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山形日和。・・・②最上義光歴史館と霞城公園

  駅ナカホテルに2泊したので、10月26日は身軽になって、山形市内と上山市内をめぐりました。夜来の雨から一転して好天気。文字通り山形日和です。まず「中心街100円循環バス」で最上義光歴史館に向かいます。多くの自治体がこの種のバスを運行していますが、おおむね便数が少ないのに対して、山形市の場合は10分置きに発車というのが異色です。中心街の活性化と交通混雑の緩和、高齢者の足の確保がおもな目的だそうですが、始発が9時30分なのは、通勤者の利用を防ぐためだとか。バスは観光ボランティアに率いられた静岡から来た観光客で満員でした。霞城公園前で下車すると、歴史館は目の前です。

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  「最上義光歴史館」は、山形城や山形城主だった最上義光に関する資料が見られ、ありがたいことに入場無料で、サポーターの方の詳しい説明も伺えます。 

 最上家の家紋は足利氏の家紋と同じ「丸に二引両」で、サポーターが着ていらっしゃる法被にも染め抜いてありました。先日、尊氏ゆかりの甲斐の清白寺でも見たばかりです。

 実家のご先祖様は1600年の最上勢と上杉税が戦った慶長出羽合戦に際し最上家家臣として現上山市山付近の広河原で銃撃により戦死と伝えられているので、感慨もひとしおです。上杉方の直江兼続は山形城ではなくて支城の長谷堂城を攻め、最上勢が撃退します。1622年にお家騒動が原因で最上家は改易となり、禄を失って貧窮に喘いでいた先祖は、土井利勝に召し抱えられて古河藩士となり、明治維新で再び失業するという、あまりついていない歴史をたどりました。残念ながら元禄時代以前の正確な記録は残ってないため、どういういきさつで土井家に中途採用になったのか、よくわかりません。実家に残されていた最古の位牌は元禄8年(1695)ですから、謎の70余年ですが、最上家のお家騒動を口実に改易の指揮をとったのが土井利勝ですから、なんらかの接点はあったようです。最上家家老の鮭延氏も土井家に仕官し、5000石の高禄を与えられているので、裏工作を疑う向きもありますが、わが先祖は遥かに微禄で、有名な貧乏だったと祖父は言っていました。
 最上義光の名を全国的に広めようと精力的に活動していらっしゃる「最上義光プロジェクト」のHPには先祖と伝える草刈虎正について、「年不明~慶長五年(1600) 志摩守を称す。天童衆。草刈虎之助の子か。慶長出羽合戦の際に、上山城へ援軍として派遣された。山中に伏兵して上杉軍を待ち伏せし、隊列が延びたところを奇襲、大将・本村親盛を討取り、上杉軍を壊滅状態に追い込んだ(物見山の戦い)。勢いに乗じて、上杉側の拠点・中山城に攻め込んだが、上杉鉄砲隊の反撃を受け戦死した(広河原の戦い)」と記しています。
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 また2013年の「山形新聞」には「山形市の最上義光歴史館で館内案内のボランティアをしている同館サポーターの松本芳雄さん(69)=山形市元木2丁目=が、義光の家臣らを紹介する資料として、義光に仕え、長谷堂合戦で活躍した武将を描いた図『最上二十四将』を作った。同館に掲示し、来館者の注目を集めている。(中略)中央上部に義光、左上の筆頭には長谷堂城で上杉軍の猛攻を一手に引き受けた最上陣最高の知将とされる志村伊豆守光安、右上部には伊達政宗に援軍の要請に向かった修理大夫(だいぶ)義康を配置した。奇襲戦で上山合戦を勝利に導いた草刈志摩守らも描いた」という記事がありましたので、ぜひ、ご対面したいと探しましたが、見当たりません。サポーターの方に伺うと、必ずしも厳密な資料に基づいたものではないので、小学生に見せるのはどうかというので、いまは展示していないとおっしゃるので、ちょっとガッカリしました。
 多くの人の視線を集めているのは、最上義光と娘の駒姫の像です。東国一の美女と謳われた駒姫は豊臣英次のたっての願いで側室になるため京に上りますが、まだ対面もしないうちに英次は切腹、駒姫も他の妻子とともに15歳で打ち首になってしまいます。「駒姫辞世和歌懐紙」の複製も展示されていました。実物は愛用の着物で表装され、他の処刑者の遺品とともに京都国立博物館にあるそうです。
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 駒姫を失った最上義光が関ヶ原の合戦に際して徳川方に付いたのは、この事件が大きく影響していると思います。関ヶ原の合戦と並行して、この地では徳川方の最上氏と豊臣方の上杉氏が激しく争います。最も規模の大きい長谷堂合戦を描いた「長谷堂合戦図屏風」の複製も展示されていました。実物は個人蔵です。この屏風の成立に関する美術史家の検証がありますが、ここでは詳しいことは省いて、最上家改易後の元禄時代の作だということだけに留めます。
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 ご自慢の展示品をいくつかあげますと、まず長谷堂合戦で被弾した最上義光の兜があります。その後ろに写りこんでいるのは、上杉方の将、直江兼続から奪った雁の図柄の軍旗です。撮影禁止ですが、とくに許されて撮影した研究者から拝借しました。

