2020年9月22日 (火)

フローレスに夢中だったころ

 別記したように、いま消滅したHPを復元中です。文章はコピーできても画像は空欄になって、改めて一つ一つコピーしなければなりませんので、遅々としてはかどりません。フローレスに夢中になっていたころの記録が懐かしくて、再録しました。別のサイトで完全に復原できたら、こちらは消去します。

 

2003年 8月  6度目のロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル

 1994年、ローマから長距離バスで6時間以上かかって夜のチェントロに着きました。いまはきれいに整備されていますが、当時は薄汚くて、暗いターミナルでしたので、頼んでおいたホテルの出迎えの車と出会ったときはほっとしたものです。今回、7泊したホテル・ロッシーニはその年の4月に開業したばかり、3食付きで1泊約5000円でしたから、うそのようです。あのときの「セミラーミデ」の衝撃がいまだに色濃く残っています。お目当ての一人、「スタバト・マーテル」に出演予定だったデヴィーアにはキャンセルされましたが、ペルトゥージ、スカンディウッツィ、ブレイクなどの歌声に魅せられながら一週間を過ごしました。
 
 その後は家庭や仕事の問題で地団駄踏んで諦めたことも数度。その中で衝撃的だったのはフローレス、そしてバルチェッローナとの遭遇です。バルチェッローナは99年の「タンクレーディ」! フローレスは初来日のリサイタルのときから現在を予測させる魅力を感じていましたが、なんといっても2000年の「チェネレントラ」とベルカント・コンサート! ステージ脇のボックスに陣取ったバルチェッローナやメイが熱烈な声援を送っていたのも忘れがたい思い出です。 
 すでに来年のプログラムも発表され、早くも来年に思いをはせています。

フローレス・リサイタル 8月15日 ロッシーニ劇場  

 正直に告白すれば、初来日のコンサートで第一声を聴いたときから、好きになってしまった声。熱中すると不具合なときに落ち込むのが怖くて、スポーツをはじめ何事にも距離を置くよう心がけていますが、不覚にもとらわれてしまいました。平静に聴くことができないし、あまり語りたくもありません。
 ピアノの上に片手を置いて、せきあげる想いを抑制しながら歌い上げる第一曲、少し固くなっていたでしょうか。モーツアルトに続いて、グルック、マスネー、ビゼーとフランスものが歌われました。この方向に進まれると、個人的には困るのですが、いろいろな可能性を試みていらっしゃるのだと思います。最後にロッシーニが2曲歌われて予定されたプログラムは終わりました。素晴らしかったのは、アンコールの3曲。最後に「愛の妙薬」から"Una furtiva lagrima"が歌われると、私を含めて満員の聴衆の熱気は最高潮に達しました。たぐいまれな資質に恵まれ、精進を続ける輝かしいテノール、その声を聴くと、生きることが楽しくなる存在。長生きしたいなどと変な欲が出てきて、困ってしまいます。
 席はパルコの3階。私以外の方はお仲間らしく、ずっと三脚付きのヴィデオで撮影していましたが、こんなのあり? と思いながら、欲しいなと考えてしまう身勝手な自分がいました。

アディーナ 8月15日・21日 ペドロッティ劇場 

 

 15日はフローレスのベルカント・コンサートだけの予定でしたが、Fさんのご親切なお勧めがあり、手際よくチケットを買ってくださったので、ペドロッティ劇場に向かいました。99年にも観ているのに、眠かったという情けない記憶しかありません。今回はミラノからの移動その他で疲れているはずなのに、楽しい世界に浸ることができました。まだ20代のヴィンコとベテランのヒメネスが役のうえでは年代が逆転しているのもご愛嬌。ヒメネスもヴィンコも楽しんで演じていて、これといった聴きどころのない曲がすっかり魅力のあるものに変わりました。表題役のディ・ドナートも好演。こうしてペーザロの第一夜は心地よく更けていきました。
 演出はいかにもアラブという雰囲気を出し、中心となった3本のオペラの中では奇をてらわないもの。コスチュームもそれらしいものでした。
 なお、ネット上でご活躍の何人かの方にお目にかかれたのも、とても嬉しい出来事です。

 21日 他のオペラは2度目のほうがずっといい出来でしたが、これは最初からよかったので、取り立てて言うほどの違いはありませんでした。座席の位置がプラテア中ほどの端で、すぐそばに冷房の送風口があったので、一転して寒くて困ったのと、全体の流れを知ったうえで落ち着いて鑑賞できたというのが違いでしょうか。 「L’OPERA」で99年の記事を見つけました。今回と全く同じ舞台装置と衣裳です。出演者もアディーナ・・ペンダチャンスカ、セリモ・・シラグーザ、アリ・・マッシモ・ジョルダーノ、ムスタファ・・デ・カンディアという顔ぶれなのに、ほとんど印象に残っていないのは、柱が邪魔でよく見えなかった、着いた当日、おまけに強烈なハプニングつき、「タンクレーディ」の衝撃と並べ立てて、ボケ度の隠蔽を図っておきます。

ランスへの旅 8月16日11:00 パラフェスティヴァル


Cantata scenica

Libretto di Luigi Balocchi

Musica di Gioachino Rossini

Edizione critica della Fondazione Rossini, in collaborazione con Casa Ricordi, a cura di Janet Johnson


Direttore CHRISTOPHER FRANKLIN Elementi scenici e regia EMILIO SAGI Costumi
PEPA OJANGUREN
Progetto luci
GUIDO LEVI

Corinna ELIZAVETA MARTIROSYAN
Marchesa Melibea MARIANNA PIZZOLATO
Contessa di Folleville EUNSHIL KIM
Madama Cortese SONIA PERUZZO
Cavalier Belfiore FILIPPO ADAMI
Conte di Libenskof JOSE MANUEL ZAPATA
Lord Sidney DAVID MENENDEZ
Don Profondo WOJCIECH ADALBERT GIERLACH
Barone di Trombonok FEDERICO SACCHI
Don Alvaro/Antonio BORIS GRAPPE
Don Prudenzio RAMAZ CHIKVILADZE
Don Luigino DAVID CASTANON
Maddalena ATZUKO WATANABE
Delia SANDRA PASTRANA OCANA
Modestina ULVYYA RASULOVA
Zefirino/Gelsomino DANIELE ZANFARDINO

ORQUESTA SINFONICA DE GALICIA

 最近、恒例になった感のある若い歌手たちによる「ランスへの旅」を観るのは今回が初めてです。パラフェスティヴァルのステージには白い椅子が並び、白い制服を着たテルメの療法士といった感じの人々が準備に精を出しています。出していない人もやがて女主人の督励を受けてというあたり、きびきびと始まりました。女中頭を演じるのは日本人の渡辺さんです。
 バスローブにタオルのターバン姿の湯治客の中ではフォルヴィル伯爵夫人を演じた韓国出身のkimが聴衆の厚い支持を受けていましたが、すべての出演者がのびのびと持てる力を発揮して、気持ちのよい公演。この日も午前中から楽しさに包まれました。
 大晩餐会の場面ではセンスのよい衣裳に身を包んだ女性たちと正装した男性たちが華やかな雰囲気を醸し出すなか、客席の最上部から風船の束を持ち、普段着に王冠をかぶった少年王がステージに向かって降りてくるのですが、あまりかまってもらえず、そこらにある缶入り飲料を飲んでいるのも笑えます。こんな生気に満ちた舞台をこれまで見逃していたのは、少し残念でした。

