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近江と南山城・・・⑤京田辺市の三寺院

  3日目は、南山城の古寺をめぐることにしました。4月に堅田の祥瑞寺を訪ねたときから、一休寺を再訪したかったし、aliceというハンドルネームで素晴らしいブログを書いておられる方が紹介されている同じ京田辺市内の古寺に安置された十一面観音を拝観したいと思っていましたが、やっと願いがかないました。

 近鉄の新田辺駅に着いたのは、9時12分。9時31分発のバスは13分で一休寺に着くはずでしたが、降車ボタンを押したのに、停まってくれません。慌てて声をかけたときは、バス停からかなり離れていました。運転手さんが「すんません。気ぃつけます」と謝るので、怒るわけにもいきません。子どもたちが幼かったころ、近くに住んでいたので、軽自動車で来たことがありますが、一休宗純のお墓が宮内庁の管理になっていたこと以外は忘れ果てていました。

 このお寺のもとの名は妙勝寺でした。鎌倉時代に臨済宗の高僧大応国師が開きますが、その後、兵火で焼け失せ、復興できないままだったのを一休禅師が康正年間(1455~6)に再興し、「酬恩庵」と名付けます。晩年をここで過ごされたので、「一休寺」という通称で知られています。

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 総門をくぐると石畳の参道が続きます。 両脇には楓が植えられ、苔も艶やかです。 静かな境内を独りで歩く幸せな時間でした。

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 参道の奥に拝観受付があります。

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 一休禅師は文明13年(1481)にこのお寺で88歳で亡くなります。墓所は宮内庁が御陵墓として管理をされていて、門扉には菊の花の紋があります。一休禅師は後小松天皇と側室の伊予局との間に生まれたので、皇子だということなのでしょう。

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 隣接する茅葺の虎丘庵と虎丘庭園は3日前までに3名以上で予約が必要です。方丈から茅葺屋根が見えました。

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 由門の奥に庫裏・唐門・東司(トイレ)が並んでいます。

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 庫裏は僧侶の居住の場であり、食事を整える場でもあります。慶安3年(1650)に加賀城主前田利常が方丈・唐門・東司とともに再建しました。

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 重要文化財のトイレの左側に現代のトイレがあります。

  庫裏は方丈につながっています。どこも独占状態でした。

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 襖絵は狩野探幽の作品です。

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 一休禅師像の髭はご本人のものだそうです。★の付いた写真はお寺のHP所載です。

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 方丈庭園・南庭。南庭は宗純の墓所と虎丘庵を背景として、これらの建物の北部斜面を利用してサツキの刈込があり西部に大きい蘇鉄が植えられている典型的な江戸時代の禅苑庭園です。刈込から軒下までは白砂が敷き詰められ、簡素で落ち着いた雰囲気を醸しています。

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 方丈庭園・東庭。大小の石を立てたり横にしたりする様子は十六羅漢になぞらえたとされています。

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 方丈庭園・北庭。禅院枯山水としての蓬莱庭園です。東北隅に約2メートルの巨石を配し、いわゆる観音石として用いています。

 方丈の三方に配された庭園は、石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の合作で、江戸初期の庭園としては第一流であり、当時の庭園の白眉とされています。

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 本堂は永享年間(1429~40)に、足利幕府6代将軍義教の帰依で建立されました。大和・山城の唐様仏殿では最古です。残念ながら非公開でした。

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  開山堂は大正時代に改築をされたものですが、様式は完全に昔のものを残しています。 堂内に安置されている妙勝寺を創建した大応国師(南浦紹明)の木像は、一休禅師が荒廃した妙勝寺を再建した63歳の時につくられたものです。

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  宝物殿は本格的な土蔵建築で、一休禅師の頂相や墨跡が展示されています。木の扉を開けて、ゆっくりと見せていただきました。

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 いちばん奥の二十世紀の森には可愛らしい石仏が並んでいました。一休寺の裏山の開発による景観破壊の恐れがあったとき、保存に協力した地元の方が彫った自画像のような羅漢です。