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 気が付けば2時間近くたっていました。サポーターの最上愛に圧倒されつつ、楽しい時間を過ごして、山形美術館を横目に見ながら、山形県立博物館に向かいます。

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 山形県立博物館が誇る収蔵品の一つが「国宝 縄文の女神」。平成4年に西ノ前遺跡の発掘調査で見つかった縄文中期の高さ45cmの大形の立像土偶です。国宝に指定されたとき、東京国立博物館で拝見しましたが、貸し切状態で再会することができました。出土例の多い遮光器土偶とはかなり違う造形です。

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 企画展の「寶幡寺至宝展」では、奈良時代の「百万塔」や「最上義光天下呑分の杯」などを見せていただきました。中世から近世にかけて山形の大寺院であり、最上氏の庇護を受けた寺領1370石の真言宗寶幢寺は明治の神仏分離で廃寺となり、跡地は公園になっています。「最上義光天下呑分」の杯は、慶長18年(1613)年に最上義光が病をおして駿府にいる徳川家康を訪ねた時に拝領したものと伝えられる朱塗りの杯です。

 それでは、いざ。登城。

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 二ノ丸東大手門から橋を渡って城内に入りました。

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 本丸御殿広場の義光騎馬像の周囲では菊花展が開かれていました。11月3日まで一般公開されている二ノ丸東大手門櫓で山形城の古地図、発掘調査で出土した瓦等の遺物、二ノ丸東大手門復原工事資料、山形城復原模型等を見せていただき、発掘現場の井戸や土塁の遺構に往時をしのびながら南門から南追手門前広場を通って、ホテルまで戻ったのですが、なんたることか、メモリの接続が悪くて、撮ったはずの写真がありません。

 山形市内は見どころが点在していて、中心部以外はアクセスに苦労します。長谷堂城址など行きたいところはたくさんありましたが、徒歩では無理です。













山形日和。・・・①山寺(立石寺)

  結婚するまで本籍は茨城県古河市でしたが、祖父から先祖は最上家の家臣だったと聞かされてきました。都道府県の中で未踏の地の一つが山形県です。いまのうちに訪ねておきたいという気持ちが募って、10月25日から2泊で本貫の地を歩いてきました。せっかくですから、芭蕉の句で名高い山寺(立石寺)も訪ねましょう。

 ラッシュアワーを避けて、10時20分発の新幹線で仙台まで行き、仙山線に乗り換えて13時15分に山寺駅に着きました。この駅はバリアフリーではないので、大荷物は避けたほうがよさそうです。そのわりに改札の中のコインロッカーは近代的でSUICAでも料金が支払えます。外国の方が仕組みがわからず困っていらしたので、お節介をやきました。