オリイ伯爵 8月16日・19日 20:30 ロッシーニ劇場


 ここに掲げた感想について、2004年4月にレッジョ・エミーリアで同じ演出の公演を観た結果、多くの勘違い、思い込みがあるのがわかりました。でも、このときはこう思ったのですから、削除したり訂正したりしないで、あえて恥を晒しておくことにいたします。

Opera en deux actes di Eugene Scribe e Charles-Gaspard Delestre-Poirson
Musica di Gioachino Rossini                                        
Editore Casa Ricordi

Direttore
JESUS LOPEZ COBOS
Regia
LLUIS PASQUAL
Scene, costumi e luci
LUCIANO DAMIANI

Personaggi                Interpreti
Le Comte Ory         JUAN DIEGO FLOREZ
Le Gouverneur       ALASTAIR MILES
Isolier                      MARIE-ANGE TODOROVITCH
Raimbaud                BRUNO PRATICO
La Comtesse           STEFANIA BONFADELLI
Ragonde                 NATALIA GAVRILAN
Alice                         ROSSELLA BEVACQUA

CORO DA CAMERA DI PRAGA
Maestro del Coro Lubomir Matl
ORCHESTRA DEL TEATRO COMUNALE DI BOLOGNA

Nuova produzione
In collaborazione con il Teatro Comunale di Bologna

 幕が開くと、赤い紗幕の奥にビリヤードの台とテーブル、豪華なシャンデリアが8個も。正装したプラティコが出てきて、意味ありげな表情で客席を一瞥。戦前の社交界を思わせる優雅な身なりの男女が目隠し鬼さんをやって、フローレスとボンファデッリがお互いの手をつかむ。ステージの奥は真っ赤なカーテン。その前に椅子の列。まず、あっけにとられました。
 主役・準主役の男性はいちおうそれらしい衣裳を身につけてオペラが始まりましたが、女性は社交服のまま。なんだろう、なんだろう、という思いが頭をめぐります。音楽的には素晴らしかったし、フローレスの美声に酔いながらも、演出の意図は消化不良の状態。わかるかな? 脳みその足りない者にはわからないだろう、と試されているようで、その夜はいろいろな場面を思い出して、意味付けを必死で試みていました。パリの社交界の人々が「オリイ伯爵」というオペラをやろうと決めて、実際に演じていくということはわかったのですが、細部にこだわって意味づけをしようとしたのは無駄、とわかったのは2度目の公演を観てからです。
 体調も万全。しかもお席は平土間の1-1。まず、目の前のコントラバスの方と目が合って、ニッコリ。幸先のいい出だしです。2度目は余裕で素晴らしいロッシーニの世界に浸ることができました。16日は少し固さのあったフローレスが、きょうは自ら乗りに乗って、オリイ伯爵を演じる青年になりきっていました。なんの苦もなく発せられる高音、聴いていて幸せになる声です。女性たちは一幕はみんな社交服。その中でアデーレ(フェルモティエ城の伯爵夫人)を演じるボンファデッリは、美しい容姿や優雅なパフォーマンスを含めて、抜きん出た存在感があって、6月のルチアで少し下がった閻魔帳のお点は急上昇しました。
 二幕はステージ前方に椅子が移され、後ろ向きに座った尼さん姿の男性たちに女性たちが楽しげにメイクを施す場面から始まります。口紅で装ったフローレスの可愛いこと。後ろの席のイタリア人のおばちゃん3人組がキャアキャア騒いでいましたが、完全に劇場中が「楽しい!」モード。もう相乗効果でオーケストラも合唱団もそれぞれの役を演じる歌手達も完璧に近い出来。こうなると、あら不思議、すべて納得してしまいました。予定どおり偽尼が来て、予定どおりワインを飲んだり、お祈りをしたり。果ては酔った偽尼さんが黒衣の前を広げて見事な下着ショー! プラティコはあまりにも豊かなお腹を惜しみなく披露し、謹厳なはずの家庭教師殿(マイルズというバス、初めて聴きましたが素晴らしいです)まですっかりその気。フローレスの下着姿なんて、めったに見られるものではありません。最前列が当たったことを感謝、感謝です。初めて出会ったオリイの小姓でアデーレの従兄弟役のトドロヴィチも魅力的。ケルビーノのようなズボン役イメージではなくて、鼻下に髭を蓄えた青年としてタカラヅカの男役顔負けのダンディさ。最後に胸をはだけて黒いブラジャーを見せるおまけつきでした。
 その中で伯爵役の青年とアデーレ役の社交界の花形、小姓役の男性に扮した女性がからむ場面は「演技」なのか、「本気」なのか。銃を構える仕草をした城内の女性の行進、挑戦的な合唱、あるいはワインの瓶が手品のように湧き出るテーブルなど、いろいろな仕掛けがあって、最後に全員がPACEの小旗を手にしてめでたく? 終わります。あの旗、4月にボローニャで1本2EUROで買って、いまも我が家の玄関に飾ってあるのですが・・・。いずれにしても、二度目の「オリイ伯爵」を観たあとは大満足、大興奮でホテルに戻ったのでした。よかった!!
   