 11時5分のバスで新田辺駅に戻り、三山木駅からバスで観音寺に行こうと思っていたのですが、バスが遅れて、電車の10分の乗り継ぎ時間に間に合いませんでした。これまでこういう憂き目に遭わなかったのが不思議なくらいですが、バスがダメならタクシーしかありません。運転手さんと相談して、大御堂観音寺で待っていただいて、最後の目的地の寿宝寺に向かうことにしました。寿宝寺は予約が必要なので、一休寺の方丈から電話でお願いしてあります。

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 庫裏のインターフォンを恐る恐る押すと、普段着姿の男性が現れ、「お堂の前でお待ちください」。ほどなく僧衣をまとった先ほどの男性が扉を開けて、案内してくださいました。先達のaliceさんが書いていらっしゃるとおり、ご説明は、立て板に水です。

 いただいた「略縁起」を要約しておきます。天武天皇の勅願により義淵僧正が創建。その後、聖武天皇の御願により良弁僧正が伽藍を増築。息長山普賢教法寺と称して、その盛んな姿を見た人は「筒城の大寺」と呼んだ。

 本尊は十一面観音立像で、古記録によると、天平16年(744)に安置された。 法相・三論・華厳の三宗を兼ね、七堂伽藍は壮麗を極めたが、何度も火災に遭い、永享9年(1437)の火事では、諸堂13、僧坊20余りを数えた建物のほとんどが失われ、大御堂だけが再建され現在に至っている。

 若住職のお話ですと、いまは大御堂観音寺と名乗っていますが、かつての寺名の普賢教法寺はこの地域の地名にゆかりを残しているそうです。バスで来るつもりで調べた最寄りのバス停の名もお寺の住所も普賢寺です。

 お厨子を開けてくださって、十一面さまとご対面。立ち位置も丁寧に指示してくださって、違う角度で拝観すると、いっそう味わい深いものがありました。7体しかない国宝指定の十一面観音像であることに誇りを持たれているようで、7体の一覧表を示して、天平仏と平安仏の違いなども詳しく説明してくださいました。

  国宝十一面観音菩薩の一覧(7件)

  1. 渡岸寺十一面観音菩薩立像(滋賀県) 9世紀中頃
  2. 六波羅蜜寺十一面観音菩薩立像(京都府) 951年
  3. 観音寺十一面観音菩薩立像(京都府) 8世紀後半
  4. 法華寺十一面観音菩薩立像(奈良県) 9世紀前半
  5. 聖林寺十一面観音菩薩立像(奈良県) 8世紀後半
  6. 室生寺十一面観音菩薩立像(奈良県) 9世紀末
  7. 道明寺十一面観音菩薩立像(大阪府) 9世紀前半

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 奈良時代中期の天平仏を代表する仏像です。木式木心乾漆造で、下地の上に漆を塗り金箔で表面を加工しています。 度重なる修理によって形を変えていた部分もありましたが、昭和期の高度な補修技術により現状の姿に整えられました。光背が鮮やかすぎると思いましたら、やはり後補されたものでした。天平物は木心乾漆造が多く、平安仏は一木造が多いと言われました。

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 一休寺に比べるのは気の毒ですが、心をこめたお庭があります。運転手さんがキッパリ言われたとおり、25分で拝観は終わり、近鉄三山木駅の反対側に位置する寿宝寺に向かいました。帰りは駅までは5分もかかりません。

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 寿宝寺は、慶雲元年(704)、天武天皇の時代に創建されたと伝えら、古くは「山本の大寺」と称された七堂伽藍の備わった大きな寺でしたが、度重なる木津川の氾濫によって転々とし、享保17年(1732)に現在の小高い地に移転しました。

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 本尊の十一面千手千眼観音は、境内の観音堂に安置されています。インターホンで来意を告げると、若い奥様が鍵を開けて、説明をしてくださいました。この立像は、平安時代後期に作られた一木造りです。実際に千本の手を持つ観音は、大阪河内の「藤井寺」と奈良の「唐招提寺」の観音とともに三大傑作とされています。本尊と向かって左手の降三世明王、右手の金剛夜叉明王は、ここから1㌔南西にある式内社の佐牙神社の神宮寺に祀られていたもので、神宮寺が明治初めに廃寺になった際、寿宝寺に移されたと伝えています。唇に施された朱の色は、いまも褪せておりません。千手のすべての掌に眼が描かれ、千手千眼観音を表しています。

