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松坂の二夜・・・③北畠氏館跡

 松阪に行こうと思い立ったのは、これから行く場所が発端でした。昨年、福井県を訪ねたとき、平泉寺塔頭の旧玄成院庭園を見せていただいて、作庭者は細川高国と伝えられていると知ったのですが、史実として確認されているわけではありません。そのとき読んだ『白の聖都』という小説に出てきた湖西の朽木に興味がわいて、今年の4月に旧秀麟寺庭園を拝観。こちらは確実に細川高国の作庭です。住職さんから伺った北畠氏館跡庭園は、公共交通利用では無理だと思っていましたが、なんとか行けそうな気がして、物好きにも行ってきました。宿泊地に松阪を選んだのも、起点になるからです。

 松阪から伊勢奥津までJR名松線が走っています。当初は名張までつながるはずだったのが、完成しないまま2009年の台風で一部区間が不通になり廃線の予定でしたが、住民の存続運動が実って2016年3月に復活した超ローカル路線は、1両だけのワンマンカーで、便数も僅少です。

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 11時33分に松阪を数人の乗客を乗せて発車した電車は、やがて山間部に入り、澄み切った渓流と杉林を彩る紅葉の美しさで旅心が躍ります。ほとんどが無人駅で、運転手さんの脇の運賃箱に切符を入れ、乗客がボタンを押して扉を開閉します。12時10分に唯一と言っていい有人駅の家城で降りたのは私を入れて2人でした。この駅は昔懐かしいタブレットの交換が行われるので、駅員さんが常駐しています。家城駅前から津市のコミュニティバスが出ているはずなので、駅員さんにバス停の場所を訪ねていたら、一緒に下りた青年が案内してくださいました。

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 いちばん奥が家城駅。バスは塀の右側から現れますが、あたりはお店もないし、誰も歩いていないので、あの青年がいなければ5分後に来たバスに乗り遅れたかもしれません。

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 12j時15分発の丹生俣股行のバスには年配の女性が5人乗っていました。運転手さんとは昵懇らしく、しばらくたつと、「農協に行くんやろ。貴重品だけ持って、荷物は置いていき。このバス、1時間たったら戻ってくるから」と優しいお言葉。貸切状態になってから、運転手さんの好奇心が炸裂しました。一通りどこからなんの目的で来たかを聞き出すと、話し出したのは、映画になった『神去なあなあ日常』のお話です。綾瀬はるかさんなど俳優さんが長期ロケで滞在し、完成したときはこぞって山を下りて映画館に詰めかけたそうです。三浦しをん氏の小説は読んだことがありますが、神去村のモデルが津市美杉町だったとは知りませんでした。三浦氏の祖父の方が美杉町で林業を営んでおられたと伺って、納得です。

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 45分のドライブをして、北畠神社前でバスを降りました。神社の所在地は津市美杉町上多気です。かつては奈良の猿沢池から伊勢神宮に至る伊勢本街道の宿場町として栄えた地域ですが、いまは閑散としています。

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  社務所で300円を納めて、まず北畠氏館跡庭園を拝見します。自分で扉を開けて入るというおおらかな入口でした。11月10日から3日間、ライトアップが行われ、無料シャトルバスも走りますが、不便は承知で静寂を選びました。

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 この庭園は、細川高国の作庭であることは間違いないと思われます。高国は室町幕府の管領として十数年間、権勢を誇りますが、甥の細川晴元や三好元長と争い、援軍を頼むために娘婿の北畠晴具を訪ねて、その館に滞在していた享禄3年(1530)に作庭したと伝えられています。翌年、戦いに敗れて摂津国大物の広徳寺で自害したとき、北畠晴具に宛てた辞世の和歌が一つの根拠です。

  絵にうつし石をつくりし海山を 後の世までも目かれずや見む

 なお、肥後熊本藩主の細川家は傍流です。

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 紅葉は盛りをすぎていましたが、足元に散り敷いた紅の落ち葉もいいものです。池の汀線が複雑に屈曲しているため、古くから「米字池」の名で知られています。総面積は約850坪の武家書院庭園で、池泉鑑賞様式です。まず、右周りに一周してみました。

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 橋の近くに戻ってきました。

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 この枯山水は高く評価されています。中央の2メートル近い立石(孔子岩)がどっしりと構え、周りを取り巻く十数個の石がさまざまな表情をみせながら、一つのまとまりを保っているのは見事です。

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 入口脇の木の長いすに腰かけて、松阪の駅中のベーカリーで調達したサンドイッチなどで、遅めのランチをいただきました。何よりも眼前の景色がご馳走です。武将の作った庭らしく素朴で豪放な魅力があります。さらに思いは南北朝の動乱の中でその名を馳せ、最終的に織田信長によって滅んだ伊勢北畠氏に向かいました。