 チンツィア・フォルテ・コンサート 8月19日 ロッシーニ劇場

 セミラーミデ 8月17日&20日 19:00 パラフェスティヴァル

「セミラーミデ」は私の原点、思い入れの深いオペラです。バールの神の巨大な像をバックに、歌舞伎や黒澤映画を意識した演出でした。衣裳は国籍・年代不詳でしたが、古代アッシリア帝国なんて誰も見たことがないし、合唱団の動きも含めて、音楽とピッタリな様式美の世界は見事なもの。それだけに日本を発つ前にある方から右下の写真や「Giacca e Cravatta」というタイトルのバルチェッローナの写真,、非難轟々という新聞報道などを送っていただいたときはエッと思いました。
 ペーザロに着いても、すでにご覧になった方は批判的な意見の方が多かったので、覚悟を決めて望んだのがかえってよかったのかもしれません。緞帳のないパラフェスティヴァルは入場するとすでにバックに世界地図がみてとれ、序曲の間に上から大きな輪が降りてきて、ドーナツ状のテーブルとなります。どうやらコンクリートの広大な地下室のようで、人々は舞台奥上方の左右の階段を下りてきます。やがておそろいの銀色の長髪、銀色の制服に身をかためた祭祀集団が登場、一矢乱れぬ作法で座を占めると、オローエの声が響きました。続いてありそうでなさそうな民族衣装を着け、ありそうでなさそうな国旗を手にした各国代表に扮した合唱団が現れ、婦人警官のような制服を身につけた女性がシャンパンを配って宴もたけなわになったところで、ターバン姿のイドレーノ、大きな鶏冠状の飾りを頭につけたアッスールが火花を散らし、黒眼鏡のシークレットサービスを従えたセミラーミデが現れます。次に何が出てくるのか興味津々で、あまり腹は立ちませんでした。心配していたクンデはやはり・・・。アブドラザコフは頑張っていました。
 いよいよバルチェッローナの出番です。このところ期待値のほうが上回り気味な場面が多かったので、前線から戻ったばかりという姿で現れ、懐かしげに舞台を一周して、”Eccomi alfin in Babilonia”の第一声を聴いたときの安堵と嬉しさ! パフォーマンスも凛々しく、今度はゲーム台になったドーナツ形テーブルを挟んだアッスールとの対決は迫力十分です。荷物の中の真っ赤なハート付きの封筒はいかにもチャチでしたが。
 結局、時と所については意表を憑く設定が試みられたものの、ドラマの進行に関しては、とくに新しさがあったとは思えません。セミラーミデの侍女たちがフェンシングの練習をしたり、各国代表団がカジノまがいの遊びに興じたり、理解できない場面もありましたが、かなり説明的でわかりやすいといえばわかりやすいのかもしれません。コンピュータがドーナツ形テーブルにずらりと並び、電話その他の媒体による情報の収集、それに反応して慌しく動くIDカードをつけた高級将校や親衛隊、制服に身を固めた女性秘書? たちが一つの権力が崩壊するさまを見せていました。最後にアッスールが黒いベレーに編み上げ靴、後ろ手を組んで、大事な場面でいつも上手の段上に整列していた親衛隊に取り押さえられ、アルサーチェが実の母を手にかけたことを知って苦悩するなか、新王への歓呼の合唱で長いオペラは幕となりました。カーテンコールで圧倒的な声援を受けたのはもちろんバルチェローナ。クンデとアゼーマ役のりー、指揮者のリッツィにブーイングが出たのはしかたのないことかもしれません。なぜこういう設定にしたのかはともかく、ここで観たり聴いたりしたのは、やはり「セミラーミデ」。この曲の持つ凄さを改めて感じました。
20日 「セミラーミデ」の最終日は前の方のお席がいただけました。演出家の手の内はほぼわかったので、音楽に集中できましたが、ここにいたって客席の反応も好意的になり、それが演奏する側にいい効果をもたらしたようです。バルチェローナの深々とした美声がなんと耳に心地よかったことでしょう。クンデもこの日の歌唱に関しては立派なもので、先日のブーイングに替わる喝采を受けて、双つの拳を突き上げて」ガッツポーズ。リーも無難に歌い終わって、バルチェッローナに抱きついて喜びを表していました。この二人がそれぞれの従者を従えて登場する場面だけが、妙に東洋的だったのは、何か意図があるのでしょうか。この日もバルチェッローナは熱烈な喝采を浴び、ここでは初めて板ふみの音も。終わりよければすべてよし、満ち足りた気持ちでホテルに戻りましたが、ペーザロに来て初めて、劇場の外に出たとき、肌寒さを感じました。

スタバト・マーテル 8月21日 21:30 パラフェスティヴァル

Dedicato a Lucia Valentini Terrani

Direttore
ALBERTO ZEDDA
Interpreti
IANO TAMAR, soprano
DANIELA BARCELLONA, mezzosoprano
GREGORY KUNDE, tenore
ALASTAIR MILES, basso

CORO DA CAMERA DI PRAGA
Maestro del Coro Lubomir Matl
ORQUESTA SINFONICA DE GALICIA

 私にとってはペーザロ音楽祭最後のコンサート。94年に同じ場所で同じ曲を聴いたときはテノールのマルチェロ・ジョルダーニが高音で失敗して、ものすごいブーイングを受け、まだ海外のコンサートに慣れないころでしたから、この人、海に身投げしないかと本気で心配した記憶があります。でも、この夜のパラフェスティヴァルは私の音楽祭の最終日を飾る心地よい興奮を与えてくださいました。
 お席も前から2番目、オーケストラ、合唱団に続いて4人のソリストが現れて、目を奪われたのはダニエラ・バルチェッローナの美しさ。昨夜の背広姿とは打って変わって、カールさせた髪、少し濃い目のメイク、とりわけ洗練されたデザインのドレスをまとったあでやかな姿にうっとりしてしまいました。最初に配役を知ったときは、いやだーっ、なんでーっと思ったクンデも思ったよりもずっといい出来(前回、ニースで聴いた日はとくに不調だったのかもしれません)、「オリイ伯爵」で家庭教師役を好演したマイルズは顔面を紅潮させて、素晴らしい歌唱(尼さん姿の下着ショーを思い出すと笑いそうになりましたが)、久々に聴くタマルもいい! そしてバルチェッローナ、第7曲のソロも、ソプラノとの二重唱も心のこもった絶唱でした。合唱団の凄い迫力、ガリシアから来たオーケストラもゼッダの棒のもと、凄い演奏! 心臓がバクバクするほど感動して聴いていた曲が終わると、満場が沸きかえり、ソリストたちは何度、ステージに呼び戻されたか数えられません。床が踏み鳴らされ、拍手が一つにまとまって、シャン、シャン、シャンという音になるのを聞いたのは99年の「タンクレーディ」以来です。周りの男性は老いも若きも声を限りにダニエーラ! ダニエーラ! と絶叫していました。4月のヴェネツィアのデヴィーアやペルトゥージの「スタバト・マーテル」もよかったけれども、この夜はそれを上回る演奏が聴けて、とても幸せでした。

HP復元

 2002年からHPをつくって、旅の記録とオペラの鑑賞記録を綴ってきましたが、昨年、魔が差して、消えてしまいました。もう悲しくて、悲しくて・・・。人生でいちばん輝いていたころの記録ですから、残念では済まず、落ち込んでいました。やっと気を取り直して、USBメモリに保存してあった記録を少しずつ復元したいと思います。復元不可能な部分もたくさんありますが、少しでもUPしておきます。画像のファイルは別になっていていますし、ココログの画像の容量も残り少ないので、UPは諦めるしかありません。

HP復元に関して新しいブログを立ち上げました。画像がUPできたら、復元はこちらに移行します。必死で作業を続けすぎて、足腰が悲鳴を上げているので、焦らずに取り組もうと思います。慣れたココログとシステムが違うので、けっこう見苦しい部分もありますが、自分のための復元です。

