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陸奥の旅・・・③水沢(奥州市)

  最終日の5月20日になりました。当初は遠野を訪ねる予定で、例年、5月中旬から土日祝に運行される「遠野物語めぐり号」というバスを利用しようと思っていましたが、4月になっても情報があがってきません。バス会社と観光協会に電話して、昨年まで運行していたバスの会社は潰れた、なんとか夏休みまでに再開したい、という状況であることがわかりました。遠野は、遠野南部氏の城下町でもあって、祖母が遠野の話をしていた記憶があるので、行ってみたかったのですが、路線バスでは動きがとれません。

 しかたがないので、別の場所を探しました。迷った挙句、留守氏の城下町であり、曹洞宗の名刹正法寺行のバスが出ている奥州市の水沢を選びました。バスも東北本線も便数が少ないので、苦心惨憺です。

 正法寺行のバスが出る10時20分まで少し時間がありましたので、徒歩10分の水沢公園まで行ってみました。ここに高野長英記念館がありますが、見学する時間はありません。近世から近代の水沢の著名人は、高野長英、後藤新平、斎藤實の3人で、実は高野長英と後藤新平は親戚です。

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 水沢の市街地を離れると、のんびりとした田園風景が広がります。途中で蘇民祭で名高い黒石寺の前を通りました。25分で終点の正法寺前に着きましたが、またしても降りたのは私だけ。

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 拝観料を払っていると、車で来られたご夫婦の同行者と間違われて、危うく3人分払わされそうになりました。大木を見上げているご夫婦は北上から来られたそうで、ずっと一緒に回りましたが、とても親切な方でした。

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 1665年創建の総門の奥の石段が難所です。ご主人は昔、ここで研修をされたそうで、自然石を乱雑に積んだ石段は、どんな偉い人でも四つん這いにならないと登れないようにできているのだと教えてくださいました。四つん這いにならなくても登れましたが、かなり恐怖。上がってみたら、右側にスロープになった楽な道がありましたので、帰りはもちろんそちらを通りました。

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 この境内図のように、以前は総門を入って、庫裏の入口に拝観受付があったので、ご夫婦が間違われたのも納得です。正法寺は「奥の正法寺」の名で親しまれ、南北朝時代の1348年に開刹されました。総門・庫裏・本堂(法堂)は国指定の重要文化財です。かつては永平寺、鶴見の総持寺とならび、奥羽2州の本山でした。江戸時代になって本山の地位は失いますが、仙台藩から特別の待遇を受けていました。
 
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 本堂は日本一の大きさの茅葺屋根。間口29.6m、奥行21m、高さ26mで、現在の建物は1811年に伊達家が再建したものです。 

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 庫裏から入って、北上のご夫婦の案内で、堂内をめぐりました。茶菓の用意もあって、ご配慮に感謝です。

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 内部は撮影禁止。外はいいので、本道の側面を撮りました。

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 急な階段を上ると開山堂です。

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 雪国だからでしょうか、庫裏・本堂・開山堂は屋根の付いた階段や廊下でつながっています。

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 山門跡。いまは礎石しか残っていません。

 山深い禅宗寺院の清々しさに包まれたひと時でした。車で水沢まで送ってあげるとおっしゃるご夫婦の申し出を謝辞して、水沢まで戻りました。この先はタクシーです。武家住宅資料館まで520円。若い運転手さんは道がわからず、無線で聞いていました。

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 武家住宅資料館は、武家屋敷(内田家)と武家住宅資料センターが隣接しています。

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 まず武家屋敷から見学します。慶応2年(1866)に記された「水沢家中家並覚牒」によると、この屋敷は大番役・内田勘之丞のもので、禄高は96石2升となっています。角館の武家屋敷に比べると質素ですが、格式のある武家屋敷の一つです。

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 隣の武家住宅資料センターでは、歴史展示コーナーを懇切丁寧な解説付きで見学させていただきました。

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 水沢の領主・留守氏の苗字は、鎌倉幕府の陸奥国統治機関の一つであった留守職からきています。奥州藤原氏の滅亡後、御家人の伊沢家景がこの地位に任じられ、家景の子の時代から留守氏を称するようになりました。南北朝時代に勢力の衰えた留守氏は、伊達氏の救援を乞い、やがてその傘下に入ったため、水沢伊達氏とも呼ばれました。

 次は向かいに建つ後藤新平旧宅です。後藤新平は安政4年(1857)に留守家御小姓頭の家に生まれ、明治維新ののちは、医師・台湾総督府民政長官・満鉄総裁・逓信大臣・鉄道院総裁・内務大臣・外務大臣・東京市長などを歴任しました。とくに都市計画では「大風呂敷」と呼ばれるほど大胆な計画を提唱しています。