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 室町時代の庭園の多くは寺院に所属していますが、この庭園は珍しく神社の庭園です。とは言っても、高国が作庭したときは、北畠神社は存在していません。由来書によると、寛永20年(1643)に北畠氏の末裔が旧縁の地に小さな祠を設けて北畠八幡宮と称した、やがて伊勢国司として南朝に尽くした北畠顕能を主祭神とし、顕能の父の親房と兄の顕家を合資したとされています。北畠神社と呼ぶようになったのは明治14年です。現在の社殿は昭和3年に新造されました。 

 公家と武家の両面を持つ北畠氏の流れで伊勢北畠氏の祖の顕能から8代具教まで、8代にわたる北畠氏の居館は、背後に北畠氏館詰城と霧山城が控え、これらすべてで「多気城」を構成していましたが、天正4年(1576)に織田氏に寄って楽落城し、そのまま廃城になってしまいました。

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 2006年にまとめられた精緻な報告書がありますが、内容は省略します。

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 館跡に北畠顕家の銅像が建っています。戦前・戦中の皇国史観では楠木正成と並んで第忠臣と称えられた人物です。いささかアレルギー気味でしたが、後醍醐天皇に対して。『顕家諫奏文』をしたためた7日後に21歳で戦死した顕家の心はいかばかりかと痛ましく感じました。

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 日本最古の石垣だそうですが、南北朝時代以前に石垣というものは存在しなかったのかと突っ込みたくなりました。解説をよく読むと、「中世では」ということのようです。

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 館跡の最奥にちらりと見える建物は、映画『神去なあなあ日常』で綾瀬はるかが教師を演じる小学校のロケに使われたとバスの運転手さんが誇らしげに教えてくださいました。

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 300mほど歩くいて、石段の上の門をくぐると、美杉ふるさと資料館です。

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 ホールに地元の方が作られた館跡の模型が置かれていました。以下の展示品はHPからお借りしました。民具や郷土史の資料、館跡の出土品、古地図、北畠氏関連史料、考古資料など、多岐にわたる展示がありました。

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 慶応4年のキリシタン禁令です。

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 林業関係資料。

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出土品の中で、中国産の磁器は、持ち主の経済力を示すもので、とくに「青磁水鳥形香合」は、非常に貴重なものだそうです。

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 館跡の出土品。

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 武具や古地図。

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 八手俣川の清流。 伊勢湾にそそぐ雲出川の支流です。

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 子どもが落ちないか心配になるため池。

 16時ごろ小さく警笛を鳴らして、コミュニティバスが来ました。往きと同じ運転手さんは、家城駅までずっと話続けて、山村の暮らしがよくわかりました。農作物は猿や鹿の食害を受け、つるした柿はハクビジンが食べてしまうそうです。広い立派な家が家賃2万円、家城駅前のサンクスは廃業して、店は一軒もない、夏は大きなムカデが10回は出てくる、等々で、45分があっという間です。電車が来るまでの1時間は、読書タイム。家城駅の待合室はどう見ても空調の設備はないので、真冬が心配になりました。またガラガラかと思っていたら、高校生がどっと現れて、やってきた電車は満員。白山高校の生徒さん、座席を譲ってくれていい子たちでした。途中駅でどんどん降りて行って、松阪に着いたときはやはりガラガラ。

 二つの異なったお城を訪ねて、いろいろ学んだ1日でいた。きょうの歩数は約1万歩です。

松坂の二夜・・・②城のある町

 11月22日(水)は雨の予報が出ていたので、心配でしたが、幸いにも傘の出番はありませんでした。午前中は松坂城跡界隈をめぐる予定です。三重交通のバスで3分、市役所前で降りて緩やかな坂道を少し登ると、石垣が見えてきます。天正16年(1588)に蒲生氏郷が築いた松坂城は周囲に堀と土居を巡らせた壮大な平山城でした。現在では石垣に囲まれた城跡が残っているだけです。築城以来使用されていた「松坂」は、「大坂」が「大阪」に変更されたこともあり、明治22年(1889)の町制施行の際に「松阪」に統一され、現在に至っています。

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 松阪市は梶井基次郎の『城のある町にて』でこの町が描写されていることを誇りに思っているのでしょう。城跡に文学碑が建っています。国語の教科書に載っていた『檸檬』を読んだだけで、改めて読んでみましたが、松阪という地名は出てきませんし、見下ろす風景も異なっていました。

 石工集団の穴太衆によって作られた石垣の特徴は、自然石を大小うまく組み合わせ奥行き深く積むものです。近くで目にする大小の石積みはパズルのようにきれいに組み合わされています。

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 七尾といえば長谷川等伯、松阪といえば本居宣長です。城跡に宣長の居宅が移築され、隣接する二ノ丸跡に本居宣長記念館が建てられています。

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二階の鈴屋tは非公開ですが、土手に登って見下ろせるようになっています。

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 宣長の旧宅は元禄4年(1691)に職人町に建てられ、その後、魚町に移築されました。宣長が12歳から72歳まで住んでいた旧宅は、明治42年、保存のために松坂城跡の現在地に移築され、宣長在住当時の姿に復元して、公開しています。この建物の二階の書斎が「鈴屋」です。