http://blog.livedoor.jp/tre_donnne/

HP復元・旅日記 ➁ 2002年6月14日~6月27日

2002年6月14日~6月27日


6月14日(金)
 飛行機の中はイタリア人だらけ。なんとなく予感がしていたようにボローニャ市立劇場来日公演のコーラスの方々でした。途中で日本がサッカ-で勝ったというアナウンスが入って、みんな大喝采!
6月15日(土)  フィレンツェ泊‥‥チェルトーザ・デル・ガルッツォ
  36番のバスに乗って、運転手さんにチェルトーザに行きたいと言うと、15分ほどで、ここで降りろと言われました。5分ほど歩くと、入口に着き、神父さんが、ある程度人数が集まるとガイドしてくださいます。残念ながらポントルモの絵は損傷が激しく、美術鑑賞が目的なら、あまり意味はありませんが、古い修道院のたたずまいはいい雰囲気でした。バスの運行が少し複雑で、帰りは行きに降りた場所から36番に乗って、次の停留所で37番に乗り換えます。
6月16日(日) フィレンツェ泊‥‥アンドレア・デル・サルトの美術館
 予定を変更して、近場の美術館にバスで行きました。サン・マルコ広場で20番のバスに乗り換えて、20分ほどで着きます。ベルを鳴らして扉を開けてもらうようになっていますが、サインを求められたノートを見ると、1日に1人ぐらいしか来場者はありません。 今夜は「シモン」の初日です。
6月17日(月) ナポリ泊‥‥王宮、カステル・ヌォーヴォ
 ナポリのホテルは劇場になるべく近いところを取りました。近すぎて一度も入ったことのなかったカステル・ヌォーヴォと王宮を見学。
6月18日(火) ナポリ泊‥‥エルコラーノ
 チケットのピックアップ、両替等に意外に手間取りましたが、暑さにめげず、エルコラーノへ。ポンペイよりはずっと小規模な遺跡です。海風に吹かれながら、のんびりと遺跡を歩きました。ベスビオ登山鉄道で片道1.55エウロです。
6月19日(水) ローマ泊‥‥サン・クレメンテ教会
 午後、サン・クレメンテ教会に行ったら、なんたる不運! なんとやらの会合のため地下の部分の見学はできませんでした。そのあとbowlesさんお勧めのサンティ・クワットロ・コロナーティ教会を訪ねたら、サン・シルヴェストロ祈祷堂は午後5時から開くとのこと。場所もわかりましたし、夜のオペラのため他日を期すことにしました。
6月20日(木) ミラノ泊‥‥午前中 ボルゲーゼ美術館
 前回は改修中で見られなかったサンタ・マリア・ポポロ教会に寄ってからネットで予約したボルゲーゼ美術館に。ホテル以外で冷房のある建物は初めてだったのと中身の濃さに感動して、時間配分を誤り、トラステヴェレは諦めました。どこもかしこも猛烈な暑さです。この夜、スカラ座のストに遭遇します。
6月21日(金) ミラノ泊
 地下鉄のCADORNA駅で私鉄のノルド線に乗り換えて約30分のサロンノに行きました。お目当ては奇蹟の聖母マリア聖堂のルイーニのフレスコ画です。『イタリア美術鑑賞紀行』を頼りに行ったのですが、少し誤りがあります。まず「ガードをくぐれば左手に美しい鐘楼が」と書いてありますが、左手には中華料理屋さんしかありません。そのまま直進して、最初の信号を右折です。
 また、中庭のアーチの下に描かれているのは「キリストの誕生」ではなくて、「聖女アポロニア」です。
 祭壇に向かって熱心にお祈りしている方に遠慮して、脇のほうから見ていると、その方が「もっと近くで御覧なさい」と言ってくださったり、やはりお祈りに来られた足の不自由なお年寄りがパンフレットをくださったり、説明してくださったり、とても親切にしていただいて、幸せな気分で駅に戻ると、なんと午後4時半までショーペロ! 
 ホテルの人に確かめたのに、と言っても始まりません。ノルド線の往復のチケットを買うときに確認しなかった私自身の手落ちです。このあともそうですが、いつ、どこで、どういうストがあるかという情報は極めて不確かで、新聞・テレビの報道もあてになりません。昨夜のスカラ座のストで観られなかった「セヴィリアの理髪師」のチケットを他の日と交換してもらうために、12時までにドゥーモ広場の地下にあるスカラ座の窓口まで行かなければならないので、困っていたらタクシーがいたので、やれやれ。タクシーもいないような田舎に行っていたら、どうなったでしょう。なんとか12時前に窓口に着いて、開くのを待っている間に、今度は夕方の6時から地下鉄のストだという情報が入ってきました。
 無事に24日のチケットに交換してもらったものの、まず今晩は開演すると確約を得た「蝶々夫人」に行くための足が問題です。それから、24日のミラノのホテルの確保とアレッツォのホテルの2泊目のキャンセル、ユーロスターのチケットの購入と忙しい午後を過ごしました。24時間有効の公共交通のチケットを買ったことだし、もうこれ以上タクシー代を使うのは嫌だと意地になって、ストの始まる前に動いたので、劇場の前で長時間にわたって開場を待つはめに。帰りのタクシーが確保できるかどうか心配でしたが、中央駅まで直通の列車が来たので、案外楽にホテルに帰れました。ちなみにホテルは中央駅から至近距離です。
6月22日(土) フィレンツェ泊
 10時のユーロスターでフィレンツェに。ものすごく暑いし、疲れたので、オペラが始まるまでホテルで寝転んでいました。劇場で会った方からまたしてもとんでもない情報! 22日21時からFSの24時間ストだそうです。エッ、どうやってアレッツォまで行けばいいのと焦っていたら、ある方の大変なご厚意で車で送っていただけることになりました。
6月23日(日) アレッツォ泊
 今日は午後9時までFSは動きません。友人の車でアレッツォのホテルに12時少し前に着いて、レセプションで私鉄のストについて尋ねたら、案の定、ノン・ロ・ソ。幸い駅に近いホテルでしたので、駅まで様子をみにいくと、なんとラ・ヴェルナに行く私鉄は動いていて、12時14分発です。急いで切符を買って、すでに入線している列車に乗りました。4番の窓口だけが私鉄も扱っているようです。最終目的地のCHIUSI DELLA VERNAまで往復券を買いました。BIBBIENAでバスに乗り換えます。ただ、日曜だったので、バスの本数が少なく、3時までありません。バールも閉まっているし、2時間もボーッと待つのは辛いなと思っていたら、CAMALDOLI行きのバスが来ました。運転手さんに往復しても、3時のバスに乗れるかと尋ねたところ、大丈夫だというので、乗ることにしました。乗客は全部で5人。4人は間もなく降りてしまって、ほとんど貸切でした。終点のカマルドリでは15分ぐらいしか時間がありませんので、急いで修道院を見学し、今度は完全貸切でビッビエーナまで戻りました。
 20分ほど待つと、ラ・ヴェルナ行きのバスが来ましたが、往復とも乗客は私だけ。約40分で終点に着きます。山岳信仰の聖地といった感じの場所で、たくさんの方が車や観光バスで来ていました。帰りのバスは5時に出るので、今度はゆっくり回れました。道中の景色も変化に富んでいて、楽しいドライブでしたが、こんなにガラガラで倒産しないか、心配です。
6月24日(月) ミラノ泊
 ストのお陰でまたミラノに舞い戻ってきました。午後はホテルでお昼寝。いったんホテルに入ると、屋外に出るのは勇気が要ります。
6月25日(火) フィレンツェ泊
 これでESは目出たく乗りおさめ。フィレンツェへとんぼ返りです。ストがないと思ったら、今度は事故でパルマの駅で1時間半も動きません。ホテルのレストランで最後の昼食をという計画はご破算です。何日もまともな食事をしていないので、どのくらい痩せたか楽しみになってきました。最後のオペラは言葉にならないほど凄いものでした。
6月26日(水)
 日本に帰る日になりました。8時半の開場ピッタリに旧サンタポッローニア修道院に入って、カスターニョの「最後の晩餐」を見てから、空港に向かいました。総仕上げは空港の管制官のスト。ミラノの空港で2時間待たされましたが、南イタリアから来る便は全部キャンセルだそうで、飛行機はガラガラ。3席を独り占めして、横になって帰れたのは、ハプニング続きの旅に最後に訪れた幸運でした。