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 屋根は寄棟・茅葺きで、江戸中期の下級武士の住宅の様子を伝えています。

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 ここから西に延びる道は吉小路と呼ばれます。

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 少し歩くと高野長英生誕地の案内板に出会いました。

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 高野長英については、幼いころ、父の蔵書の「蛮社の獄」を主題にした小説を読んだときから興味がありましたが、ここで詳細を述べるのは控えます。水沢では三偉人の一人に数えられています。

 斎藤實記念館の前からバスが出ているので、バス停に向かう途中に高千代というお菓子屋さんがありました。ほかにはお店がないので、ここで一休みしていたら、正法寺で買った「九曜紋」というクッキーが置いてありました。お寺とこのお店が協力して、考案されたそうです。

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 吉小路の突き当りに斎藤實記念館が建っています。2.26事件の犠牲になった方ですが、めったに来ないバスの時間が迫っていたので、中に入ることはできませんでした。
 
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 コミュニティバスで水沢駅の近くまで行きました。

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 あちこちにこういう案内表示がありますが、控え目すぎて残念です。遠野のピンチヒッターの水沢は、観光客は一人もいませんでしたが、私なりに楽しめました。

 東北本線で一ノ関に向かうと、平泉で大勢の方が乗ってこられました。一ノ関で新幹線に乗ったら、私の席にほろ酔い加減の男性が・・・。間違っていないとおっしゃるので、チケットを確認していただいたら、次の列車の指定券を持っておられました。隣の席は空いていたので、仲良く仙台まで行って、お別れです。

 3日間、歩き回って、今年で2度目の独り旅は無事に終わりました。

陸奥の旅・・・③盛岡

 5月19日(金)になりました。2日目は今度の旅の主目的の盛岡訪問です。祖母がどこに住んでいたのかまるでわかりませんが、盛岡城は行ったはずです。各種の交通機関の時刻表とにらめっこし、行けそうなところと興味のある場所を組み合わせてスケジュールを作りました。

 角館ー盛岡 8:55-9:46 新幹線こまち 

 盛岡ー啄木記念館前 10:15-10:43 JR東北バス

 啄木記念館前ー盛岡駅前東口 11:51-12:28 県北バス

 盛岡駅前東口ー盛岡城跡 12:50-13:05 市営バス・でんでんむし号

 盛岡城跡ー原敬記念館前 14:36-14:56 盛南ループ200右回り

 原敬記念館前ー志波城古代公園 15:33-15:41 岩手県交通バス

 志波城古代公園ー盛岡駅前東口 17:00-17:25 岩手県交通バス

 多少の遅延を勘案して予定を立てましたが、結果的に無事にスケジュールをこなすことができました。

 盛岡に着くと、駅に隣接しているメトロポリタン盛岡に荷物を預けて、身軽になりました。久慈行のバスは10分ほどで市街地を外れ、左手に雪を頂いた岩手山を見ながら、新緑の林や牧場を駆け抜けて、ハイテンションのドライブ気分です。畜産関係の施設や大学がならぶ美しいコースでした。

 啄木記念館前で下車したあと、うっかりして反対側に行ってしまいました。元凶は↓の表示です。

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  渋民公園から啄木記念館までの道路を「啄木ふる里の道」と名づけ、国道から渋民小学校までの路上に啄木の歌10首を刻んだ石を埋め込んでいます。

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 渋民小学校の前で、引き返しました。

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 バス停に戻ると、反対側にそれらしい建物が見えます。

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 啄木記念館前の広い駐車場から岩手山を眺めました。啄木の理想の家を再現した記念館の右側に啄木が代用教員を務めた渋民尋常小学校と代用教員時代に一家が寄寓した斎藤家が移築されています。

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 まず茅葺の斎藤家。

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 続いて渋民尋常小学校。

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 昔はこういう始業の鐘が必ずあったようです。私の中学時代は小使さんが手持ちの鐘を振りながら廊下を歩いていました。

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 たぶん職員室。正面に奉置所があります。「明治時代には教育勅語とともに天皇陛下の公式肖像写真である御真影とともに厳重な保管が義務付けられた」という説明がありますが、昭和になると、立派な奉安殿が造られ、戦争に負けるまで校長先生が儀式の際は恭しく持ち出していました。 

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 いまは小使とは呼びません。用務員から主事さんに変わったようです。