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 宣長が奥の間で古典の講釈などを行いました。

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 本居宣長記念館

 まず一階の映像で予備知識を得ました。国学者で『古事記伝』の著者ぐらいの知識しかありませんでしたが、商家に生まれながら商才がないと見抜いた母の勧めで医学を学んだ医師でもあったとは知りませんでした。23歳のころ日本古典研究を志し、賀茂真淵に私淑します。34歳のとき、伊勢神宮参拝のため松坂に来た67歳の賀茂真淵と対面し、語り合ったのが「松坂の一夜」です。73歳で真淵がが亡くなるまで通信教育を受けますが、宣長の質問に真淵が答えた書簡も展示されていました。

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 椅子は藍染の松坂木綿です。

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 往診の際に携行した薬箱です。

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 宣長は35歳から『古事記』の研究に着手し、難解と言われた『古事記』の解読を行います。美しい筆跡に驚きました。

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 宣長は鈴が大好きで、記念館には7個の鈴が所蔵されています。とくに石見浜田の松平氏から拝領した駅鈴は松阪市のシンボルとなり、松阪駅前に大きなモニュメントが置かれていました。

12月10日まで 秋の企画展「父と子の物語ー宣長と春庭ー」が開かれていて、若くして失明した長男の春庭に関する展示もたくさんありましたが、内容は省略します。

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 記念館の方に道を教えていただいて、来たときとは別の坂道をくだりました。

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  まず目に飛び込んできたのは米蔵。場内の隠居丸に建てられていた米蔵を明治初期に移築したものです。

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 松坂城を築いた蒲生氏郷は会津に転封となり、元和5年(1619)以後は紀州藩の飛び地領となりました。松坂城の警備を任務とする紀州藩士とその家族の住居として文久9年(1863)に建てられたのが御城番屋敷です。

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 約1ヘクタールの屋敷地のなかに主屋2棟と前庭、畑地などがあります。主屋の東棟は10戸、西棟9戸が連なっています。現在も子孫の方が住んでいる屋敷もありますが、1戸を松阪市が借りて、復元整備したのち、公開されています。入っていくと、ボランティアの方々に大歓迎されて、愛郷心のあふれるレクチャーを受けました。

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 御城番屋敷の突き当りを左に曲がると、殿町(旧同心町)です。奉行所に勤める同心と呼ばれた武士たちが住んでいた一角で、生垣が美しく刈り込まれた静かな佇まいを見せ、いまも当時の家屋が何軒か残っています。

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 素通りするつもりでしたが、熱心なお誘いを受けて、町奉行所の同心の子孫で、大蔵省を経て明治から大正にかけて実業家として活躍した原田二郎旧宅を拝見しました。松阪市に寄贈され、江戸時代末期の武家屋敷の名残をとどめています。

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 玄関前を飾る松阪菊は、古い歴史を持つ古典菊の一つだそうです。この時期だけ市内数カ所で展示されています。

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 庭園に松坂城堀跡が残っています。

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 二階に上がると松坂城の石垣が見えるそうです。

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 お隣が「八千代」という大正時代創業の料亭です。もとは松坂城二ノ丸跡で営業していて、昭和4年ごろに殿町に移転したようです。朝いちばんに来たせいか、どこも空いていて、静かな屋敷町を清々しい気持ちで歩きました。

 10分ほど歩いて、ホテルに戻ったら、お掃除の最中でした。これから山間部に行きますので、防寒具をピックアップして、駅に向かいます。

 いまは石垣しか残っていない松阪城を築城した蒲生氏郷は会津若松42万石の藩主となりますが、40歳で病死し、実子も夭折したこともあって、断絶してしまいます。なお、氏郷はキリシタン大名としても名高く、親友の高山右近の祈りのなかで亡くなったそうです。御三家の紀州藩の飛び地領になったのは、この地が幕府にとって重要な場所であったことを示しているのではないかと思います。

松阪の二夜・・・①斎宮歴史博物館

 おひとり様暮らしも長くなり、会話のない日が増えてきました。認知症予防も兼ねて、短い旅を続けています。とくに高邁な目的があるわけではなく、たんなる思い付き程度ですが、なるべく人の少なそうな時期・場所・時間を選んでいます。今回は戦前の小学校の教科書に「松阪の一夜」という一文が載っていたので、かつては誰もが知っていた本居宣長の生地、松阪に11月21日から2泊3日で行ってきました。「松阪の一夜」は佐佐木信綱氏の「松坂の一夜」をリライトしたものですが、そのことはあとで触れたいと思います。