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 奥様は、この観音さまは以前は藁葺屋根の本堂にお祀りされていて、その屋根から差し込む月明かりで拝むのが最も優しい姿だ、その雰囲気を感じてほしいと言われて、扉を閉め、天井の蛍光灯をつけてくださいました。すると、口元をきっと結んだ厳しいお顔が、優しいお顔に変わりました。そして、掌に墨で描かれた眼がよりくっきりと浮かんできます。いまでも寿宝寺の主な行事は、陽の落ちた夜に行われるそうです。その美しいお姿を拝むことができて、 満ち足りた気持ちで旅を終えることができました。予約が必要ですし、雨の日はお堂を開けることができないので、かなり難易度の高いお像です。

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 境内の一隅に「和同4年設定 山本驛旧跡」と記した石柱が立っていました。古代官道の要所だったようです。

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 駅前のコメダ珈琲で一休み。隣席の関西のご婦人と楽しくおしゃべりをして、実り多き旅も終わりです。

 いつも公共交通で動いていますが、今回の旅は、1日目は、ほかにアクセスの方法がなくタクシー、2日目は、お財布紛失騒ぎで3度のタクシー利用、3日目は、予定した電車とバスに乗れずタクシーと、滋賀県と京都府のタクシー業界振興に貢献してきました。 

 

近江と南山城・・・④葛川明王院

  堅田から江若バスで46分、叡山の山麓を走って、「途中越え」で有名な途中を過ぎ、花折峠の坂道を登ると、安曇川ぞいの葛川(かつらがわ)地区に明王院があります。いつもどおり市街地を過ぎると、乗客は私だけです。このあたりは1000m級の山々が連なる比良山系の登山口になっていて、登山カードを入れるボックスを見かけました。

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 明王院に行く途中に高級料亭の比良山荘があります。

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 清らかな沢水が音を立てて流れていました。

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 地主神社は帰りにお参りすることにして、明王谷川に架かる朱塗りの三宝橋を渡ると、石垣の参道の向こうに葛川明王院が見えます。

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 拝観をお願いしようと道を隔てて左側の政所表門から社務所を訪ねたのですが、「作業中なので、ご用の方は電話してください」という携帯電話の番号付きの張り紙が掲げてあって、ひっそりとしています。ここは拝観料をお払いするような観光寺院ではありませんでした。政所表門は江戸時代初期の建立です。休憩所には茶菓の用意がしてあって、壁には回峰行者さんの写真が貼られています。明王院は、貞観5年(859)に比叡山無動寺の相応和尚によって創立され、葛川での参籠修行(葛川参籠)は、かつては旧暦6月の蓮華会(水無月会)と旧暦10月の法華会(霜月会)が7日間にわたって行われていましたが、現在は蓮華会のみが夏安吾と称して7月16日から20日までの5日間にわたって行われています。夏安居は山林徒渉とともに回峰行の重要な修行に位置づけられ、百日回峰は葛川での夏安居に参加しなければ満行とは認められないそうです。

 中世から近世にかけて、葛川参籠を行った者は参籠札という卒塔婆形の木札を奉納することが習わしで、元久元年(1204)銘のものを最古として、約500枚の参籠札が残されています。その中には足利義満や足利義尚、日野富子のものも含まれ、葛川参籠が広い階層によって行われたことがわかります。

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 振り返った景色です。

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  階段の上は本堂、右側は護摩堂。

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  宝暦5年(1755)建立の護摩堂。天保5年(1834)建立の奥の庵室は、行者が寝泊まりする建物で、内側は畳敷きです。

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 石段を登りました。 

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 杉木立の中に本堂が建っています。

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 自由にお堂に上がれます。

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 本堂は正徳5年(1715)の建立ですが、保存修理工事の結果、平安末期に建立されたお堂の部材の一部が転用されていることがわかりました。境内の発掘調査によって、平安末期には現状に近い寺観が整えられていたと推定されています。『梁塵秘抄』に葛川への参詣道について歌った今様が収められていますし、九条兼実の日記『玉葉』の治承5年(1181)6月18日条に、「今日より法源が葛川に参籠した」という記述が年代のわかるいちばん古い資料として知られています。