 初めての山形県は、いたるところに「山形日和。」というキャッチコピーと「きてけろくん」というキャラクターが溢れています。

 「山形日和。」の五文字の青は豊かな自然 緑はおいしい農産物 オレンジは温かい人情 茶は歴史文化をはぐくむ風土、 赤はさくらんぼをイメージしているそうです。
 カートを引いているおじさんは、あまり可愛くないと思ったら、山形県の形が顔になっています。さくらんぼのブローチの付いた麦わら帽子をかぶり、「ペロリン」マークの付いた「おいしい山形」がぎっしり詰まった旅行バッグを持って、山形の旅を楽しんでいる姿だということでした。

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 山寺駅を背にして、立谷川に架かる宝珠橋を渡り、登山口に急ぎました。

寺伝では貞観2年((860)に円仁(慈覚大師)が開山したといわれます。創建が平安時代初期にさかのぼることと、円仁との関係が深い寺院であることは確かですが、創建の正確な時期や事情については諸説があって、草創の時期は貞観2年よりもさらにさかのぼるものと推定されています。

  鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所となって栄えました。兵火により焼失したり、13世紀中ごろには幕府の政策で禅宗に改宗となったりしますが、延元元年(1356)に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部すると、兼頼が再建して天台宗に戻ります。

 大永元年(1521)に天童氏の焼き討ちに遭いますが、天文12年(1543)に最上氏が再建し、その後も最上氏の庇護を受けました。最上氏の家臣であったご先祖様がお参りしたかは定かではありません。松尾芭蕉が元禄2年(1689)に、この地を訪れ「「閑さや・・・」の句を残したことは有名です。

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 登山口の石段を登ると、2,3分で根本中堂。斯波兼頼が創建し、17世紀初めに最上義光が大修理をして現在の姿に伝えています。 入母屋造りで銅板葺の内陣には鎌倉時代の一本彫秘仏本尊の薬師如来座像が安置されています。ブナの建造物としては日本最古を誇る 国指定の重要文化財です。


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 しばらく行くと山門に出ます。ここで300円の入山料を払って、いよいよ1070段に挑戦です。この日を期して、交通機関のエレベーター、エスカレーターは封印してきました。

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 一段、一段、登るたびに煩悩が消えるといわれますが、転ばないように、心不全を起こさないようにというのも煩悩でしょうか。何度も休みながらゆっくり足を運びました。

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 仁王門は、嘉永元年(1848)に再建された、けやき材の優美な門で、左右に安置された仁王尊像は運慶の弟子たちの作といわれています。段差が優しく、手すりが完備しているので、覚悟していたほど厳しくありません。下山してくる方に励まされて、無理なら途中までと思っていたのに、だんだん意地になってきました。


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 彼方に修行の岩場。落ちて命を落とした人もいたと書いてあります。ああ、こわっ。

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 最上義光御霊屋です.。建築された年代はわかりませんが、放射性炭素年代測定によると元和6年(1620)~慶安4年(1651)に建てられたと推定されています。建物は宝形造、金属板葺、桁行2間、梁間2間、素地造です。内部には同じく放射性炭素年代測定で慶長12年(1607)から元和9年(1623)に建てられた厨子が設置され、義光と家臣等10人の位牌が安置されています。義光が死去したのが慶長19年(1614)ですから、比較的早い段階で計画され、現在もその当時に近い状態を保っていると思われます。山形藩57万石の大名の御霊屋にしては、華美な装飾が一切ない質素な建物ですが、わが先祖が失業する羽目になった元和8年(1622)の改易以降に建立されたとすれば、なるほどという気がします。

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 人々の関心は、御霊屋の向かいの中性院のお賽銭箱の上にまつられたボケ封じの「お賓頭盧様」に集中していました。

