天皇が、あまりの美しさに車を戻してご覧になったという言い伝えがあります。ひと重と八重の入り混じった珍しい品種だそうです。

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     左側の幹だけになっている木が元祖「車返しの桜」ではないかと思います。

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     こちらは方丈の裏山です。

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     渡り廊下を通って開山堂へ。

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     開山堂の前庭の「九重桜」は、光厳法皇の実弟である光明天皇が贈られました。

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     花の盛りにはまだ早く、風雨に行動を制約されはしましたが、はるばる訪ねた名刹は、

    どこまでも清々しく、静寂でした。

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     いまごろは満開になって、たくさんの方々が殺到していることでしょう。

     もときた道を戻って、桂川の清流を見たり、戊辰戦争に参加した山国隊に思いを馳せ・・・。





































































    京・近江の春旅・・・①石峰寺

     あと何回、旅ができるかわかりませんから、慎重にプランを練りました。最初のモチベーションは、昨年の3月に越前を訪れたときに読んだ『小説 白山平泉寺』に出てくる湖西の朽木への興味です。さらに、昨年の秋、東博で櫟野寺の十一面観音の展覧会を観た時に知った白洲正子氏の『かくれ里』が湖西への思いをさらに重ねました。白洲氏の著書はかなり読んだつもりでしたが、『かくれ里』や『近江山河抄』は未知だったのです。

     1月から計画を詰めて、まず湖西の旅の拠点として近江高島の温泉旅館を選び、行きたいと思いながら今日まで機会のなかった京北の常照皇寺を訪ねるために京都の駅前ホテルを確保しました。

     時期は常照皇寺の桜がいちばん美しいとされる4月の上旬に決め、情報の収集に努めましたが、年度末で交通機関の時刻表が変更になる場合もあって、最終的に日程が決まったのは、3月22日にやっと発表された常照皇寺に向かうローカルバスの臨時便の告知が出てからです。

     4月10日(月)は、11時まで外せない用件があるので、品川発12時40分の新幹線で京都に向かい、八条東口から1分のホテルにチェックイン。荷物を置くや否や、かねて行きたかった石峰寺に向かって、15時37分発の奈良線で稲荷まで。駅から徒歩10分という石峰寺は、ネットで調べてもかなりわかりにくそうです。

     あと100メートルというところで、どっち? となったときに現れた犬の散歩中の方に助けていただいて、迷子にならずにすみました。もう少し、曲がり角と雲などに内表示があればと思いましたが、児童公園の傍の矢印は、やっと判読できる覚束なさです。

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     矢印の差す方向に向かうと、民家に囲まれた石段の下に「百丈山石峰禅寺」「石像五百らかん」と刻まれた石碑と案内板に出会います。

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     石段を登ると、写真で見た赤壁の唐門が見えてきました。竜宮造りという様式なので、竜宮門とも呼ばれます。 

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     唐門脇の八重桜は蕾も固し・・・状態です。中国が明朝から清朝へと移る時期に日本に伝えられた黄檗宗のお寺で、異国の香りが漂います。いただいたパンフレットによれば、宝永年間(1704~1711)に建立された禅道場、寛政年間に当寺に草庵を結んだ伊藤若冲が、十余年をかけて裏山に五百羅漢を制作したとありますが、まずはお墓参りから。

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     参道を右に折れると、墓地の一角に「斗米庵若冲居士」と刻まれた若冲のお墓と幕末の書家・貫名海屋(ぬきなかいおく)の撰文による筆塚があります。墓前に供えられた臙脂色の百合が華やかな香りを漂わす空間です。若冲のお墓は、2年前に相国寺でもお参りしたことがあります。享年85歳で天寿を全うした若冲は、縁の深かった伏見の石峰寺に土葬され、遺髪が伊藤家の菩提寺である宝蔵寺と相国寺に埋められたそうです。

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     本堂は昭和の建物ですが、勾欄の手すりや扉に卍くずしを配した黄檗宗らしい独特の雰囲気です。 本堂の前を右に曲がると、裏山の竹林の中の五百羅漢に出会えます。二つ目の唐門から先は撮影もスケッチも禁止です。監視カメラがあるわけでもないので、検索すると映像があふれていますが、ダメと言われたことはできない性格なので、ぐっと我慢して撮りませんでした。公開されている画像を載せておきます。若冲が下絵を描き、石工に彫らせた五百羅漢は、釈迦の誕生から、托鉢、涅槃、賽の河原などの場面を再現し、なかなか立ち去りがたい雰囲気です。とりわけ賽の河原のお地蔵様の周りに並ぶ数多くの子どもの石像は、胸に迫るものがあります。当初は千体以上もの石像が配置されていましたが、現存する五百数十体の石像も風化が進んでいます。それがかえって愛らしい趣をかもしているかもしれません。私の好きな伏見人形の絵に通じる石像もありました。