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 お堂の中に4月に行った京博の海北友松展のポスターが貼ってありました。

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 この格子の奥に、本尊の千手観音像と脇侍の毘沙門天像・不動明王像が安置されていますが、本尊は秘仏です。このお像は、相応の時代まではさかのぼらず、平安時代末期(12世紀)の作とされています。

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 虚飾のない清々しいお堂でした。最後まで誰にも会わない静かな境内です。

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 三宝橋を渡って、地主神社に向かいました。

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 どこにいても明王谷川の滔々とした瀬音が聞こえてきます。

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 地主神社は明王院の横を流れる明王谷川に架けられた三宝橋のそばにあります。祭神は国常立命ですが、この地の地主神である思古淵明神(しこぶちみょうじん)も祀られています。思古淵は安曇川流域に多く祀られる神で、この地域の開拓の祖神であり、水の神として、崇められています。
 ひっそりとした境内には、拝殿・弊殿・本殿の三棟が一直線に並んでいます。拝殿は新しい建物ですが、弊殿・本殿は室町時代の建築です。

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 左から本殿、幣殿、拝殿が並んでいます。

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 本殿は春日造と呼ばれる左右が反り上がるもので、大津には珍しい建物です。前面の蟇股といわれる部分には、牡丹・唐草・笹竜胆・蓮など12種類ものデザインの彫刻がなされ、しかも左右対象という非常に凝ったものに仕上げられています。

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 拝殿から幣殿・本殿を写してみました。

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 境内社の思古淵明神・大行神社・ 山神社が可愛らしく並んでいます。

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 坊村のバス停付近の民家は昔は茅葺だったのでしょうね。こういう民家は4月に訪ねた常照皇寺のある村落でも見かけました。京都から若狭に向かう街道でつながっているから当然といえば当然です。バスを待っていたら、登山帰りの中学生が十数人。次の停留所でも今度は中高年の登山客がドッと乗ってきて、行きに心配していたバス会社の経営問題はひとまず解消しました。あとから乗ってきた中高年が「女の人だけ座らせて」と中学生に言って、結局、全員が座っていました。山道を立ちっぱなしは辛いので、ここを訪ねるときは、早めにバス停に行くことをお勧めします。

 堅田からJRで京都に向かい、駅前のホテルにチェックイン。4月に利用したとき、ホテル内のレストランがあまり・・・でしたので、伊勢丹地下の老舗弁当コーナーで、噂の和久傳の二段弁当を購入しました。      

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近江と南山城・・・③居初氏庭園

 実はこの時期に近江を訪ねようと思ったのは、4月に湖西の堅田を訪ねたときの宿題が二つあったからです。一つは滅多に入れない居初氏庭園、もう一つは土日以外はバスの便がうまくつながらない葛川明王院。この二カ所を目指して、守山まで行って、堅田行のバスに乗りました。居初氏庭園は5月28日を逃すと、次は秋まで入れないので、電話で見学会の予約を入れてあります。守山発の江若バスは琵琶湖大橋を渡って湖東から湖西に行きます。堅田駅前から市内循環バスが居初氏庭園の近くまで行っていますが、降りたあとがわかりにくいという情報があったので、タクシーに乗りました。これが大失敗。料金をと思ったら、お財布が見当たりません。もたもたしていると運転手さんに悪いし、バッグの奥にあるだろうと軽く考えて、予備のお金で支払って、今度は見学会の会費500円を出そうと思って、くまなく探せど、行方不明!