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 やりました! 死ぬ思いの1070段。

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 この地方では人が死ぬと、その遺骨の一部、歯骨(はこつ)を取っておいて一周忌前に奥の院に 納骨して供養してもらう風習があるそうです。そういえばグラジオラスの大きな花束を抱えた方がいらっしゃいましたが、供養のお花でしょうか。 左側のお堂は、高さ5mあまりの金ぴかの阿弥陀如来座像を安置してある大仏殿です。

 奥の院から左側に30mほど行った華蔵院に三重小塔があります。ガラスのはまった格子の奥に安置されていて、あまりよく見えません。説明の「模型ではありません」に笑ってしまいました。三重小塔は永正10年(1513)に製作が開始され、永正16年(1519)に竣工された小塔です。山寺(立石寺)の支院の華蔵院の当時の住職静運が発願し、十穀静充が製作しますが、高さが8尺2寸(248センチ)と比較的小さいため、岩窟の中に全体が納まっています。

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 ここまできたら、開山堂や五大堂もパスはできません。下山の途中で右に曲がりました。開山堂は立石寺を開いた慈覚大師(円仁)を祀るお堂で、いまも大師の木造のお像に朝夕、ご飯とお香が供えられるそうです。左側の小さな赤いお堂は納経堂で、宗徒の写経が納められています。

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 最後の力を絞って五大堂に上りました。開山30年後に建立された五大明王を祀る道場は、 断崖に突き出すように建っていて、見下ろす景色は絶景かな!

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 ↑はプロの作品です。回り込まないと、こういう写真は撮れません。

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 1000段のぼったら、1000段くだらなければなりません。開山堂前の石段をおりていくと、仁王門が見えてきました。

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 仙山線は15時台は一便もありません。まだ時間はあるしと閑けさを楽しんでいたら、ポツリ。手すりも湿りを帯びた山の冷気にしっとりとしてきました。

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 なんとか雨に遭わずに登山口に戻ってきました。帰りは本坊を通るようにという指示がありました。苦しみが抜けるという重厚な抜苦門をくぐって見事なお庭を眺めながら歩いていたら、お寺の奥様に話しかけられました。夏は暑く、冬は厳しいと嘆いていらっしゃいます。

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 駅に着いたとたん本降りです。まだ16時前なのに、あたりは夕方の気配がします。

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 仙山線で山形まで約20分。たぶん余力はないだろうと思って、お宿は山形駅構内のホテルにしました。疲れるとお食事に出る気力もなくなりますので、ホテル内の最上亭に予約を入れています。一の膳と二の膳、デザートとワンドリンク。二の膳は先にお箸が出てしまいましたが、奥のお皿は米沢牛です。初めて芋煮というものをいただきました。里芋と牛肉、ねぎ、コンニャクがお醤油味になっています。こころ配りの行き届いた快適なホテル。往復で2000余段を踏破したわりには足腰もあまりお怒りでなく、いい時間を過ごせました。

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 こちらは朝食です。地産地消の郷土色豊かな籠盛りでした。

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クリスティ&レザール・フロリサン

 もう一週間前になってしまいましたが、今年でいちばんのいい時間に恵まれました。MIXIのカレンダー欄のA様の書き込みで気が付いて、とても感謝しています。全く予備知識がなく、知らない作曲家の知らない曲もプログラムに並んでいました。サントリーホールのステージに二段になったベンチが置かれ、指揮者と6人の歌手と管弦楽のレザール・フロリサンの楽しい音楽が始まりました。

 前半はストラデッラ、ヘンデル、ヴィヴァルディなどバロック系ですが、セミ・ステージ形式上演と書いてあったのに、最初はクリスティの意図がわからなかったようで、一曲目が終わったときは拍手がわきましたが、「ソプラノは?」「IO」、「メゾソプラノは?」「IO」という感じで、6人が名乗り出て、十数曲のアリアや重唱を巧みにつないだオペラ仕立てになっていると気がつきました。ときには指揮者も加わって、楽しい雰囲気です。ヘンデルのオラトリオ『時と悟りの勝利』の快楽のアリアは、のちに『リナルド』の有名なアリアに転用されますが、ルシア・マルティンの名唱に心を奪われました。