  

HP復元。旅日記① 2002年1月27日~2月7日

2002年1月27日~2月7日


 旅に出る少し前、ダ・ヴィンチの「白テンを抱く貴婦人」を見ました。モデルはスフォルツァ家のルドヴィーコ・イル・モーロに寵愛されたチェチリア・ガレラーニだそうです。この旅はイル・モーロ生誕の地ヴィジェーヴァノに始まり、妃と並んだ棺の置かれたパヴィーアの修道院で終わりました。両日とも霧や雨に閉ざされていたのを「女の涙」うんぬんというつもりは全くありませんが‥‥。

 1月27日(日)
 ヴィジェーヴァノ行きは明日に延期し、サン・ロレンツォ教会を目指しました。不測の事態で3時からのオペラに遅れては困りますし、ヴィジェーヴァノ行きの列車が出るポルタ・ジェノヴァ駅から近いというのが理由です。地下鉄を降りて明日の列車の切符を買い、運河沿いの道に出ると月に一度の骨董市で賑わっていました。ティチネーセ門からサンテウストルジョ教会を経てロレンツォ教会に向かう途中で新しくできた美術館を発見。ここでバチカン絵画館で見たカラヴァッジョに再会しました。ロレンツォ教会の近くからトラムでホテルに戻り、午後は「椿姫」を観るためアルチンボルディ劇場へ。
 1月28日(月)
 荷物をミラノ駅に預けて、ロンバルジアで最も美しいと言われるドゥカーレ広場を持つヴィジェーヴァノに。ミラノを出ると霧がたちこめ、広場もお城の塔もおぼろにかすんでいました。荒れ果てた宮殿やいくつかの教会を見学したのち、ミラノ中央駅で預けた荷物を引き取り、ESでフィレンツェに向かいました。
 1月29日(火)
 4番のバスでスティッベルト美術館に。バスを降りて坂道を昇っていくと、あたりは高級住宅地の風情です。10時の開館まで広い庭を散策しました。係員の案内で回る仕組みなのに、お客は私一人だけ。あまり趣味のいいコレクターとは思えませんが、クリヴェッリの絵だけは格別。どういういきさつでこの絵を入手したのか、逆に不思議なほどでした。午後は市バスのストもあって、ホテルで休養して、夜のオペラに備えました。
 1月30日(水)
 朝からアッシジに向かうはずが13時まで鉄道のストで動けないので、午前中はバスでメディチ家の二つの別荘のあるカステッロに行きました。カステッロの館は庭園だけしか見学できませんが、300メートルほど離れたペトライアの館はガイドの案内で4人のイタリア人と一緒に内部も見学できました。
 アッシジへの直通列車はアレッツォからトラズィメーノ湖畔を通り、夕方アッシジの駅に到着。二人しか乗っていない市バスでホテルに。窓からウンブリアの夕暮れの景色が楽しめる絶好のロケーションでした。
 1月31日(木)
 アッシジ大聖堂に7時半ごろ行くと、下堂はすでに開いていました。ちなみに上堂は8時半から。警備の人がいるだけで森閑としていましたが、光量が乏しくて、せっかくの名画がよく見えないのは残念。9時ごろからようやくフレスコ画の輪郭も判然としてきました。前に来たときは各国の神父様が自国の人に絵解きをする声が交錯していたのですが、今日はだれもいませんでした。
  コムーネ広場の絵画館に行くと南京錠がかかっています。インフォで聞くと、フランチェスコ通りに移転したというので、来た道を少し戻ました。ミネルバ神殿の跡、ドォーモを見学したのち、市立博物館へ。地下に古代のフォロの遺構のある異色ある博物館です。昼食をとるため、あちこち探したが、ほとんどの店は閉まっています。やっとバルを見つけて、またしてもパニーノ。イタリア広場から出るバスはS..M.デッリ・アンジェリ教会まで行くので、「ポルツィウンコラ」「臨終の礼拝堂」「バラ園」を見学して、フィレンツェに戻りました。
 2月1日(金)
 アレッツォへ。ストがなければアッシジの行きか帰りに寄ればいいのですが、旅にはこの程度のパプニングはつきもの。中世近世美術館・サン・ドメニコ教会・ヴァザーリの家、最後にピエロの「真の十字架伝説」に四ヶ月ぶりに再会しました。
 2月2日(土)
 ボローニャまでは約1時間。駅に荷物を預けて、市バスでホテルに。3度目なので、我が家に帰ったような気がしました。懐かしいリストランテで、トルテッリーニ・イン・ブロードで温まりました。6時開演、1時間前にチケットのピックアップとなると、3時半に開くボンジョヴァンニに行くだけで精一杯。開場までの間、サンタ・チェチリアの祈祷堂のフレスコ画を見ました。ボンジョヴァンニの袋を持って立っていたら、いきなり「その店はここから近いのか」と尋ねられ、返事に困ってしまいました。近い? 遠い?
 2月3日(日)
 ボローニャで未見の美術館に行く予定でしたが、9時半以後は車は通行禁止、市バスも極めて少なくなるというお達しを見て、早めにレッジョに行くことに決めました。この旅で最高のホテルだったのに‥‥。
 レッジョのホテルはカピターノ・デル・ポポロの宮殿だったそうで、品格があります。レストランがないのが残念。フロントに電話をかけてもらって、やっと昼食をとることができましたが、日曜日は殆どお休みです。市立美術館に入ったら、この地で生まれ、明治初年、日本で油絵を教授したフォンタネージの日本を描いた絵がありました。膨大なコレクションの中には夥しい動物の死骸(剥製その他)が含まれ、こういうものに弱いたちなので、ひたすらうつむいて歩きました。夜は8時半からオペラです。
 2月4日(月)
 今日は日帰りでパルマに。コッレッジョの部屋、福音史家ヨハネの薬局、サン・セポルクロ教会を経て、スチュアート美術館に。ここの二人の女性の親切なこと、聞きしにまさるものでした。友人と劇場の前で13時に待ち合わせていると言っても、2分で行ける、まだ時間があるから、これを見ろ、あれを見ろと懸命に引きとめられて、その熱意にただただ感動!
 O夫妻に再会、昨年は閉鎖されていた王宮の庭を抜けて案内してくださったお店の美味しかったこと! 
 2月5日(火)
 ミラノに戻り、ホテルに荷物を置くとすぐベルガモへ。行くたびに閉館日だったので、三度目の正直とばかりカッラーラ絵画館に駆け込むと、向かいの会場でやっている特別展を見たら、こちらは無料だから、あとからおいでとおっしゃいます。なんとRAUコレクションの展示が行なわれていました。今回入った美術館の中で入場者数は堂々第一位。ピカピカの短剣を腰に帯びた士官候補生らしきグループが教官とガイドに伴われてレクチャーを受けていました。
 カッラーラ絵画館はひっそりと迎えてくれましたが、内容は今回入った中では随一。満ち足りた気持ちでミラノに戻りました。RAUの特別展は1月31日から5月1日までだそうです。
 2月6日(水)
 朝からかなり激しい雨。パヴィーア行きの列車は1時間ぐらい遅れて9時12分ごろ発車し、20分で着きました。駅で日本人のご夫婦と出会い、一緒に歩くことに。当初のプランどおりサン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会、ビスコンティ城、ドーォーモ、コペルト橋を回ったが、サン・ミケーレ教会に着いたときは12時を過ぎて入場はかないませんでした。ファサードを眺めて、赤ひげ王をしのびました。
 午後、列車がなかなか来ません。あまりの寒さに奥様が体調を崩され、お二人はミラノに帰られたので、また一人旅。チェルトーザの駅員さんも親切の塊。地図を頼りに歩きだしましたが、猛スピードで疾走する車に傘は吹き飛び、やっとたどり着いた修道院は人影もありません。イル・モーロ夫妻の棺もなにもかも独り占め。2時間いて7人の人に会っただけでした。駅の待合室のストーブで靴を乾かしていたら、やってきた人の好奇心の対象に。夏はチェントロからバスがたくさん出るのに、と言われても‥‥。
 2月7日(木)
 帰国の途に。 初めての独り旅は無事に終わりました。