 落としたとしたら、江若バスか、路上か、タクシーです。親切な観光協会の方が電話で照会してくださっているので、和菓子とお抹茶をいただきながら、お庭を拝見。現金はわずかですが、カード類の始末が面倒ですから、落ち着きません。

 堅田は古くから湖上交通の要衝で、中世には堅田衆と呼ばれる自治組織が支配し、水上交通・漁業権・徴税などの特権を持っていました。居初家は、平安時代は下鴨神社に食料などを貢納する供御人の系譜をひく旧家です。12~13世紀には「三党」と呼ばれる居初、小月、刀禰の3家が存在し、中世末期まで勢力を保っていましたが、豊臣秀吉が湖上の自由交通を認めたため、堅田衆の勢力は衰えます。江戸時代になって、幕府への請願の結果、居初家は舟運を取り仕切る権利が再び認められました。

 居初家は文化人との交流があり、現存の居初氏庭園と「天然図画亭」と称する書院は、茶人藤村庸軒によって作られたものです。書院の北から東に広がる庭園の東側hは、琵琶湖の湖面と対岸の三上山などの山並みを借景としています。

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 庭園には延段(自然石や切石を直線状に敷き並べた通路)が配されています。

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 書院は入母屋造りの茅葺で、幅5尺の広縁を巡らせています。

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 もう少しゆっくりしたかったのですが、タクシーの運転手さんがお財布を届けてくださったので、お礼もかねて乗せていただきました。午後のバスまでまだ時間があります。「お勧めのところはありますか」と観光協会の方に伺ったら、「私が経営しているビューロッジ琵琶のある真野浜は絶景ですよ」と言われて、素直に従いました。時間がなくて、↓の2枚の居初家の外観の写真はwikipedia所載のものです。

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 住宅外観。中央が主屋。出格子の左側に入口があります。

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 庭園への入口の塀門。ここから入ることはできません。

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 真野浜は、ひたすら湖。夏は賑わうのでしょうが、ひっそりしています。

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 ビューロッジは本日休業でした。しばらく湖を眺めてから、タクシーに電話して、駅の近くのお食事処で降ろしていただきました。

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 運転手さんお勧めの「こはち」は、地元の方々でにぎわっていました。接客は抜群、お味は普通ですが、この町は、あまり選択肢はありません。

近江と南山城・・・②近江八幡


 混雑を避けて家を出たので、宿のある近江八幡駅に着いたのは15時少し前でした。涼風を求めて水郷めぐりがしたかったのですが、駅前からバスで乗り場までいかねばならず、ほとんどが15時までですから、もう間に合いません。司馬遼太郎氏の『街道をゆく 近江散歩』に{「よしのはえた水面をわけてゆくという遊びは、むかしからあったそうである。・・・むかしはこういう舟あそびを『舟ゆき』といったそうである。・・・豊臣英次も『舟ゆき』をして遊んだという」と書かれたよしを見ながらの「舟ゆき」は、またの機会に、と諦めて、観光案内所の女性の助言でバスで大杉町まで行ってみました。大杉町のバス停から新町のバス停付近におもな見どころが固まっています。

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 白雲橋から八幡堀を見下ろすと、「八幡堀めぐり」の舟はまだやっています。もちろん乗りました。

 八幡堀は天正13年(1585)に豊臣秀次が八幡山に城を築き開町したことに始まります。秀次は、八幡堀と琵琶湖とを繋ぎ、湖上を往来する船を城下内に寄港させることで、人、物、情報を集め、さらに楽市楽座制を実施することで城下を大いに活気づけました。

 八幡堀(全長4,750m)は交通路や生活の場として長らくその役目を果たしてきましたが、生活形態が変わりだした昭和30年代になると、市民にとって忘れ去られた存在となり、やがて無用の長物から公害源となりだしました。昭和40年になると、八幡堀に堆積したヘドロは1.8m。蚊やハエの発生源や市民による不法投棄の場所と成り果て、地元自治会は衛生的観点から署名を添えて埋め立てを陳情したそうです。

 このような状況のなか、昭和47年に近江八幡青年会議所が「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」を合い言葉に全市民へ浚渫と復元を呼びかけました。当初は保存運動は孤立状態を招きますが、辛抱強い活動の結果、市民の目も変わってきます。昭和50年9月、ついに滋賀県は進みかけけていた改修工事を中止し、国にその予算を返上することになりました。私の町でも玉川上水に蓋をして駐車場にするという計画があって、住民運動で中止されたのを思い出します。

