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近江と南山城・・・⑤京田辺市の三寺院

  3日目は、南山城の古寺をめぐることにしました。4月に堅田の祥瑞寺を訪ねたときから、一休寺を再訪したかったし、aliceというハンドルネームで素晴らしいブログを書いておられる方が紹介されている同じ京田辺市内の古寺に安置された十一面観音を拝観したいと思っていましたが、やっと願いがかないました。

 近鉄の新田辺駅に着いたのは、9時12分。9時31分発のバスは13分で一休寺に着くはずでしたが、降車ボタンを押したのに、停まってくれません。慌てて声をかけたときは、バス停からかなり離れていました。運転手さんが「すんません。気ぃつけます」と謝るので、怒るわけにもいきません。子どもたちが幼かったころ、近くに住んでいたので、軽自動車で来たことがありますが、一休宗純のお墓が宮内庁の管理になっていたこと以外は忘れ果てていました。

 このお寺のもとの名は妙勝寺でした。鎌倉時代に臨済宗の高僧大応国師が開きますが、その後、兵火で焼け失せ、復興できないままだったのを一休禅師が康正年間(1455~6)に再興し、「酬恩庵」と名付けます。晩年をここで過ごされたので、「一休寺」という通称で知られています。

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 総門をくぐると石畳の参道が続きます。 両脇には楓が植えられ、苔も艶やかです。 静かな境内を独りで歩く幸せな時間でした。

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 参道の奥に拝観受付があります。

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 一休禅師は文明13年(1481)にこのお寺で88歳で亡くなります。墓所は宮内庁が御陵墓として管理をされていて、門扉には菊の花の紋があります。一休禅師は後小松天皇と側室の伊予局との間に生まれたので、皇子だということなのでしょう。

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 隣接する茅葺の虎丘庵と虎丘庭園は3日前までに3名以上で予約が必要です。方丈から茅葺屋根が見えました。

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 由門の奥に庫裏・唐門・東司(トイレ)が並んでいます。

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 庫裏は僧侶の居住の場であり、食事を整える場でもあります。慶安3年(1650)に加賀城主前田利常が方丈・唐門・東司とともに再建しました。

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 重要文化財のトイレの左側に現代のトイレがあります。

  庫裏は方丈につながっています。どこも独占状態でした。

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 襖絵は狩野探幽の作品です。

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 一休禅師像の髭はご本人のものだそうです。★の付いた写真はお寺のHP所載です。

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 方丈庭園・南庭。南庭は宗純の墓所と虎丘庵を背景として、これらの建物の北部斜面を利用してサツキの刈込があり西部に大きい蘇鉄が植えられている典型的な江戸時代の禅苑庭園です。刈込から軒下までは白砂が敷き詰められ、簡素で落ち着いた雰囲気を醸しています。

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 方丈庭園・東庭。大小の石を立てたり横にしたりする様子は十六羅漢になぞらえたとされています。

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 方丈庭園・北庭。禅院枯山水としての蓬莱庭園です。東北隅に約2メートルの巨石を配し、いわゆる観音石として用いています。

 方丈の三方に配された庭園は、石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の合作で、江戸初期の庭園としては第一流であり、当時の庭園の白眉とされています。

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 本堂は永享年間(1429~40)に、足利幕府6代将軍義教の帰依で建立されました。大和・山城の唐様仏殿では最古です。残念ながら非公開でした。

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  開山堂は大正時代に改築をされたものですが、様式は完全に昔のものを残しています。 堂内に安置されている妙勝寺を創建した大応国師(南浦紹明)の木像は、一休禅師が荒廃した妙勝寺を再建した63歳の時につくられたものです。

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  宝物殿は本格的な土蔵建築で、一休禅師の頂相や墨跡が展示されています。木の扉を開けて、ゆっくりと見せていただきました。

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 いちばん奥の二十世紀の森には可愛らしい石仏が並んでいました。一休寺の裏山の開発による景観破壊の恐れがあったとき、保存に協力した地元の方が彫った自画像のような羅漢です。

 11時5分のバスで新田辺駅に戻り、三山木駅からバスで観音寺に行こうと思っていたのですが、バスが遅れて、電車の10分の乗り継ぎ時間に間に合いませんでした。これまでこういう憂き目に遭わなかったのが不思議なくらいですが、バスがダメならタクシーしかありません。運転手さんと相談して、大御堂観音寺で待っていただいて、最後の目的地の寿宝寺に向かうことにしました。寿宝寺は予約が必要なので、一休寺の方丈から電話でお願いしてあります。

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 庫裏のインターフォンを恐る恐る押すと、普段着姿の男性が現れ、「お堂の前でお待ちください」。ほどなく僧衣をまとった先ほどの男性が扉を開けて、案内してくださいました。先達のaliceさんが書いていらっしゃるとおり、ご説明は、立て板に水です。