 西を向いて行くときは、品川10:10発「ひかり」の6号車を切符の発売日に確保するのは、この行き方がいちばん楽だからです。

 どういう訳か、30年近く新幹線で富士山を見たことがなかったのに、品川を出て間もなくちらりと拝見。これは期待できると思っていたら、何度も秀麗な山容を見ることができて、嬉しくなりました。そのせいだとは言いませんが、旅につきもののリスクが皆無で過ごせたのはありがたいことでした。いまもテレビに「井の頭線運転再開」というテロップが出たから、何かあったのでしょう。どの交通機関もピタリ定刻、天候にも恵まれました。

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 今回は松阪の駅前ホテルに2泊します。名古屋から松阪までは特急「みえ」を利用しました。2両の特急は1号車の前6列だけが指定席。320円の指定席券はジパング倶楽部の割引で220円です。名古屋始発ですから早めに行けば座席は確保できると思いますが、1時間半ほど立つのは辛いし、このお値段は五能線にもまして安いと思います。帰りは同じ距離で520円だったのは、たぶん祝日だったからでしょう。

 14時少し前に松阪に着いて、ホテルに荷物を預けに行ったら、もうお部屋が使えるとのこと。チェックインは15時からなのに、ありがたい配慮でした。身軽になって、JRと同居している近鉄の山田線に乗ると、11分で斎宮駅です。

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 駅前の掲示板を眺めていたら、声がかかりました。観光ボランティアの方です。斎宮は、伊勢神宮に奉仕する斎王がいた古代の役所。斎王は天皇の即位のたびに占いで選定され、足かけ3年の心身を清める潔斎生活のあと、斎宮に着任し、朝廷と同様の祭祀や行事を行いました。この制度が確立したのは 、天武天皇の娘の大伯(大来)皇女(おおくのひめみこ)が斎王に任命されてか らだと言われています。

 若いころ「万葉旅行の会」であちこちを旅しましたが、大伯皇女と同母弟の大津皇子のお話がよく出ました。簡単に歴史のおさらいをしますと、壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇の皇后がのちの持統天皇です。大伯皇女と大津皇子の母は持統天皇の同母の姉の大田皇女で、ともに天智天皇の娘でした。いまでは父の弟と結婚するなど考えられませんが、古代ではありふれたことです。姉弟にとって大きな不幸は母の早世。太田皇女が存命なら皇后になり、大津皇子が皇太子になっていたかもしれません。

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 、『日本書紀』や『懐風藻』によると、大津皇子は風貌が大きく逞しく、文武両道に優れ、人望も厚かったそうです。686年9月9日に天武天皇が亡くなると、持統天皇が即位し、持統天皇が生んだ草壁皇子は皇太子に留まりました。持統天皇にとって最も邪魔な存在は大津皇子であることは誰の目にも明らかです。そのなかで斎王となっていた大伯皇女に密かに会いにきた大津皇子を見送る歌が『万葉集』に残されています。

   わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁(あかとき)露に 吾が立ち濡れし
   二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ

 飛鳥に戻った大津皇子は、10月2日に謀反の罪で捕えられ、3日に磐余の池の畔で24年の生涯を閉じました。

  大津皇子が死に臨んで作った歌(後世の仮託という説もあります)

  ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

 11月16日に大伯皇女は斎王の任を解かれて都に戻り、亡き弟が二上山に葬られたときに2首の歌を詠んでいます。

  うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我が見む

  磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに

 10月に郡上八幡を訪ねたとき、折口信夫の歌碑の前で出会った方と『死者の書』の話をしたと書きましたが、大津皇子の独白がこの小説の冒頭に出てきます。

  本題に戻ります。観光ボランティアの方が広大な斎宮跡について説明してくださいました。斎宮跡は、東西2㎞、南北700mにわたり、昭和45年から開始された調査はいまも続けられています。もとは自衛隊の用地で、住宅団地を建設しようとしたさいに遺物が出土し、熱心な保存運動の結果、史跡に指定され、「いつきのみや歴史体験館」、斎宮跡を10分の1に縮小した模型などを配置した「斎宮跡歴史ロマン広場」、重要な儀式を行った3棟の復元建物を含む「さいくう平安の杜」、歴史資料や考古資料を展示した「斎宮歴史博物館」などが造られています。

 下の図は、規模を他の遺跡と比較したものです。

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  斎宮は、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう場所でした。碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした町に、斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が住んでいました。斎宮制度は660年続きますから、何度も建て替えられていますが、10分の1に縮小して復元された建物は平安時代の様子を示しています。映りこんでいる影はボランティアさんと私です。木造の塀に囲まれて、檜皮葺や板葺の屋根に掘立柱の建物が並んでいますが、茶色の屋根は発掘で確認できた建物、灰色の屋根は想定される建物だそうです。

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 灰色の屋根の方形の2棟の建物は井戸の覆屋です。

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 復元建物(西脇殿・正殿・東脇殿)は、帰りに寄ろうと思っていましたが、時間切れ、体力切れでした。