 八幡堀を守る会、地元自治会、観光物産協会、観光ボランティアガイド協会などが清掃活動を続け、八幡堀は近江八幡のまちづくりのシンボルとして、観光客の訪ねたい場所として、風情ある風景を取り戻しました。 ここ数年、日本各地を旅していますが、京都・奈良を除くと、これほどにぎわっている町は例がありません。

 近江八幡の「舟ゆき」は、乗船時間80分のコースなど4コースあるそうですが、辛うじて間に合った航路がいちばん短い「八幡堀めぐり」の舟に乗って、船頭さんの説明を聴きながら、35分間、のんびりと楽しみました。

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 長野県から来たという楽しい3人組と若い二人連れと私の6人で、近江商人の家を眺めながら、行楽気分を味わいました。

 次はお堀に沿った遊歩道から新緑で覆われた水面を見下ろしながら、舟の航路とは反対方向へぶらぶら歩き。「毛虫に注意!」という張り紙があるほど、桜の並木が続きます。満開のときは、さぞや見事なこでしょう。

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 新町のバス停付近の新町通りや魚屋町通りには、近江商人の屋敷がたくさん残っています。

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  市立歴史資料館(旧西川家住宅・歴史民俗資料館・旧伴家住宅)に行ってみましたが、入場は16時までで、ここも時間切れでした。他日を期して、外観だけを拝見。

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 旧西川家住宅。西川利右衛門は大文字屋の屋号で、江戸・京都・大坂に店舗を構え、蚊帳や畳表を商って、財をなしました。西川家は初代から11代まで約300年にわたり活躍しますが、昭和5年に子孫が途絶え、土地と建物は市に寄贈されました。現在の建物(主屋)は3代目によって宝永3年(1706)に建てられたもので、昭和58年(1983)1月7日に国の重要文化財に指定され、昭和60年(1965)10月から改修工事が行われました。

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 歴史民俗資料館。

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 旧伴家住宅。7代目伴庄右衛門能尹が伴庄右衛門家本家として、文政10年(1827)から天保11年(1840)の十数年をかけて建築したものですが、明治時代になって当時の八幡町に譲渡したのち、小学校・役場・女学校と変遷しました 。.

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 旧伴家住宅のある通りに「朝鮮人街道」と刻んだ石碑があります。

 秀吉の朝鮮侵略は、大きな傷跡を残しますが、江戸幕府は、対馬の宗氏を介して関係改善を図ります。国書偽造という涙ぐましい努力の末、国交は回復し、将軍の代替わりに際し、12回にわたって朝鮮から通信使が来日しています。朝鮮通信使は、学者・医者・画家などを含む総勢500人の大使節団で、貴重な文化交流の場でもありました。
 ソウルからプサンを経て対馬へ渡り、船で瀬戸内海・淀川を経て京都へ到着すると、その後は陸路で中山道・東海道を通過して江戸に着くという長い道のりの中に「朝鮮人街道」と呼ばれる道があります。現在の野洲市小篠原から安土・近江八幡を経て彦根市鳥居本までの約40kmがその道です。

 昨年訪れた高月に生まれた雨森芳洲は、対馬藩に仕え、朝鮮国との外交に当たります。彼は「国によって風儀も嗜好も異なるので、日本側の物差しだけで接しては必ず不都合が生じる。 相手国の歴史・言葉・習慣・人情や作法などをよく理解し尊重して真心の外交をおこなうべきである」と主張し、通信使の信頼も厚かったと伝えられています。

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 このあたりでひときわ重厚な趣をかもしているのが、非公開の西川甚五郎邸です。西川家は八幡山城築城の時に工務監督を務めたといわれる旧家で、甚五郎はふとんの「西川」の基を築いた生粋の八幡商人です。

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 西川甚五郎邸の隣の小公園にヴォーリズ像が立っています。八幡堀、豊臣英次、近江商人に続く近江八幡のキーワードは、メンソレータムで有名な近江兄弟社を創設し、建築家であり宣教師であったヴォーリズでしょう。名誉市民になったときに、お祝いの花を少女が渡している情景です。数えきれないほどある建築作品の中で、私にとって忘れがたいのは、いま改築中の大阪・心斎橋大丸。関西を離れて40年あまり、いまも記憶の中にはワクワクする店内の雰囲気が残っています。(写真の最後の2枚は借り物です)