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     心配していた雨にも遭わず、人気のない竹林の中の石仏と心ゆくまで向き合いましたが、足元はかなり厳しいです。手すりもないので、足腰に自信のない方は慎重に動かれたほうがいいと思います。

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     本堂の前は休憩できるようにという配慮があって、伏見の町を見下ろしながら、夕暮れの時を楽しみました。JR稲荷駅に着くと、伏見稲荷を目指した外国人旅行者でホームはあふれかえっています。積み残された方も出る混雑ぶりに驚愕です。

     品川駅の書店で求めた文庫本が旅のお供。どこまでが史実であるかはともかく、興味深く読ませていただきました。同じ鳥類でも、世評の高い表紙の鶏たちよりも、昨年、特別展「禅ー心をかたちにー」や「若冲展」で拝見した最晩年の作品「鷲図」に心が惹かれます。

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     せっかくの京都の夜なのに、お部屋に入ると、出かける気力が残っておらず、ホテルのレストランで夕食をすませてしまいました。

    昨日の出来事

     少しずつ気分が外向きになってきて、昨日は午前中は映画、午後はプールに行ってきました。映画は「エゴン・シーレ 死と乙女」。チラシの上部に掲げられているのが代表作の「死と乙女」ですが、あまり趣味ではありません。

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     エゴン・シーレの名前を初めて知ったのは、26歳だった娘とオーストリア一周のツアーに参加したときでした。娘の職場の同僚がシーレのファンで、ウィーンに行ったらぜひ観てくるようにと言われ。たぶんヴェルヴェデール宮殿で観たと思います。なぜ26歳だと鮮明に覚えているかというと、昼食のレストランで同席したバスの運転手さんと話していて、娘が年齢を教えると、まるで信じないのでパスポートを見せたら、驚いて、レストランにいた現地の方々に「この人は26歳だぞ」と吹聴したからです。

     いつもの下高井戸シネマはガラガラでした。シーレの短い生涯をかなり忠実に描いていて、いまから100年前のウィーンやチェコの情景も興味深かったのですが、目が釘付けになったのはシーレに扮する俳優さんの美貌です。

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     それに比べて、クリムトは、あまり冴えないおしさんでした。28歳で当時流行ったスペイン風邪で夭折するまでの画業と妹を含めた女性たちとの交流は私のような凡人にはかけ離れた世界ですが、映像も音楽も美しく、行った甲斐はありました。

     12時ごろに駅に戻ると、人だかりの奥で駅員さんが事情を説明しています。人身事故で運休! 自宅の最寄り駅付近から1時間に1便しかないバスでプールに行くつもりでしたので、あらま、どうしようと思いましたが、明大前まで徒歩10~15分ということなので、線路沿いの道を歩きました。

     井の頭線に乗って、余裕でバスに間に合って、4月にオープンした新しいプールに向かいます。近ごろ流行りの民営化のプールは、登録カードをかざしてチケットを発券し、自動改札で入場すると、8年通った市営のおんぼろプールとは雲泥の差。まだ不慣れなこともあって、前のプールの係員の人間的な温かみが恋しくはありますが、あまり多くを望むのは贅沢すぎるかもしれません。これまであったらいいなと思っていた水中歩行専用レーン、ジャグジー付浴槽、個室のシャワーブース、多機能トイレ、パウダールーム、水着脱水機滔々が完備しています。、

     できるだけ足繁く通って、健康寿命を1日でも伸ばしたいと願っています。親戚に、転倒→脳挫傷で3日間意識不明→奇跡的に回復するも後遺症で月額30万の施設入居7年、という男性がいて、家族の大変な負担を目の当たりにしていますので、切実な願いです。