 

2020年9月20日 (日)

METライブビューイング アンコール2020➁

 9月19日は、ヴェルディの「仮面舞踏会」です。ヴェルディの作品の中では、あまり上演されなくて、実演は6回しか観たことがありません。最初は、1986年の藤原歌劇団の公演でした。アナログ真っただ中の世界で、明大前の京王観光でチケットを購入したことは覚えていますが、主要キャストはすっかり忘れてしまいました。調べてみると、市原多郎さんがグスターヴォを歌われ、日本で最初の字幕付き上演でした。

 物語は舞踏会で部下に殺されたスエーデン国王の暗殺事件をもとにしたオペラで、演出を担当したデイヴィッド・アルデンは、舞台美術をフィルム・ノワール(40~50年代の犯罪映画)仕立てとして視覚的に表現し、時代背景も20世紀初頭に設定しています。とくに目立つのは、しつこいほど現れるギリシャ神話に登場するイカロスの墜落の画で、自らを死に向かって追い込んでいる王の姿を象徴しているようです。

 王の側近役のホヴォロストフスキーの元気な姿に感無量でした。吉田秀和氏が紹介されて存在を知った1962年生まれのロシア出身のバリトンのリサイタルのCDを買ったのは、はるか昔です。当時はホロストフスキーという表記で、声はバスチアニーニ、姿はヌレエフと評された俊英を初めて聴けたのは、火災に遭う前のフェニーチェ劇場でした。熱狂的なファンにはなりませんでしたが、名声を博していた方の訃報に接したのが2017年です。2012年にはこんなにお元気で、インタビューに答えて「声は完璧」と相変わらずだった方が55歳の若さで脳腫瘍で逝去されたのは惜しまれます。

 王を演じるアルバレスに気品を求めるのは無理ですが、本作が収録された2012年の前年のMETの来日公演に際して、多くの歌手が原発事故の放射能被害を恐れてキャンセルした中で、「ルチア」のエドガルド役を演じてくださったのは有難かったと思っています。

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 アメーリア役のラドヴァノフスキーという方は、初めて聴きましたが、これまで聴いた方の中ではブラヴァ―です。アンコール上演の「ロベルト・デヴェルー」でエリザベッタを歌われるので、行こう! と。

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 モノトーンの舞台は、1930~40年代のフィルムノワールを意識したそうですが、映画に疎い私にはわからない世界です。3幕が音楽も美術も最高でした。

 この日、いちばんの幸せは、尊敬してやまない方と帰りのエレベーターで出会って、ランチをご一緒し、お話もたっぷりできたことです。独居老人の身で無言の行に励んでいる日常にこんな嬉しいことはめったにありません。

 ラドヴァノフスキーは、これまで聴いたアメーリアでは最高でしたので、検索して調べてみました。アンコール2020に入っている「ロベルト・デヴェルー」のエリザベッタの最後のアリアを聴いて、行くことにしました。この役のほうがもっとよさそうです。

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2020年9月18日 (金)

METライブビューイング アンコール2020①

 あまりの猛暑に外に出る気にならず、パソコンでドラマを観たり、本を読んだりして過ごしていましたが、9月も半ばに近づくと、少しおさまったようです。買ってあったチケットはすべてキャンセル。せめてもと東銀座でオペラの映画を楽しんできました。

 最初は2007年に上演されたフローレスとディドナート主演の「セヴィリアの理髪師」です。

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 フローレスに出会ったのは1999年でした、当時はまだ知名度もそれほど高くなく、池袋の会場は7分ぐらいしか席は埋まっていませんでした、以後、虜になって、イタリアではペーザロ、ボローニャ、トリノ、レッチェ等々、スペインではバルセロナ、マドリード、ビルバオ、果てはカナリア諸島のラス・パルマス、ドイツではベルリン、ミュンフェン、いま思い出してもワクワクする日々が始まります。昨年、久しぶりに来日されて、リサイタルにはせ参じましたが、たぶん今生の別れと思っています。

 今回、映画ではありますが、夢中になっていたころのフローレスが聴けたのは嬉しい限りです。大アリアも歌ってくださったし・・・。欲を言えばきりがありません。ロッシーニの毒気にあてられながら、過ぎ去った時の思い出が全身に広がりました。2004年ごろから描き続けたHPが手違いで消えてしまって、なんとか復元をと試みながら、いまだ手に負えません。かすかな記憶をたどれば、2007年の夏はペーザロで「オテッロ」のロドリーゴに酔っていました。ビルバオでバルチェッローナが「カプレッティとモンテッキ」のロメオを演じたのもこの年です。

 渋谷の乗り換えが不便になり、9月13日で東急百貨店のエレベーターも使えなくなりました。東銀座まで行くのも難しくなりそうで、今のうちにと思っています。

 2日おいて、16日に「ランメルモールのルチア」を観てきました。デセイとなかなかご縁がなくて、やっとという感じです。この演目も各地で名歌手の主演で聞いていますが、映画ながらとても感動しました。デセイが素晴らしいのは言うまでもありませんが、嬉しい誤算はエドガルドを演じたマルタ島出身のカレーヤです。この方にもあまりご縁がなく、DVDでロッシーニの「イギリス女王エリザベッタ」を観ただけでした。最近はあまりお名前をきかないような気がしますが、いまもご活躍なのでしょうか。

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 あちこちでいろいろな演出をみてきましたが、一幕の美しさは格別です。

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 エンリーコを演じたテジエは、ビルバオで聴いた同じ役が素晴らしすぎたようです。解説を担当したフレミングが震災に遭った日本へのお見舞いのメッセージがあって、収録されたのが東北大震災の8日後だったことに気付きました。インタビューで3幕のエンリーコとエドガルドの二重唱が聴けることがわかって、期待値が高まります。この場面はカットされることが多く、これまでに一度しか観ていないのですが、話のつじつまがあいません。ただ、エドガルドの邸が立派すぎて、以前、オーチャードホールで観た落魄感がないのが残念でした。

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 終幕のエドガルドのアリアは、ビデオで観たベルゴンツィがほとんど棒立ちで歌っているのが、もらい泣きするほど凄いと思っていましたが、カレーヤもなかなかのものでした。C・D・フリードリヒの画のような樹と月は既視感がありますが、時代設定を繰り下げた演出は、いいとしても、写真屋さんが出て来て、結婚式の記念写真を撮ったり、医師が駆け込んでルチアに鎮静剤をうったりするのは、感心できません。