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 川の痕跡です。

 ロマン広場から博物館方向に奈良古道が復元されています。{「ここは復元した古代伊勢道です」と書いた柱が立っていました。 斎宮跡で見つかった奈良時代の古道は、 古代の鈴鹿関から伊勢神宮を経て志摩国府へ至る幹線道路で、 東西約1.4㎞にわたり幅9mの両側に側溝を持つ大規模な道路です。

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 奈良古道が車の行きかう道路にぶつかると、右側に斎宮歴史博物館の建物が見えてきます。

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  「展示室Ⅰ」は、「文字からわかる斎宮」をテーマに、斎宮が最も栄えた平安時代を中心に模型や映像資料、実物資料を活用して当時を再現しています。斎宮跡は伊勢神宮から15kmほど離れていて、斎王は年毎年9月の神嘗祭、6月と12月の月次祭に伊勢神宮に参拝する以外は、斎宮で祭祀、行事などを行っていました。多くの役人や女官にかしずかれ、都と変わらぬ生活だったとはいえ、5歳から15歳ぐらいの少女期に斎宮にこもって神に仕える日々は、決して楽しいものではなかったでしょう。

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 国指定の重文がずらりと並んでいる中で、目を惹いたのは、羊形硯はじめ硯の多さです。これは文書行政の定着を示しているという説明があって、文書は破棄したと平気でおっしゃる官僚に見習ってほしいと思いました。

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 15時15分から映像展示室で「今よみがえる幻の宮」を見せていただきました。発掘調査の成果に基づいて平安時代初期の斎宮の様子をコンピューターグラフィックで復元し、文献資料から斎宮の日常生活や勅使の訪問の様子を再現しています。登場する人々の言葉がいまの日本語とはかなり異なる発音で、字幕がないと意味不明だったのが印象的でした。

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 そのあと「展示室Ⅱ」を見学。30年あまりの斎宮跡の発掘調査が明らかにした斎宮の姿を、考古資料と模型で立体的・多角的に紹介してます。考古資料の展示では、飛鳥時代から南北朝時代にわたる斎宮の時代的変遷を「斎宮の成立と整備」「斎宮の隆盛と繁栄」「斎宮の衰退と消滅」の3期に分けて展示しているほか、最新の発掘成果を紹介する速報コーナーがあります。いちばん興味のあった大伯皇女の時代のことは、あまり定かではないのが、少し残念でした。建物の跡も重なりあったりして、古い時代のことは今後の調査を待つしかありません。
  模型は、この10年間で飛躍的に調査が進展した方格地割の内院(斎王の御殿エリア)推定地区の調査成果を中心に紹介するもので、斎宮跡の発掘調査区の一部や斎王が暮らした「内院」の柵列を再現した復元模型(実物大)、内院地区の調査経過をまとめた映像と連動した発掘調査区模型(20分の1)、床面に設置した斎宮跡全体の陶板航空写真と組み合わせた斎宮寮の復元模型(400分の1)の3種類があります。

 10世紀後半から斎宮は次第に衰退し、承安元年(1172)から文治元年(1186)まで斎王が不在という事態も起こります。鎌倉時代に斎宮は復活しますが、天皇家が持明院統と大覚寺統に分裂したのちは、持明院統の天皇は斎王を置かず、後醍醐天皇の建武の新政の崩壊とともに斎王制度は終わりました。

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 斎宮跡から出土した土器類は、考古学用の整理箱で1万箱を超える量だそうです。

 斎王あるいは斎宮は、『伊勢物語』『源氏物語』『山家集』など文学作品にも登場します。鎌倉時代の初めに斎宮を訪れた西行は「斎王おはしまさで年経にけり。斎宮、立木ばかりさかと見えて、つい垣もなきやうになりたり」と嘆きました。ボランティアさんも昭和45年の発掘調査以前は、「斎王の森」という呼称が伝えられているので、なにかあるな、程度の認識だったと言われていました。

 博物館の周りには古墳が点在しています。「歴史の道」の傍らの塚山古墳群は、古墳時代中期から後期の群集墳です。発掘調査の結果、5世紀末~6世紀前半に築造された円墳と方墳42基が確認され、そのうち13基が保存されています。円墳は径15m前後、方墳は1辺10m前後のものが多く、周溝を持っています。出土遺物としては埴輪や土師器、須恵器などがあると書いてありました。

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 円墳ですね。

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 しばらく「歴史の道」を歩きました。斎王やゆかりの人たちの歌碑が並んでいます。

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 斎宮跡も影が長くなっていました。

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 この川で禊をしたそうですが、水がありません。

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 10分の1のサイズで復元された八脚門ですが、実際の跡地は近鉄の線路の向こうです。

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 斎宮駅の前の寝殿造の貴族の邸宅を模した「いつきのみや歴史伝承館」は、もう閉まっていました。史跡の発掘は一部に過ぎませんし、文献資料もわずかですので、斎宮はやはり幻の宮でしたが、遠い昔の夢は見られました。それにしても、人が少ない!