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 ヴォーリズ像のある小さな公園の前の新町バス停から駅前に戻り、ホテルのベッドに倒れこみました。

近江と南山城・・・①教林坊

 昨年、白洲正子氏の『かくれ里』をひも解くまでは、教林坊という寺院の存在は全く知りませんでした。昭和44年に来訪された白洲氏は、「石の寺」の章で、「石寺という部落は・・・かつては観音正寺の末寺が三十以上もあり、繁栄を極めたというが、現在は教林坊という、ささやかな寺が一つ残っているだけである」という書き出しで、庭園を紹介されていました。

 前回の湖西の旅の宿題もあり、梅雨や猛暑が襲ってくる前に行っておこうと思い立ったのですが、土日祝だけ、しかも雨天の日はダメというかなりハードルの高いお寺です。アクセスはJR安土駅からタクシーか徒歩50分。土曜日の朝、品川から新幹線、米原で在来線に乗り換えて、安土に着きましたが、タクシー乗り場はあれど、タクシーがいません。待つこと10分、やっと乗れました。聞けば、この駅にはタクシーは2台、今日は1台は観音正寺に行っていて、しばらく帰ってこないそうです。観音正寺も行きたかったのですが、「麓から頂上まで、けわしい自然石の石段で、石段というより岩場といった方がふさわしい」という「石の寺」の記述に恐れをなして断念し、帰りの足も心配なので、タクシーに待っていただきました。

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 駐車場前の徳島県から移築された総門をくぐると、狭い山道が私の足で5分ほど続きます。

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 表門の奥の書院に品のいいご婦人がいらっしゃって、丁寧に迎えてくださいました。

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 表門の左側に作られた水琴窟。さらに室町末の補陀落の庭が続きます。

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 少しだけ裏山に登って、本道を見下ろしてみました。清々しい新緑に包まれた静寂なお堂です。

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 本堂から北側に山を借景にして小堀遠州作と伝わる 桃山時代の遠州庭園が造られています。

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 本尊の観音様は、境内の「霊窟」に祀られています。白洲氏は古墳で、「霊窟」は羨道だと言われますが、古墳の石を利用したとしても、古墳そのものではないような気がしました。寺伝では教林坊は605年に聖徳太子によって創建され、ご本尊も太子自作の石仏だとされています。難産の村娘を助けたとき、傍らの小川が安産の血で赤く染まったことから「赤川漢音」と呼ばれるようになったそうです。

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 まさに「石の寺」です。

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 「発心即到」と書かれた近代書道界の巨匠、豊海春海師の横額が掛かっています。

 帰り際にお寺の方にいただいた「荒れ寺復興録」をあとで読んで、ご住職の努力を知り、心を打たれました。平成21年に「仏教タイムス」に10回にわたって連載された記録です。教林坊は、戦後の農地解放により収入が断たれ、檀家もなく、後継者にも恵まれなかったため、昭和50年ごろから無人になってしまいました。庫裏は屋根が腐り、天井はめくれ、床が抜け落ちているところもあるという惨状に立ち向かったのが平成7年に住職に就任された24歳の青年僧の廣澤光信氏です。

 その後、大変な苦労をされて、平成16年に一般公開されることになりました。白洲氏が訪ねられたのは無人になる以前の昭和44年ですから、いまとはかなり違った佇まいだったと思いますが、ご住職は、まだまだ復興途上で借金まみれだとおっしゃりながら、仏縁に感謝して、命ある限り、精一杯生き抜いていくという決意を示されています。

白洲氏の著書は、啓発されることも多いのですが、ところどころ気になる点もあります。一つは『記紀』や『続日本紀』などの記述を史料批判なしに受け入れられているところでしょうか。とくに帰化人という言葉を使われているのは、違和感があります。1910年生まれの白洲氏より13年のちに生まれた司馬遼太郎氏の場合は、渡来人という言葉を使われ、轢死についても、より広い視点で絞殺されているのは、単に年代の問題ではないような気がします。









































































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