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「オークの森の修道院」フリードリヒ

2020年8月29日 (土)

ビルトインコンロ

 一か月以上たって、やっと新しいコンロが使えるようになりました。お盆休みを挟んだとはいえ、遅々として進捗しない状況に苛々しましたが、やってきた工事業者さんは爽やかな青年で、てきぱきとした働きぶりが好ましく、斜めだったご機嫌は平らになりました。前回、オーブン一体型から分離型にしたので、費用は半分以下です。

 新しい製品は、さすがに進化しています。三つのコンロとグリルの操作ボタンには、タイマーや温度設定スイッチがついていて、揚げ物や煮物の調理がとても便利です。2008年以後は消防法で自動消火のためのセンサーをつけなければならなくなったので、火災や焦げ付きは防げますが、構造が複雑になったぶん、故障も多いそうです。とくに吹きこぼれは禁物で、手入れを怠ると5年ぐらいで使えなくなる例もあると聞いて、ぞっとしました。牛乳を温めていて吹きこぼれたことが何度かありましたから、それが薄命の原因かもしれません。

 また大金を払う羽目にならないよう、修理についても詳しく教えていただきました。製造打ち切り後5年以内なら部品はあるそうです。取り付け工事業者と修理専門の業者さんは別だというのも知りませんでした。信頼できる修理専門業者さんの名前と電話番号を書いていただいて一件落着です。

 

2020年8月17日 (月)

『暗い林を抜けて』黒川創

 いつもブログで心地よい刺激を与えてくださるykさまが紹介されていた『暗い林を抜けて』を図書館に予約したところ、2か月たってやっと順番が回ってきました。黒川創氏の作品を読むのは初めてです。冒頭は言語聴覚士の女性が「わたし」という一人称で語っていますが、大部分はこの女性と大学生のころかかわりのあった有馬章というジャーナリストの個人的なお話(癌の手術と五年後の再発・転移、転勤と結婚・離婚・再婚など)と仕事に絡むテーマです。内容が多岐にわたっているので、簡単に整理してみました。語り手が替わったり、時代が前後したり、戸惑う部分もありますが、読みだすと一気に読めました。

①シベリア抑留 言語聴覚士の綾瀬久美が訪問リハビリで通う老画家は、かつて中国に従軍し、シベリアに抑留されます。被害者意識のみで語られていないところに作家の目線を感じました。有馬は、かつてこの画家の個展を取材したことがあって、久美とのかすかな接点があります。

➁外交伝書使 癌の手術後「『戦争』の輪郭線」という連載企画が採用された有馬が第一回に選んだテーマです。1945年の春、都留重人は外交伝書使としてモスクワを訪れます。第一次世界大戦という言葉は第二次世界大戦が勃発してから使われるようになったとは知りませんでした。

➂千葉公使 中立国ポルトガルの千葉公使は、日本と米国、日本と英国に残留するそれぞれの自国民の交換船の実現に努力したのち、パリからイスタンブールに移りました。敗戦の翌年、ヨーロッパに駐在していた外交官たちが帰国しますが、千葉公使は心身を病んで敗戦直前に妻を殺して自死します。

④湯川秀樹日記 日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹の1945年の日記3冊が2007年に公開されました。湯川ら日本の科学者たちは、戦時下に日本の原爆研究に携わり、45年6月に原爆開発についての会議に出席しています。有馬は科学的思考と日常における危険に対する気構えを、ともに持続するのはひどく難しいのではないかという疑問を持ちました。これはいまの感染症対策でも言えるのではないでしょうか。日記の中に1945年3月17日にシュナイダーのリストの演奏を聴いたという記述もあります。

⑤エタ・ハーリヒ=シュナイダーとゾルゲ事件 ピアニストでチェンバロ奏者でもあったシュナイダー(1897-1966)は、1941年5月にベルリン→モスクワ→シベリア鉄道→釜山→下関→東京という経路で来日し、到着の翌日、ドイツ大使夫人からドイツ紙の特派員リヒャルト・ゾルゲを紹介されました。数か月後、ゾルゲはスパイとして捕らえられ、1944年11月に処刑されますが、取材業務と違法性に同じ記者の有馬は疑問を持ちます。8月15日を控えて、4年前に放映された「ドラマ東京裁判」が再放送されました。オランダ人の判事に音楽を教える場面など、シュナイダーが度々登場します。

⑥ホーキング博士とALS 2018年に「『戦争』の輪郭線」の連載が終えて定期健診を受けた有馬は、癌の肺と肝臓への転移を告げられます。ここから時は遡って、1990年、有馬が金沢から長崎に転勤する半年前に来日したホーキング博士とALSの話題になりますが、学生時代にALSを発症した博士が3分の2以上を車椅子の上で過ごした生涯を閉じたのも2018年です。先日、ALS患者の女性の嘱託殺人が大きな波紋を呼びました。娘の姑と義姉が同じ病気で亡くなっています。もし自分ならどうしたいか、全くわかりません。ただ、ホーキング博士の場合は、二人の妻が心身の限界まで尽くしたそうです。

⑦長崎 長崎に転勤してまもなく、有馬の妻ゆかりは、かつて勤めていた出版社の依頼で、長崎ものの連載25回分を任されることになり、カメラマン同行で取り組むことになります。その中ではキリシタン大名支配下における仏教や神道への迫害という事実が驚きでした。キリシタンが悪役になると、観光立県の妨げになるそうです。

⑧岩倉と朽木 ゆかりと離婚し、弓子と再婚して太郎が生まれ、癌の手術後5年で再発した有馬は、学生時代に聞いた岩倉の話や30代半ばで行った朽木のことを回想します。どちらも障害者とかかわりがあるようです。朽木の興聖寺は、数年前に近江高島に泊まって、あっちだ、こっちだと歩き回ったときに、JRの安曇川から路線バスに乗って訪ねた場所です。室町幕府の将軍が2代にわたって京都から逃れて仮寓したさい、細川高国が作庭した名園は、「麒麟がくる」にもちらりと登場しました。小浜から京に至る鯖街道の宿場に近い名刹は私にとっても忘れがたい場所です。

 最後のページに「秋山の黄葉を茂み迷いぬる妹を求めむ山道知らずも」という柿本人麻呂の挽歌が引かれていました。軽の里に暮らしていた妻が亡くなって、血の涙を流して詠んだ長歌に添えられた短歌2首は、『記紀』のイザナキ・イザナミ神話との関連も説かれていますが、小説の表題の林を抜けた先に何があるのでしょうか。

 

 

2020年8月 7日 (金)

続・コンロが不具合

 7月の終わりに着火しなくなったSIセンサーコンロ、連休明けに見積もりの電話があって、あまりにも高価なので、メーカーから直接買うことにしましたが、今日(8月7日)にやっとメーカー下請けの工事業者さんが下見にきました。一目見て、「新しいですね。修理の話は出なかったんですか?」。「9年たっているから、新品に買い替えろと言われた」と話すと、15年ぐらいは部品があって、修理可能だそうです。皆さん、ガス漏れ検査などでやってくる東京ガス〇イフ〇ルの言うことは信じないほうがいいですよ。すでにメーカーのオンライン販売で契約して、代金も支払い済みなので、嫌な気分だけが残りました。今日来た利発そうな青年は、今後はメーカーに修理の依頼をした方がいいと言って帰りましたが、悔しいので、最低あと6年は生きてやろうと思っています。