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 後半は、休憩時間中も羽ペンで楽譜を書いていた劇場支配人が二人の女性歌手に振り回されるチマローザのオペラから始まって、、モーツァルト、ハイドンなど古典系の作曲家の小曲を再編成した知的な興趣に満ちた構成です。6人の歌手はそれぞれの力量も素晴らしく、アンサンブルも絶妙でした。

 残念だったのは、聴衆の少なさ。空席あまたは勿体なさすぎます。2日続けて、大きすぎる会場と少なすぎるお客にため息が出ます。

★出演
ウィリアム・クリスティ(指揮)
レザール・フロリサン(オーケストラ)
ルシア・マルティン=カルトン(ソプラノ)
レア・デザンドレ(メゾソプラノ)
カルロ・ヴィストリ(カウンターテナー)
ニコラス・スコット(テノール)
レナート・ドルチーニ(バリトン)
ジョン・テイラー・ウォード(バス)

★プログラム
ストラデッラ:カンタータ「アマンティ・オーラ(愛のアカデミア)」 より
バンキエーリ:「音楽のザバイオーネ」~&5声のマドリガーレ第1集 より
ヴェッキ:「シエーナの夜会、または新音楽のさまざまな気分」 より
ヘンデル:歌劇「オルランド」 / オラトリオ「時と真理の勝利」 より
ヴェルト:マドリガーレ「もう涙も出ない」 より
ヴィヴァルディ:歌劇「オルランド・フリオーソ」 / 「離宮のオットー大帝」 / 「愛と憎しみに打ち勝つ徳、またはティグラネス王」 より
チマローザ:歌劇「みじめな劇場支配人」 より
サッロ:歌劇「カナリー劇場支配人」 より
モーツァルト:バスとオーケストラのためのアリエッタ「御手に口づけすれば」
ポルポラ:ソロ・カンタータ「もし私の心が一人だったら」
ハイドン:歌劇「歌姫」 / 「騎士オルランド」 より

★アンコール

ロッシーニ :オペラ『ラ・チェネレントラ』から 第2幕の6重唱「あなたですね」
ストラデッラ :カンタータ『ねえ、恋人さんたち(愛のアカデミア)』から マドリガーレ「愛の神は巧みな師匠だ」
ジャキェス・デ・ヴェルト :『5・6・7声のマドリガーレ集』第5巻から マドリガーレ「もはや涙ではない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                         

ロッシーニ :オペラ『ラ・チェネレントラ(シンデレラ)』から 第2幕の6重唱「あなたですね」
ストラデッラ :カンタータ『ねえ、恋人さんたち(愛のアカデミア)』から マドリガーレ「愛の神は巧みな師匠だ」
ジャキェス・デ・ヴェルト :『5・6・7声のマドリガーレ集』第5巻から マドリガーレ「もはや涙ではない」

ジャパン・オルフェオ

 10月12日に東京芸術劇場で 日伊修好150周年記念オペラ「ジャパン・オルフェオ」を鑑賞しました。この劇場はフローレスやデヴィ―アと会えた大切な場所ですが、最近はすっかりご無沙汰でした。でも大好きなバロックオペラで、これまた好きなジェンマ・ベルタニョッリが出演するとなると、行かないわけにはいきません。モンティヴェルディの「オルフェオ」を初めて観たのはコモのテアトロだったと思います。その後、2007年が作曲されて400年目目だというので、クレモナやモデナ、その翌年にはマドリッドとバーゼルで観ることができました。いずれも忘れがたい公演です。

 とくに本公演はイタリアと日本の優れた表現者が同じ舞台で演じるとあって、夜間の外出は避けてきた身でありながら、興味津々で出かけました。

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 プロローグで擬人化された「音楽」役で登場するベルタニョッリは、レッジョ・エミーリアやローマ、そして日本でも聴かせていただいた好きなソプラノです。烏帽子姿の雅楽の演奏者の荘重な響きのなかに現れる彼女がまとった衣装を見て、ミッソーニっぽいと思ったら、本当にミッソーニのデザインでした。色彩も音楽も調和していて、さすがと思わされます。