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 啄木が愛用したオルガン。

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 2回の3年生と4年生の教室。

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 私が通った小学校にもこういう廊下があって、雑巾がけをさせられました。

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 記念館では「啄木と『一握の砂』」と名付けた企画展が開催されていました。『一握の砂』の成立過程や発刊当時や現代における評価、掲載された短歌の評釈・特徴・背景などについて、関連資料を見ながら啄木の作品について知ることができます。幼いころの寝室に父の本棚があって、そこに並んだ『啄木写真帖』というタイトルを見て、ブタキと読んでいました。愛読者というほどでもないし、63人から多額の借金をしていたという話を聴くと、ちょっと引いてしまいます。それでもけっこう諳んじていて、なかでも忘れがたいのは、この一首です。

正月の四日になりて
あの人の
年に一度の葉書も来にけり。

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 啄木の父が住職をしていた宝徳寺に向かう途中の田んぼに岩手山が見事に映り込んでいました。

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 なかなか立派なお寺です。啄木の父が宗費を滞納して、寺を追われますが、命日には法要が営まれています。

 バスで盛岡に戻り、100円で盛岡市内を循環する「でんでんむし号」でお城に向かいました。盛岡城跡で降りて、いざ登城。

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 本丸跡に来ました。祖母の先祖が仕えていた場所です。

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 城跡の一角に「もりおか歴史文化館」が建っていて、盛岡藩の歴史や南部家の至宝を展示しています。

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  「盛岡南部家の生き方」展は、盛岡南部家の歴代当主の実態を掘り下げ「殿様」の実像に迫ることで改めて盛岡の歴史を辿るという企画の第2弾で、今回は5代南部行信から10代利正まで6代の藩主に焦点をあて、江戸時代の真っただなか、南部家・盛岡藩では何が起こっていたのかを、さまざまな資料を基に紐解いています。残念ながら祖母の先祖はどこにも登場しませんでした。

 館内のお休み処「不来方」で軽食をいただいて、先ほど降りた盛岡城跡のバス停に急ぎます。

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 今度は盛南ループ200という中距離の循環バスに乗りました。200円均一ですが、どう見てもいつも乗っている小田急バスのかなり年季の入った車体です。

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 盛岡市街から北上川を越えてしばらく走ると、原敬の生家と記念館があります。原敬は平民宰相の名で有名ですが、祖父は家老まで務めた上級武士で、分家して自らの意思で平民となった人物です。南部藩士の血が少しは流れているので、どういう人か興味がありました。1921年に東京駅で右翼の青年に暗殺されたのはなぜなのか、謎を解く手がかりが得られればと思いましたが、簡単ではありません。

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 産湯の井戸だそうです。

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  祖父が1850年に建てた原敬の生家はいまは五分の一の規模になっています。庭園の菖蒲はまだ咲く気がありません。

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 原敬生家に隣接して建てられている原敬記念館には、原敬の業績をたたえる政界の貴重な資料や原敬日記、遭難時の衣服、遺品、遺墨等が展示されています。お客さんを案内してきた観光タクシーの運転手さんが、原敬がいかに偉かったかを熱く語っておられましたが、政党政治に対する一部の不満が暗殺を呼び、15年後には日中戦争につながっていったのを振り返ると、悪夢の再来がないことを願わずにはいられません。原敬の暗殺の4年後に治安維持法が成立し、その後、20年で敗戦です。

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 近世と近代を行ったり来たりしましたが、最後はいきなり古代です。記念館前から志波城古代公園までバスに乗って、10分足らずで着きました。 

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 外郭南門から入ると、並木のかなたに官衙建物が遥か彼方に建っています。道路工事の際に発見された志波城の遺構は、一辺929mの外大溝、一辺840mの築地塀で囲まれた広大なものでした。

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 並木の両側の田んぼは見学した日の翌々日に田植えが行われ、実った古代米は資料館で販売されるそうです。

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 築地塀の各辺の中央には門が造られ、約60m間隔で櫓が建っていました。

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 正門となる外郭南門は桁行15m、高さ11mの楼門で、復元された古代の門としては、平城宮跡朱雀門に次ぐ大規模なものです。

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 城内には掘立柱建物と竪穴建物がありました。掘立柱建物は官衙として使われ、1200から2000棟にのぼる竪穴建物は兵舎として用いられたと言われています。

 この広大な城は、いつ、誰が、なんのために築いたのでしょうか。古代公園の隣に建てられたガイダンス施設「志波城古代公園案内所」で知識を得ることができました。内部は撮影禁止ですから、↓は盛岡市のHPからお借りしました。