 最初に来た業者さんがSIセンサーを切って帰ったので、いまのところガスは使えています。2008年以後、消防法でSiセンサーをつけないといけないことになったそうですが、故障も早いようです。友人は30年前のコンロを問題なく使っています。わざと壊れやすい製品を造っているのでは、と邪推してしまいました。

2020年8月 6日 (木)

アルメニア

 一か月前は、ほとんど関心のなかった「グルジア(ジョージア)」「アルメニア」という言葉に対する感度が増したのは、ひとえにグルジア生まれのアルメニア人である映画監督パラジャーノフのおかげです。7月の大部分は、この方の映画に溺れていました。登場する人々の聖ゲオルギウスに対する信仰の篤さがうかがえ、「グルジア」の守護聖人が聖ゲオルギウスであることも知りました。

 お盆休みの前にやっておかなければならないことがいくつかあり、疲れてしまいましたので、ネットを検索して、とりあえず「君への誓い(原題 The  Promise)2016年」というアメリカ映画をパソコンで観てみました。

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 トルコ帝国の小さな村に住んでいたアルメニアの青年ミカエルは、医大の学資を得るため持参金を目当てに婚約してイスタンブールに向かいます。寄寓した裕福な親戚の家にはフランス帰りのアルメニア人家庭教師アナがいて二人は惹かれあっていきますが、アナにはAP通信の記者でアメリカ人のクリスという恋人がいました。一人の女性を二人の男性が愛してしまうというヴェルディのオペラのような出だしですが、第一次世界大戦が近づくと、トルコによるアルメニア人への残虐行為が激しくなり、強制労働に駆り出されたミカエルは隙をみて脱走して故郷に帰ります。母の願いで婚約者と結婚して、ささやかな幸せを得たのもつかの間、圧倒的な軍事力で村人は惨殺されました。孤児を国外に逃れさせようとするアナやジャーナリストとして事実を世界に発信しようとするクリスと再会し、苦境のなかでヒロイックな人が続々と登場するのは、やはりアメリカ映画です。

 まだ観ていませんが、同じテーマを描いた「アララトの聖母」をすでにご覧になった方が、比べれば本作のほうが単純化されていると言われているので、「アララトの聖母」も観ようと注文中です。本作は両親を失いながらアメリカに脱出して大富豪になった方が制作費の大半を出されたそうで、アメリカおよびフランスは正義、トルコおよびドイツは悪という強固な訴えかけがありますが、なぜこういう事態に至ったかという問いの答えは得られません。19世紀末の露土戦争以来の対立、あるいはもっと根深いものがあったはずです。第一次世界大戦当時の虐殺の犠牲者の数については、200万から20万まで諸説がありますが、ある研究者は80万ぐらいではないかと言われています。トルコは、民族移動はあったが、虐殺などないという態度で、この映画のロケもスペインで行われました。第二次世界大戦におけるナチスのユダヤ人虐殺は広く知られているのに、アルメニア人の虐殺は世界史の授業でも全く触れられません。特定の宗教や経済力を持った人たちに対する恐怖心を利用して国民を操る為政者は、いまも存在すると思います。

 急に暑くなって怯んでいましたが、「剣の舞」のチケットをネットで買って自分を追い込みました。アルメニア人の両親を持つアラム・ ハチャトゥリアンが、第二次世界大戦の最中に8時間で運動会でおなじみの「剣の舞」を作曲するという物語です。パラジャーノフと生地も両親の出自も同じくするハチャトゥリアンは1903年に生まれているので、パラジャーノフより21歳年上ですから、アルメニア人の虐殺は少年時代に起こっています。

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 第二次世界大戦中の1942年、レニングラード国立オペラ・バレエ劇場はモロトフ市(現在のペルミ)に疎開し、寒さと食料不足に悩まされながら12月9日に初演を迎えるバレエ「ガイーヌ」の練習に励んでいました。冒頭、グルジアの田園風景と幼いアラム・ハチャトゥリアンが女の子と一緒に親に隠れて飛び切り辛い唐辛子を食べて悲鳴をあげる場面がありますが、その子の名前がガイーヌです。それから30数年たって、作曲家となったアラムがモロトフ市のホテルに泊まって、「剣の舞」を作曲するまでの2週間が映画の大部分を占めていますが、アラムに従僕のようにかしずく弟子のゲオルギー、ひそかにアラムの好物をホテルに届けるプリマ・バレリーナのサーシャ、連日のように変更を求める振付師のニーナ、サーシャに想いを寄せるサックス奏者のアルカジーたちの前に、文化省のプシュコフが上映前の検閲にやってきます。

 過労で倒れたアラムの見舞いに来たショスタコビッチとオイストラッフが病院から抜け出したアラムと一緒に市場で演奏する場面は、実話とは時も場所も動機も違うそうですが、映画では心温まる美談になっています。

 この映画は「君への誓い」とは違って、アルメニア人の虐殺を正面から取り上げているわけではありません。1939年にアラムはアルメニアを訪れ、アララト山やホルヴィラッブ修道院の美しさに感動します。この場面がもっと濃ければうれしかったのですが、ながら残念さらっと終わってしまいます。そのあと、同じ師のもとで音楽を学んだプシュコフと同席したさい、アラムは1909年と1915年にアルメニアでトルコが残虐行為を行った事実を語り、世界がそれを黙殺したことがファシズムの誕生を許し、ユダヤ人虐殺が続く現実につながったと批判すると、プシュコフは、100年たったらみんな忘れていると揶揄し、激怒したアラムがテーブルの上のボトルで殴打したのが確執の原因だと明かされます。つまり、アルメニア人の虐殺はアラムの語りだけで終わっています。

 1942年に戻りますと、プシュコフは、サックス奏者のアルカジーに兵役免除をちらつかせてアラムの動静を探らせ、サーシャに言い寄り、公演の8時間前にアラムにクルド人が剣を持って戦いの踊りを踊る場面の曲を作るように命じます。こうして「剣の舞」が誕生しますが、アラムはこのことを後悔していたそうです。サーシャが「仮面舞踏会」のワルツが好きだと話す場面で浅田真央さんが使った曲が流れました。「仮面舞踏会」の原作者は「アシク・ケリブ」と同じレールモントフです。

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 アララト山とホルヴィラッブ(深い穴)修道院の写真を探してきました。この修道院に行かれた方のブログによると、修道院では「3世紀に聖グレゴリウスがアルメニアでキリスト教を布教していると、王に捕らえられてこの地に幽閉された。13年たったころ王が重病に罹ったときに、王の姉か妹がグレゴリウスを解放するよう王に告げろと天使が言っている夢を見た。王が解放すると、病気が治ったので、キリスト教を信じるようになり、アルメニアの国教をキリスト教と定め、この修道院を建てた」と伝え、グレゴリウスが幽閉されていた穴に下りられるそうです。

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