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     怠け癖はとめどもなく、いまさら出てくるのもお恥ずかしい限り。1月末に風邪をひいて、2月は無為に過ごしたとはいえ、もう3月も終わりです。これ以上怠けていると、とうとう・・・と思われそうですね。この間にMETのライブビューイングで「ロメオとジュリエット」。最後に見たアムステルダムの舞台のメッセージ性の多さにまごう主演歌手の運動量の多さが際立ちました。歌舞伎は仁左衛門さんの知盛に尽きます。平氏一門でも、もともと知盛びいきで、「見るべき程の事は見つ」という最後の言葉が特に好き。いつぞやテレビから聞こえてきた朗読番組で、このセリフが打ち寄せる波のようにリフレーンされていたのを思い出しました。

     体力が低下すると、行動力も鈍ります。心に圧力が加わらないと、何事もやめるほうに傾いてしまいますので、孫たちと食事や買い物を楽しんだ帰りに、熱海を往復する特急券を買いました。3月29日はお天気も優しく、品川経由で熱海着。バスでMOA美術館に向かいます。10年ほど前に同窓会で訪ねたときは、尾形光琳がお目当てでしたが、今回は「山中常盤物語絵巻」です。

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     この作品の存在を初めて知ったのは辻惟雄著『奇想の系譜』の「憂世と浮世ー岩佐又兵衛」の記述でした。昭和3年にドイツに渡る寸前に私財をなげうって長谷川氏が購入した絵巻が昭和4年に京博、昭和5年に東京・三越で展示されたときは押すな押すなの盛況だったそうですが、リニューアルを終えたMOA美術館であまりストレスなく拝見できて喜んでいます。長いエスカレーターを何回も乗り継いでいくのは、行きはよいよい、帰りは怖いで、とりわけ下りのエスカレータが恐怖! たぶん次の機会はないでしょう。

     「山中常盤物語絵巻」は、12巻、全長150メートルの大作で、今回の展示は70メートルだけでしたが、ケースのガラスの材質や採光などに工夫が凝らされ、たいへん見やすくなっています。物語そのものは荒唐無稽。牛若丸が密かに奥州に向かったのを知った常盤御前は、お供の侍従と呼ばれる女性ともども後を追い、美濃の山中の宿で高価な小袖を狙った盗賊たちに惨殺されてしまいます。胸騒ぎを覚えた牛若丸が奥州から駆けつけて母の仇を討ち、そののち10万?!の兵を率いて上京する際、力になってくれた宿の主人夫婦に褒賞を与えるという仇討ち話が鮮やかな色彩で描かれています。岩佐又兵衛は、私が育った北摂の町で生まれ、伊丹城主となった荒木村重の遺児だそうです。先年、大河ドラマの「軍師官兵衛」で、そのいきさつが語られていましたが、信長を裏切った村重に置き去りにされた家族が皆殺しになったとき、乳母に抱かれて脱出したと言われています。

     「山中常盤絵巻」は、美術館の解説では「伝岩佐又兵衛」です。辻氏は又兵衛の作だと断じ、逆に又兵衛の自画像は彼をよく知る画家の作ではないかと述べられていますが、私には当否はわかりません。ただ、73歳で亡くなった又兵衛の像が超高齢に見えます。

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     珍しく撮影可でしたが、私の持つハードもソフトも極めてお粗末ですから、HPから2枚だけ拾わせていただきます。嗜虐的な殺しの場面は小心者ゆえ省きました。

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     脱線して山中とはどんなところか調べてみました。織田信長の伝記である『信長公記』巻八に「山中の猿御憐愍の事」という一節があり、美濃に本拠があったころの信長が京都との往復の際、美濃と近江の境の山中に山中の猿と呼ばれる頑者(障がい者)が乞食をしているのを見て、不審に思って尋ねたところ、先祖が常盤御前を殺した因果で、代々、頑者として生まれているという答が返ってきます。そののち彼らを憐れんだ信長が村人に木綿二十反を渡して、これで飢えないようにしてやれと言った、なんという情け深いお方だという信長ヨイショの逸話が残っています。山中の宿は東山道の宿場として賑わい、室町時代は陶器の産地としても知られましたが、関ケ原町の大谷吉継の陣跡の近くにいまも常盤御前の墓と伝わる史跡があるそうです。

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     2巡して目に焼き付けたのち、唐門をくぐって茶の庭を散策し、ムアスクエアで海を眺めました。なんと今年になって海を見るのは初めて。花の蕾はまだ固そうです。

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     やっと寒さも和らぎ、とても良い日でした。

     

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