秋の鎌倉・・・浄智寺

 まだ余力があるとうぬぼれて、もう一カ所、欲張りました。東慶寺は次の機会に譲って、Yk様が『緑の風』というブログに美しい写真と詳しい解説を載せてくださっている浄智寺にお参りしました。

 浄智寺は、鎌倉五山第四位の臨済宗円覚寺派のお寺です。謡曲『鉢の木』でその名を知られた五代執権・北条時頼の三男宗政が29歳で亡くなると、夫人が、亡き夫と子の師時を開基として浄智寺を起こしました。かつては円覚寺とほぼ同じ規模の寺域を誇り、多くの堂宇が存在しましたが、関東大震災でほとんどが倒壊してしまいます。

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 参道入口の石橋の畔に鎌倉十井の一つ、甘露の井があります。

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 石段を上がると。「寶所在近」の文字が掲げられた惣門(高麗門)が木立の中に建っています。ここで言う「寶所」とは悟りの世界の彼岸であり極楽浄土のことを意味します。極楽は遠くにあるものではなく自己の境地の中にある、自分の心の中に極楽を築くよう修行しなければならず、現実から逃げてはいけないという意味だと教えていただきました。

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 木漏れ日を浴びた鎌倉石を使った石段が美しい。

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 さらに山門(鐘楼門)をくぐります.。鐘楼門の名の通り鐘楼を兼ねていて、2階部分が鐘つき堂になっています。現在の鐘楼門は2007年(平成19年)に建て替えられたもので、境内では一番新しい建物です。

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 境内に入ると仏殿(曇華殿)が建っています。曇華殿に安置されている三世仏は、南北朝時代のもので、わが国に伝わる三世仏の中でも造立年代の早いものです。

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 非公開の書院と庫裏は、庭園から拝見しました。

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 墓地の奥にやぐら群があります。墓地には澁澤龍彦氏のお墓がありますが、写真は控えました。

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 ぐるっと回って棟門に戻ってきました。柿が色づいているのですが・・・。扉には徳川家の葵の紋が施されていますが、うまく写せませんでした。

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 上手な方が撮られると、こうなります。もしいけなかったら削除します。

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 もう体力の限界に近づいてきたので、何度も振り返りながら帰途に就きました。

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 お昼時は過ぎてしまいましたが、至近の「鉢の木北鎌倉新館」で半月弁当をいただきました。

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 紅鮭幽庵焼 鶏照焼 帆立時雨煮 厚焼玉子 鹿の子蒲鉾 石川芋 生湯葉 丸十ワイン煮 だだちゃ豆 酢取茗荷 胡桃甘露煮 秋茄子 紅葉麩 隠元当座煮 車麸 水菜と菊花のお浸し 御飯 ちりめん山椒 香物 海老真蒸清汁

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 すでに歩数計は1万歩以上を示しています。高低差があるので、足腰は激怒。60分立つのは辛いし、165円を張り込み9分かけて湘南新宿ラインの終点逗子まで行き、改札を出て1秒で再入場。これは大成功でした。逗子を一両に3人で発車した電車は、次の鎌倉で長い列を作っていた方がなだれ込んで満員です。往復とも恵比寿で乗り換えて、省エネに勤めましたが、2日ほど後遺症に悩まされました。

 なんとなく敷居の高かった鎌倉に楽に行けるすべを会得したので、今後はもっと足を運びたいと思います。背中を押してくださったyk様にはお礼を申し上げます。天候に恵まれすぎて、汗だくになりました。

秋の鎌倉・・・長寿寺

 もう一カ所、どうしても行きたかったのが長寿寺です。拝観できる季節と曜日が限られているので、この日を逃したくありません。春季(4・5・6月)、秋季(10・11月)、金・土・日・祝 午前10時~午後3時(雨天中止)が条件ですから、ハードルが高いと思います。

 北鎌倉駅から踏切を渡って建長寺方向に徒歩10分ということでしたが、狭い歩道は建長寺方向から歩いてきた数多の学生服に占拠され、なかなか進めません。少し嫌になったころに長寿寺の石段が見えてきました。

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 門をくぐると、作務衣を召した方が、お賽銭箱に300円入れてくださいとおっしゃいます。

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 このお寺は、建物の中に入れてくださって、ゆっくり拝観できますが、いくつかご注意が書いてありました。一つは、私語禁止。おひとり様ですから、その心配はありません。入口におられた女性は、絵葉書をくださって、優しい方でした。

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 略縁起には「臨済宗建長寺派で1358年(延文3年)足利尊氏の菩提を弔う為第四子基氏によって尊氏の邸跡に創建された」と書いてありますが、建武3年(1336)の古文書に、長寿寺の記録があるので、基氏以前の創建ではないかと考えられています。邸跡だという確認はできないようです。

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 おもな建物は大正時代の再建ですが、手入れの行き届いたお庭をゆっくり拝見しました。桜や紫陽花も植えられていますから、季節を変えればもっと見事でしょうが、この静寂は望めないかもしれません。