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 案内所で歴史ドキュメント「志波城物語~坂上田村麻呂とアヌシキの願い」を見ましたが、なかなかよくできています。

 天皇を中心とする政府が律令をもとに国を統治していた古代にあって、東北北部は、まだその国の範囲外で、人々は「蝦夷」と呼ばれていました。政府は各地に城柵を造り、国の範囲を北上させていきますが、774年以降、宮城県北部から岩手県南部の蝦夷は政府と対立し、争いが続きます。桓武天皇によって、征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は802年に胆沢城を造営し、胆沢の阿弖流為(アテルイ)を降伏させて、争いを収めました。その翌年の803年に築かれたのが陸奥国で最北かつ最大級の志波城です。

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 爽やかな風の吹く志波城の中を歩きながら、国家はいつも領土拡大を願い、そのために犠牲になった人々も多いという思いが去りませんでした。

 17時発の最終バスで盛岡に戻り、JR系のホテルにチェックイン。体力の限界まで行動してしまいますので、駅に直結のホテルを選んでいます。

陸奥の旅・・・①角館 

  母方の祖母は盛岡の南部家家臣の家に生まれ、若くして遊学し。女子美の2回生だったと聞いていますが、母が早世したため、縁が薄く、詳しいことは何もわかりません。それでもルーツの一つですから、まだ足が動くうちに行っておきたい場所が盛岡でした。ついでにと言っては申し訳ないのですが、新幹線で県境を越えて桜で有名な角館まで行って、翌日、盛岡を訪ねる予定を立てました。ラッシュアワーを避けた行程ですから、角館に着いたのは13時24分です。何事も何周も遅れていて、やっとタブレットに慣れましたので、新幹線の中でナンシーで上演された「セミラーミデ」のライブを視聴しました。ロッシーニのオペラの中でいちばん好きなオペラは、とてもインパクトが強く、新緑の角館を歩いていても、身体の中で鳴り響いていました。

  5月も18日となり、桜が散ったあとの角館は閑散としています。有名な観光地だけあって、いろいろな建物がそれらしい雰囲気を作りこんでいます。

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 観光案内所は名前のとおり蔵造り。

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 徒歩で観光する者は想定外かもしれません。路線バスも市民バスもひどく本数が少ないのですが、調べたとおり待ち時間10分で市民バスが来ました。乗客は2人です。角館には二つの武家屋敷通りがあって、このバスは田町武家屋敷通りの西宮家前に停まります。

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 角館の町は元和6年(1620)に葦名義勝によって造られました。古城山城を北端に南に向かって3本の道路を設定して、町づくりが進められています。当時、内町の武家屋敷群とは別に、町の南側地区「田町」に80戸の武士が住む事になりますが、彼らは、秋田藩主佐竹氏直臣でした。葦名義勝は秋田の領主佐竹義宣の実弟です。田町に住んだ武士の中でも筆頭格が西宮家で、明治後期から大正時代にかけては地主として繁栄し、その時代に建てられた5棟の蔵と母屋が商業施設として使われています。

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 西宮家の筋向いは、角館出身で新潮社の創業者佐藤義亮氏にちなむ記念館ですが、素通りしました。

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 次に、この界隈で気になっていた常光院を訪ねました。角館の葦名氏は3代で断絶し、佐竹氏の支族である佐竹北家が11代にわたって領主となります。常光院は佐竹北家の菩提寺ですが、それらしい雰囲気はありません。代わって、目を惹いたのは戊辰戦争戦没者墓地です。

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 戊辰戦争のおり、佐竹北家は新政府軍に付いたため、幕府に忠誠を誓う奥州列藩同盟に攻め立てられました。はるばる九州から援軍としてやってきた大村藩士や平戸藩士などの戦没者が病院となっていた常光院に葬られたそうです。中には15歳の少年もいて、傷ましいと思いました。

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 案内板に従って桧木内川のほとりに来ました。半月前なら見事な桜が見られたかもしれません。誰もいない堤は、それはそれで趣があります。 

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 横町橋のたもとで右折すると、内町の武家屋敷はすぐそばです。

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 内町の武家屋敷町は道路の幅から曲がり角まで、390年前の姿をとどめています。まず小野田家と河原田家が隣り合っていて、無料公開。屋内に入ることはできませんが、戸を開け放って、よく見えるようにという心遣いが嬉しいです。16世紀末に開花した秋田蘭画の中心人物の一人である小野田直武は、この小野田家の人でした。