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 第一幕はオルフェオとエウリディーチェの婚礼の日です。主役を演じるヴィットーりオ・プラートの歌唱も見事でした。華やかな祝宴の場面には、南イタリアの民族舞踊も加わり、観客席も高揚感に包まれました。

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 第二幕のオルフェオの喜びの歌は、妻の死を告げる「使者」によってさえぎられ、舞台は一転して嘆きの場に変わりました。オルフェオが妻を取り戻す決意を語って、前半は終わりです。

 休憩が終わって、なんとなく緊張感がただようなか、美智子皇后がお出ましになりました。舞台奥からまぶしいフラッシュがたかれ、拍手がわきました。警備の都合なのか、いつも途中からなので、オペラ好きな某女性ジャーナリストの「生前退位をされたら、どうか最初からご覧になっていただきたい」というTwitterの書き込みに共感します。

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 第三幕は、ベルタニョッリ(二役)の演じる「希望」に導かれてオルフェオは黄泉の国に向かいます。三途の川では、黒い着物に白い被衣の日本舞踊の方々が舞っていました。

 第4幕の冥界の王プルトーネに妻のプロセルビナがオルフェオに妻を返してやってと懇願する場面では能楽師がパントマイムを演じます。宝生流宗家の演じるプロセルビナは圧倒的な存在感がありました。

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 妻を連れ戻す条件は、黄泉の国では妻の姿を見ないことでした。ところが簡単にこの掟を破ったため、妻との永遠の別れがくるという物語は、「古事記」のイザナキ・イザナミ神話とそっくりです。若いころに学んだ神話学では印欧語族の神話と記紀神話の共通性が論じられていましたが、最近はどうなのでしょうか。いずれにしても、この共通性が演出家のステファノ・ヴィツィオーリ氏の文化交流への強い願望を生み出し、画期的な公演が実現したことは疑いのない事実です。

 モンテヴェルディの「オルフェオ」は、失意のオルフェオがアポロンに連れられて、天上に昇るという結末です。バーゼルの公演では、バーゼル市街の上空を飛翔するオルフェオの映像を映して終わりました。

 「ジャパン・オルフェオ」は第5幕が加わります。妻以外の女を罵倒したオルフェオは、日本舞踊家の演じるバッカスの巫女たちの怒りを買って、八つ裂きにされるという結末が用意されていました。最後はピエトロ・ピレリの奏でるレーザー・ハーブという初めて接する光とサウンドの世界で終わりました。

 二人のイタリア人歌手の優れた歌唱とジャパン・オルフェオ」のために編成された管弦楽団と合唱団の力演もあって、音楽的にもハイレベルでしたし、日本とイタリアの舞や踊りも目を楽しませてくださいましたが、最大の問題は入れ物です。最初の2公演は鶴岡八幡宮の特設会場だそうで、そういうスケールこそ望ましいと思います。大きすぎるホールとガラガラの観客が残念でした。

 実行委員長や委員の顔ぶれも気になりますが、それは言わないことにいたします。

歌劇『Japan Orfeo』 作曲 / クラウディオ・モンテヴェルディ Claudio Monteverdi(1567-1643)
補筆作曲 /沼尻竜典 Ryusuke Numajiri
作詞 / アレッサンドロ・ストリッジョ Alessandro Striggio(1540-1592)

■ 日程/会場: 2016年10月7日(金)、8日(土) 開演午後6:00 
鶴岡八幡宮 特設野外舞台 (神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31)

   2016年10月12日(水)、13日(木) 開演午後7:00
東京芸術劇場コンサートホール (東京都豊島区西池袋1-8-1)