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 境内の観音堂は、室町時代創建という奈良の忍辱山円成寺多宝塔の第一層を改造移築した建物だそうです。茅葺、方形の美しいお堂でした。

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 裏山の階段を少し登ると、「足利尊氏の墓」と書いた立札の後ろに五輪塔が立っています。ちょっとバランスが悪くて、落ち着きませんが、お寺では尊氏の遺髪が埋葬されていると言われています。

 ここから坂道を下ると、先ほど建物の中から拝見した庭園に出られます。

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 紅葉の季節には少し早かったのですが、絢爛たる景色と静けさのどちらをとるかは迷います。

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 こちらが出口です。

 以前にもどこかで書いたかもしれませんが、小学校が国民学校と呼ばれたころ、校長先生が熱狂的な楠木正成の崇拝者で、毎日、朝礼で楠公精神を叩き込まれました。そのころは、北条高時という大悪人が滅びたという話で大喜びをしていると、今度は足利尊氏という大悪人が後醍醐天皇の朝敵となったと聞かされ、悲憤慷慨したものです。たぶん、そのころは「足利尊氏公ゆかりの寺」などという看板は絶対にかけなかったでしょう。

 最近、安部龍太郎著『道誉と正成』を読みました。足利方の佐々木道誉と天皇方の楠木正成が互いに認め合いながら敵対するというストーリーがどこまで真実かどうかわかりませんが、どちらも商業的武士団の側面を持ち、後醍醐天皇に対しては厳しい評価をしています。

 たぶん水戸史学の影響が色濃かったため、明治維新以後の教育では、後醍醐天皇が正しく、尊氏は朝敵という評価が敗戦まで続きました。女高師出身の国語の教師は敗戦後も南北朝時代とは言わず、吉野朝時代で通していましたが、いまだにこの時代をテーマにした大河ドラマが制作されないのは微妙な問題があるからだと思います。

 この小説には、表題の二人以外に、大塔宮、新田義貞、北畠顕家、足利尊氏・直義兄弟、高師直、後伏見法皇・光厳上皇など実在の人物がたくさん登場し、これまでの旅やこれからの旅につながる手がかりも得られました。、

 

秋の鎌倉・・・円覚寺「風入れ」

  昨年、山梨県東山梨市の清白寺のお堂を拝観してから、禅宗様式の建築の美しさに魅せられ、東京都東村山市の正福寺、岐阜県多治見市の永保寺を訪ねましたが、なかなか拝観できない鎌倉の円覚寺舎利殿が宝物の「風入れ」と併せて11月3日から3日間だけ間近に拝観できると知って、この日を心待ちにしていました。栃木県足利市の鑁阿寺本堂も同じ様式ですが、瓦葺なので少し雰囲気が違います。

 関西から当地に転居した当時は日帰り圏内の名所を訪ね歩き、鎌倉にも行きましたが、円覚寺は40年ぶりです。

 秋の3連休の中日ですから、さぞかし大混雑でしょうと覚悟して出かけましたが、幸いにも湘南新宿ラインは空席があり、11時ごろ北鎌倉に着きました。円覚寺は目の前です。

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 円覚寺は、禅宗に帰依していた北条時宗が中国に使者を派遣し、無学祖元を招聘して開山します。時宗は円覚寺を関東祈祷所とし、尾張国富田庄を寄進しました。

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  まずは一目散に「宝物風入れ」が行われている方丈書院に向かいます。テント内の受付はとくに並ぶこともありません。500円が必要ですが、カラー刷り21ページの「宝物目録」をいただけ、250点に及ぶ文化財を見ることができます。余談ですが、ヤフオクに「宝物目録」が1000円で出品されているのを見つけて、びっくりしました。表紙に印刷されているのは、酔翁亭図香盆です。

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  第一展示場(大方丈)では、盤、合子、法衣、絵画、書状、などがところ狭しと展示され、廊下に端然と座る若い僧たちの姿が印象的でした。北条時宗、北条貞時、北条高時、足利尊氏、足利基氏など、歴史書の中で名前を知る人物の書状を目にすると、なにか身近に感じられます。内部は撮影禁止ですので、写真はお寺のHP等からお借りしました。

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 ガラス越しではなくて、そのまま拝見できるのはありがたいです。

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 岸駒筆「開山仏光国師像」「龍虎図」

 仏光国師(無学祖元)像の左右に龍虎を配して三幅対になっています。岸駒は虎の絵を得意とする江戸時代の絵師です。ときどき見ている「なんでも鑑定団」に虎の絵を出品した人がいて、真っ赤な偽物、本物なら500万だと鑑定士が言っていましたが、これは本物でしょうね。

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 北条時宗書状(拝請状) 

 時宗が中国に禅の指導者を求めたときの依頼状です。

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 尾張国富田庄図 

 時宗が円覚寺に寄進した荘園の図ですが、こういう図面の実物はなかなか見られません。

 大書院の第二展示場には、高僧の肖像画や香炉などが展示されていました。

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 第三展示場(小書院)