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時間がないので、資料館も素通り。

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 資料館より見ごたえがあるという青柳家に着きました。武家屋敷は300坪が平均値ですが、周囲の土地を買い取って、3000坪の敷地に母屋を始め、多くの建物を配して、「角館歴史村」と称しています。入場料は500円でした。

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 母屋は200年前の建物がそのまま残っています。

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 二階建ての武器蔵には青柳家のルーツを伝える武具や江戸時代からの文献が収められています。

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 裏山から庭園内の池に数百年間絶えず流れ込む沢水は神明水と呼ばれています。

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解体新書記念館には青柳家の親戚にあたる小野田直武の業績を顕彰する展示があります。直武は1774年に日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書である『解体新書』の附図を描いた人です。

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 小野田直武像はまだ入口で、まだまだ展示館が続き、さながらテーマパークです。

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 こちらは佐竹北家の家臣で、財用役や勘定役といった財政面を担当していた石黒家の屋敷です。美しいお嬢さんが丁寧に説明してくださって、好感が持てました。400円です。

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 欄間の亀の透かし彫りがご自慢でした。

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 代々の当主の五月人形が飾られていました。

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 簡素ながら格式を感じさせるお庭でした。

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 静まりかえった新録の通りに清冽な沢水が流れています。4時半閉館の平福記念館に急ぎました。

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 武家屋敷跡に大江宏氏設計の「平福記念美術館」が建っています。角館出身で近代日本画の巨匠と言われる平福穂庵・百穂父子の作品の常設展とおもに郷土の作家の特別展を見せていただけますが、この時期の特別展は小松みどり氏の写真展でした。

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 平福穂庵の作・松前アイヌ帰漁の図 (1883年頃)

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 こちらは百穂の1912年の作品を今年のカレンダーにしたものです。100年以上前、百穂は雑誌「婦人之友」の表紙を手掛けていました。私が生まれる前に亡くなった方ですから、継母が購読していた「婦人之友」の表紙は別の方の作品ですが、鮮やかな罌粟の花を美しいと思いました。

 ここから角館駅まで徒歩25分。最後の力を振り絞って、もう一カ所に向かいます。

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 武家屋敷のハナズオウが夕日に映えていました。我が家のハナズオウはずいぶん前に終わってしまいまいしたから、やはり北国です。

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 やっと着いたのが町はずれの葦名家菩提寺である天寧寺。角館の領主としては3代で終わった葦名氏の最後の跡継ぎ千鶴寿丸は参詣したおり、縁側から落ち、沓脱石に頭をぶつけて3歳で亡くなったそうです。

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 境内はあっけらかんとした雰囲気です。ここからうんざりするほど歩いて、角館駅前の「フォークロロ角館」にたどり着きました。この日の歩数は18000歩を超えて、もうへとへと。角館のお宿はあまり選択肢がありません。駅から30秒という一点でここを選びました。

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姉と友と

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 路傍でオレンジ色の草花を見かけたのは、かなり前です。可憐な姿に惹かれ、我が家の庭にもきてほしいと思ったこともありました。ところが、この花は移植に弱いようで、いつも枯れてしまいます。今年、とうとう風に乗って、やってきました。喜んでいたら、ニュースで、この花は外来植物で繁殖力が旺盛なので、実をつける前に取り除いたほうがいいと知って、ちょっとガッカリです。

 名前もわかりました。ナガミヒナゲシです。

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  1961年に世田谷区で見つかって、2010年には青森県と沖縄県以外の都道府県で確認されているそうですから、いまは全国に分布しているかもしれません。

 スペインを鉄道で旅していると、線路沿いにアマポーラが群生していて、旅情をかきたてられたものでした。

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 ナガミヒナゲシのほうが少し色が淡いのですが、そっくりですよね。当地に越してきたころは、庭にムサシノスミレが自生していました。しばらくして、中央線の線路沿いによく見かけたムラサキダイコンがやってきて、いま路地で花盛りです。どなたかが中央線の線路わきにナノハナとムラサキダイコンの種をまかれたのが始まりと聞いたことがありますが、こちらは在来種だから、御咎めなしなのでしょうか。

 10年ほど前に関西の姉の家からいただいてきたナルコユリもいま涼し気な佇まいで、あでやかなツツジとともに食卓を飾っています。もう少したつと、いっしょにやってきたハンゲショウも姿を現すかなと心待ちにしています。ハンゲショウは絶滅危惧種になりかかっているそうですから、大事にしなければ。姉は一人住まいになってから、広い家をもてあまして、姪の家から3分の場所に移って、植物たちともお別れしたと言っていました。

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