■出 演: 
・オルフェオ:    ヴィットーリオ・プラート Vittorio Prato  (バリトン)
・エウリディーチェ: 阿部 早希子 Sakiko Abe (ソプラノ)
・音楽、希望:    ジェンマ・ベルタニョッリGemma Bertagnolli (ソプラノ)
・使者、プロセルピナ: フランチェスカ・ロンバルディ・マッズーッリ Francesca
Lombardi Mazzulli (ソプラノ)
・カロンテ、プルトーネ: ウーゴ・グァグリアルド Ugo Guagliardo (バス)

・プルトーネ:   武田 孝史 Takashi Takeda (宝生流シテ方)
・プロセルピナ:  宝生 和英 (宝生流第20代宗家)
・日本舞踊 : 藤間 勘十郎 (宗家藤間流 八世宗家)
       花柳 美喜 Miki Hanayagi
       花柳 凛 Rin Hanayagi
       藤間 勘舞恵 Kanmae Fujima
       藤間 紫恵嘉 Shieka Fujima
・イタリア民族舞踊ダンサー:アンドレア・デ・シエナ Andrea de Siena
              チアラ・デル・アンナ Chiara Dell’Anna
              フランチェスカ・デ・アグナーノFrancesca d’Agnano

・レーザー・ハープ: ピエトロ・ピレリ Pietro Pirelli
          ジアンピエトロ・グロッシGianpietro Grossi

・ジャパン・オルフェオ管弦楽団 Japan Orfeo Ensemble 
 アーロン・カルペネ Aaron Carpene (チェンバロ)
 渡邊 順生 Yoshio Watanabe(チェンバロ、ポジティブ・オルガン、レガーレ)
 ルカ・ジャルディーニ*  Luca Giardini(バロック・ヴァイオリン) 
 エリン・ガブリエルソン Elin Gabrielsson バロック・ヴァイオリン
 渡邊 慶子 Keiko Watanabe(ヴィオラ)
 ロジータ・ヘレナ・イッポーリト Rosita Helena Ippolito(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
 懸田 貴嗣 Takashi Kaketa(バロック・チェロ)
 西澤 誠治 Seiji Nishizawa(ヴィオローネ)
 西山 まりえ Marie Nishiyama (ダブル・ハープ)
 金子浩 Hiroshi Kaneko (テオルボ、リコーダー)
 ジャンジャコモ・ピナルディ Giangiacomo Pinardi(テオルボ、パーカッション)
 濱田 芳通 Yoshimichi Hamada (コルネット、リコーダー)
 アンドレア・インギッシャーノ Andrea Inghisciano(コルネット)
 神代 修 Osamu Kumashiro(トランペット)
 宮下 宣子 Nobuko Miyashita(トロンボーン)
 大内 邦靖 Kuniharu Ouchi(トロンボーン)
 巻島 俊明 Toshiaki Makishima(トロンボーン)
 三浦 元則 Motonori Miura(篳篥)
 三浦 はな Hana Miura(笙)
 〆野 護元 Moriyuki Shimeno(竜笛)
                              
その他:宝生流囃子方 (大鼓、小鼓、笛)

・ジャパン・オルフェオ合唱団 Japan Orfeo Chorus 
 合唱指揮 福島 康晴 Chorus Master Yasuharu Fukushima
 佐藤 裕希恵 Yukie Sato (ソプラノ)
 藤井 あや Aya Fujii (ソプラノ)
 松岡 多恵 Tae Matsuoka (ソプラノ)
 森川 郁子 Yuko Morikawa (ソプラノ)
 新田 壮人 Masato Nitta (アルト)
 畠中 海央 Mio Hatanaka (アルト)
 渡辺 新和 Niina Watanabe (アルト)
 相山 潤平 Jumpei Aiyama (テノール)
 北嶋 信也 Shinya Kitajima (テノール)
 鈴木 秀和 Hidekazu Suzuki (テノール)
 福島 康晴 Yasuharu Fukushima (テノール)
 阿部 大輔 Daisuke Abe (バス)
 金子 慧一 Keiichi Kaneko(バス)
 西久保 孝弘 Takahiro Nishikubo(バス)
 目黒 知史 Tomofumi Meguro(バス)