 いただいた「略縁起」を要約しておきます。天武天皇の勅願により義淵僧正が創建。その後、聖武天皇の御願により良弁僧正が伽藍を増築。息長山普賢教法寺と称して、その盛んな姿を見た人は「筒城の大寺」と呼んだ。

 本尊は十一面観音立像で、古記録によると、天平16年(744)に安置された。 法相・三論・華厳の三宗を兼ね、七堂伽藍は壮麗を極めたが、何度も火災に遭い、永享9年(1437)の火事では、諸堂13、僧坊20余りを数えた建物のほとんどが失われ、大御堂だけが再建され現在に至っている。

 若住職のお話ですと、いまは大御堂観音寺と名乗っていますが、かつての寺名の普賢教法寺はこの地域の地名にゆかりを残しているそうです。バスで来るつもりで調べた最寄りのバス停の名もお寺の住所も普賢寺です。

 お厨子を開けてくださって、十一面さまとご対面。立ち位置も丁寧に指示してくださって、違う角度で拝観すると、いっそう味わい深いものがありました。7体しかない国宝指定の十一面観音像であることに誇りを持たれているようで、7体の一覧表を示して、天平仏と平安仏の違いなども詳しく説明してくださいました。

  国宝十一面観音菩薩の一覧(7件)

  1. 渡岸寺十一面観音菩薩立像(滋賀県) 9世紀中頃
  2. 六波羅蜜寺十一面観音菩薩立像(京都府) 951年
  3. 観音寺十一面観音菩薩立像(京都府) 8世紀後半
  4. 法華寺十一面観音菩薩立像(奈良県) 9世紀前半
  5. 聖林寺十一面観音菩薩立像(奈良県) 8世紀後半
  6. 室生寺十一面観音菩薩立像(奈良県) 9世紀末
  7. 道明寺十一面観音菩薩立像(大阪府) 9世紀前半

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 奈良時代中期の天平仏を代表する仏像です。木式木心乾漆造で、下地の上に漆を塗り金箔で表面を加工しています。 度重なる修理によって形を変えていた部分もありましたが、昭和期の高度な補修技術により現状の姿に整えられました。光背が鮮やかすぎると思いましたら、やはり後補されたものでした。天平物は木心乾漆造が多く、平安仏は一木造が多いと言われました。

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 一休寺に比べるのは気の毒ですが、心をこめたお庭があります。運転手さんがキッパリ言われたとおり、25分で拝観は終わり、近鉄三山木駅の反対側に位置する寿宝寺に向かいました。帰りは駅までは5分もかかりません。

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 寿宝寺は、慶雲元年(704)、天武天皇の時代に創建されたと伝えら、古くは「山本の大寺」と称された七堂伽藍の備わった大きな寺でしたが、度重なる木津川の氾濫によって転々とし、享保17年(1732)に現在の小高い地に移転しました。

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 本尊の十一面千手千眼観音は、境内の観音堂に安置されています。インターホンで来意を告げると、若い奥様が鍵を開けて、説明をしてくださいました。この立像は、平安時代後期に作られた一木造りです。実際に千本の手を持つ観音は、大阪河内の「藤井寺」と奈良の「唐招提寺」の観音とともに三大傑作とされています。本尊と向かって左手の降三世明王、右手の金剛夜叉明王は、ここから1㌔南西にある式内社の佐牙神社の神宮寺に祀られていたもので、神宮寺が明治初めに廃寺になった際、寿宝寺に移されたと伝えています。唇に施された朱の色は、いまも褪せておりません。千手のすべての掌に眼が描かれ、千手千眼観音を表しています。

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 奥様は、この観音さまは以前は藁葺屋根の本堂にお祀りされていて、その屋根から差し込む月明かりで拝むのが最も優しい姿だ、その雰囲気を感じてほしいと言われて、扉を閉め、天井の蛍光灯をつけてくださいました。すると、口元をきっと結んだ厳しいお顔が、優しいお顔に変わりました。そして、掌に墨で描かれた眼がよりくっきりと浮かんできます。いまでも寿宝寺の主な行事は、陽の落ちた夜に行われるそうです。その美しいお姿を拝むことができて、 満ち足りた気持ちで旅を終えることができました。予約が必要ですし、雨の日はお堂を開けることができないので、かなり難易度の高いお像です。

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 境内の一隅に「和同4年設定 山本驛旧跡」と記した石柱が立っていました。古代官道の要所だったようです。

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 駅前のコメダ珈琲で一休み。隣席の関西のご婦人と楽しくおしゃべりをして、実り多き旅も終わりです。

 いつも公共交通で動いていますが、今回の旅は、1日目は、ほかにアクセスの方法がなくタクシー、2日目は、お財布紛失騒ぎで3度のタクシー利用、3日目は、予定した電車とバスに乗れずタクシーと、滋賀県と京都府のタクシー業界振興に貢献してきました。 

 

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