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近江と南山城・・・②近江八幡


 混雑を避けて家を出たので、宿のある近江八幡駅に着いたのは15時少し前でした。涼風を求めて水郷めぐりがしたかったのですが、駅前からバスで乗り場までいかねばならず、ほとんどが15時までですから、もう間に合いません。司馬遼太郎氏の『街道をゆく 近江散歩』に{「よしのはえた水面をわけてゆくという遊びは、むかしからあったそうである。・・・むかしはこういう舟あそびを『舟ゆき』といったそうである。・・・豊臣英次も『舟ゆき』をして遊んだという」と書かれたよしを見ながらの「舟ゆき」は、またの機会に、と諦めて、観光案内所の女性の助言でバスで大杉町まで行ってみました。大杉町のバス停から新町のバス停付近におもな見どころが固まっています。

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 白雲橋から八幡堀を見下ろすと、「八幡堀めぐり」の舟はまだやっています。もちろん乗りました。

 八幡堀は天正13年(1585)に豊臣秀次が八幡山に城を築き開町したことに始まります。秀次は、八幡堀と琵琶湖とを繋ぎ、湖上を往来する船を城下内に寄港させることで、人、物、情報を集め、さらに楽市楽座制を実施することで城下を大いに活気づけました。

 八幡堀(全長4,750m)は交通路や生活の場として長らくその役目を果たしてきましたが、生活形態が変わりだした昭和30年代になると、市民にとって忘れ去られた存在となり、やがて無用の長物から公害源となりだしました。昭和40年になると、八幡堀に堆積したヘドロは1.8m。蚊やハエの発生源や市民による不法投棄の場所と成り果て、地元自治会は衛生的観点から署名を添えて埋め立てを陳情したそうです。

 このような状況のなか、昭和47年に近江八幡青年会議所が「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」を合い言葉に全市民へ浚渫と復元を呼びかけました。当初は保存運動は孤立状態を招きますが、辛抱強い活動の結果、市民の目も変わってきます。昭和50年9月、ついに滋賀県は進みかけけていた改修工事を中止し、国にその予算を返上することになりました。私の町でも玉川上水に蓋をして駐車場にするという計画があって、住民運動で中止されたのを思い出します。

 八幡堀を守る会、地元自治会、観光物産協会、観光ボランティアガイド協会などが清掃活動を続け、八幡堀は近江八幡のまちづくりのシンボルとして、観光客の訪ねたい場所として、風情ある風景を取り戻しました。 ここ数年、日本各地を旅していますが、京都・奈良を除くと、これほどにぎわっている町は例がありません。

 近江八幡の「舟ゆき」は、乗船時間80分のコースなど4コースあるそうですが、辛うじて間に合った航路がいちばん短い「八幡堀めぐり」の舟に乗って、船頭さんの説明を聴きながら、35分間、のんびりと楽しみました。

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 長野県から来たという楽しい3人組と若い二人連れと私の6人で、近江商人の家を眺めながら、行楽気分を味わいました。

 次はお堀に沿った遊歩道から新緑で覆われた水面を見下ろしながら、舟の航路とは反対方向へぶらぶら歩き。「毛虫に注意!」という張り紙があるほど、桜の並木が続きます。満開のときは、さぞや見事なこでしょう。

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 新町のバス停付近の新町通りや魚屋町通りには、近江商人の屋敷がたくさん残っています。

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  市立歴史資料館(旧西川家住宅・歴史民俗資料館・旧伴家住宅)に行ってみましたが、入場は16時までで、ここも時間切れでした。他日を期して、外観だけを拝見。

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 旧西川家住宅。西川利右衛門は大文字屋の屋号で、江戸・京都・大坂に店舗を構え、蚊帳や畳表を商って、財をなしました。西川家は初代から11代まで約300年にわたり活躍しますが、昭和5年に子孫が途絶え、土地と建物は市に寄贈されました。現在の建物(主屋)は3代目によって宝永3年(1706)に建てられたもので、昭和58年(1983)1月7日に国の重要文化財に指定され、昭和60年(1965)10月から改修工事が行われました。

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 歴史民俗資料館。

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 旧伴家住宅。7代目伴庄右衛門能尹が伴庄右衛門家本家として、文政10年(1827)から天保11年(1840)の十数年をかけて建築したものですが、明治時代になって当時の八幡町に譲渡したのち、小学校・役場・女学校と変遷しました 。.

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 旧伴家住宅のある通りに「朝鮮人街道」と刻んだ石碑があります。

 秀吉の朝鮮侵略は、大きな傷跡を残しますが、江戸幕府は、対馬の宗氏を介して関係改善を図ります。国書偽造という涙ぐましい努力の末、国交は回復し、将軍の代替わりに際し、12回にわたって朝鮮から通信使が来日しています。朝鮮通信使は、学者・医者・画家などを含む総勢500人の大使節団で、貴重な文化交流の場でもありました。
 ソウルからプサンを経て対馬へ渡り、船で瀬戸内海・淀川を経て京都へ到着すると、その後は陸路で中山道・東海道を通過して江戸に着くという長い道のりの中に「朝鮮人街道」と呼ばれる道があります。現在の野洲市小篠原から安土・近江八幡を経て彦根市鳥居本までの約40kmがその道です。

 昨年訪れた高月に生まれた雨森芳洲は、対馬藩に仕え、朝鮮国との外交に当たります。彼は「国によって風儀も嗜好も異なるので、日本側の物差しだけで接しては必ず不都合が生じる。 相手国の歴史・言葉・習慣・人情や作法などをよく理解し尊重して真心の外交をおこなうべきである」と主張し、通信使の信頼も厚かったと伝えられています。

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 このあたりでひときわ重厚な趣をかもしているのが、非公開の西川甚五郎邸です。西川家は八幡山城築城の時に工務監督を務めたといわれる旧家で、甚五郎はふとんの「西川」の基を築いた生粋の八幡商人です。

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 西川甚五郎邸の隣の小公園にヴォーリズ像が立っています。八幡堀、豊臣英次、近江商人に続く近江八幡のキーワードは、メンソレータムで有名な近江兄弟社を創設し、建築家であり宣教師であったヴォーリズでしょう。名誉市民になったときに、お祝いの花を少女が渡している情景です。数えきれないほどある建築作品の中で、私にとって忘れがたいのは、いま改築中の大阪・心斎橋大丸。関西を離れて40年あまり、いまも記憶の中にはワクワクする店内の雰囲気が残っています。(写真の最後の2枚は借り物です)

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 ヴォーリズ像のある小さな公園の前の新町バス停から駅前に戻り、ホテルのベッドに倒れこみました。

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