甲斐の名刹・・・②清白寺

  甲府行きの普通列車で2駅目の東山梨に着きました。無人駅で、コンビニはおろかお店など一軒もありません。駅を出て、左折して10分ほど歩くと、案内板がありました。赤い字で記された清白寺が二つ目の目的地です。

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  整備された立派な道路があるのに、人も車も見かけません。家から持参のお茶を飲んで、空腹をまぎらわせました。しばし歩いて、左側に清白寺の表示があって、ほっ。甲州小梅の古木が並ぶ参道が200mほど続きます。真紅の彼岸花が久しぶりの青空を喜んでいました。

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 禅宗様式に則り、放生池、三門、仏殿、法堂が一直線に並びます。

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 清白寺は、足利尊氏が夢窓疎石を開山として、正慶2年(1333)に創立したと伝えられる臨済宗の寺院です。仏殿は、大正6年の解体修理で発見された墨書によって、応永22年(1415)に建立されたことがわかります。桁行、梁行共に三間(7、2m)と小規模な仏殿ですが、東日本における禅宗様の代表例として貴重な建物です。天和2年(1682)の火災のさいも仏殿だけは焼失をまぬがれました。
 森閑として訪れる人もなく、内部の拝観はできませんでしたが、文様彩色と丁寧な漆塗が施されているそうです。

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 仏殿の右奥に切妻造り・萱葺き屋根の庫裏があります。元禄2~6年(1689~93)に再建された建物ですが、足利氏の家紋である二つ引き両を入れた木組み(↑の写真でははっきり見えません)と白壁が目を引きます。

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 木組みの細部と二つ引き両紋

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 庫裏の前の素朴な魚板が可愛いらしい。

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 苔むした参道が美しい。Dsc01178

 ここもあたりはブドウ畑です。

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 手の届くところにブドウがなっていますが・・・。

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 行きに通り過ぎた連方屋敷に寄りました。以下は山梨市のHPの丸写しです。

 連方屋敷は、一辺が130mもある方形の広い屋敷跡で、四方に土塁と堀が巡っています。戦国時代には武田氏の財政面で活躍した「蔵前衆」が居住したとも、「蔵前の庁所(役所)」であったとも言われています。
 築造された時期は戦国時代より古いと考えられているものの、史料が少なく、いつ頃造られたのか、どんな人がどんな目的で造ったのかなど謎の多い屋敷跡でもあります。
 これまでの発掘調査の結果、礎石建物や掘立柱建物の跡、朝鮮半島や中国で作られた青磁、かわらけとよばれる使い捨ての土器の皿、常滑焼の大甕、内側に把手がついた内耳土器とよばれる土鍋などが発見されました。これらのうち、青磁の一つは13世紀前半から中頃に生産された高麗青磁梅瓶であり、梅瓶の優品は大名など身分の高い層の人々に珍重されることから、築造者は相当身分が高い人物であったと考えられます。かわらけは県内でも出土例が少なく年代の特定が難しい、14世紀中頃から15世紀はじめ頃のものである可能性があります。この時期は、のちに戦国大名として成長する甲斐武田氏が東郡に勢力を扶植し拡大させていく時期で、北東に近接する国宝の清白寺仏殿(1415年建立)、ほぼ真北の安田氏五輪塔(南北朝期)などとも時期が重なる可能性があり、武田氏との関係が注目されます。

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 説明文を読まないと、ただの空き地にしか見えません。

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 東山梨駅から高尾行の普通列車で77分。ガラガラだった車内は、途中から山男・山女がどっと乗ってきて、混んできました。高尾で特快に乗り換えて、甲斐の国宝総めぐりの旅は終わりに近づきました。繰り返しますが、もし行かれるときはランチボックス、必携です。

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