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 黄梅院伽藍図 

 あとで行った黄梅院の火災復興後の応永30年(1423)の絵図です。当時の院主が復興した姿を描いて、将軍や高僧たちに披露したもので、実物は彩色がされています。

 次に舎利殿に向かいました。舎利殿は正続院という塔頭の中にあります。

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 以前来たときは、唐門越しに垣間見ただけですが、わくわくしながら門をくぐりました。

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 唐門の向かって左から入って、右から出ます。こちらもそれほど混んでいなくて、じっくり拝観できました。しかも撮影禁止は解けていて、三脚などを立てない限り問題はありません。

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 屋根の反りが美しいし、花頭窓もスッキリしています。舎利殿とは仏様の遺骨を納めたところで、三代将軍源実朝が宋の能仁寺から請来され、大慈寺(廃寺)に安置していたものを、弘安8年(1285)に北条時宗の子北條貞時が一門の守護を願って円覚寺に遷したものだそうです。最初の舎利殿は永禄6年(1563)12月の大火で消失し、現在の舎利殿は鎌倉にあった太平寺(尼寺・廃寺)を移築したものです。

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 舎利殿の右側に建つ禅堂(正法眼堂)は関東大震災で倒壊し、1930年に再建されたものです。この花頭窓のように下に向かって開いている形式は少し時代が下ります。

 大陸の建築様式である「禅宗様」は「大仏様」に少し遅れて鎌倉時代に我が国に入ってきます。以前は「唐様(からよう)」と呼ばれていましたが、唐の様式と思われるのを避けるために「禅宗様」と呼ばれるようになりました。「大仏様」も以前は「天竺様」でした。これまでに訪ねた「禅宗様」建築を再掲しましたが、すべて国宝に指定されています。

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 山梨県・清白寺

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 東京都・正福寺

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 岐阜県・永保寺

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 正続院の山門の中の建物は、専門道場として修行の場となっています。

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 頑張っていちばん高いところに建っている黄梅院を訪ねました。

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拝観料は200円でした。

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 観音堂

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 黄梅院境内

 黄梅院は成り立ちが少し複雑です。この場所には時宗の三回忌に妻の覚山尼が建てた三重の華厳塔が建っていました。

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 これは建武2年(1335)ごろに描かれたと考えられています。時宗が亡くなったのは、弘安7年(1284)ですから、少なくとも50年は建っていたはずです。ところが「風入れ」で拝見した応永30年(1423)の「黄梅院伽藍図」には華厳塔はありません。黄梅院は文和3年(1354)に華厳塔の跡地に夢窓疎石の弟子が疎石の「塔所」として開創したとされているので、この間に消えたのでしょう。「塔所」という言葉は辞書にも載っていませんが、遺骨を納めた塔のある場所という意味ではないかと思います。

 境内の観音堂の幕には足利氏の家紋が入っています。応安元年(1368)に室町幕府の二代将軍足利義詮の遺骨が分骨されたことから、足利氏の庇護を受けるようになったようです。

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 必見の場所と境内の最奥・最高の場所を極めたので、通りすぎてきた場所を訪ねながら坂道を下りました。

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 「白鹿洞」は無学祖元の法話を聴くために白鹿がかかから出てきたと言い伝えられています。

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 「仏日庵」の前のお知らせにつられてお参りしました。時宗は弘安7年(1284)4月4日に32歳で亡くなりましたので、11月4日は月命日です。100円を納めると、お線香を1本くださいました。

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 時宗は、この場所に庵を結び、禅の修行に没頭し、精神鍛錬に励みました。没したのち、このお堂の下にご遺体を安置しここを廟所(墓所)としたと伝えられています。

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 最近、「国難」という言葉をよく耳にしますが、「国難来る」と叫ばれたのは時宗の時代です。文永11年(1274)と弘安4年(1281)にモンゴル帝国の軍勢が来襲したのは、日本史上例のない出来事でした。18歳で8代目の執権に就いた時宗は強硬路線で事に臨みます。天候も幸いして、難を逃れたものの、多額の軍費を使い、3度目の来襲にも備えなければ
なりません。武士たちの恩賞への不満も渦巻き、32歳で亡くなった時宗の孫にあたる14代執権高時が享年31歳で自害して、鎌倉幕府は滅びました。

 時宗の人物評価も時代によって異なりますが、太平洋戦争に突入するころは、政治的な思惑から高い評価を受けるようになったと思います。幼心に「敵国降伏」を願い、日本は神国だから必ず神風が吹いて米英を撃滅すると信じていました。それだけに「国難」という言葉に恐怖を感じてしまいます。時宗よりも大河ドラマで片岡鶴太郎が演じた高時が虚無感を漂わせて、「ぼろぼろになり」「くたくたになり」と述懐する姿が忘れられません。

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 方丈庭園は秋の気配が漂っていました。

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 元亨3年(1323)に9代執権貞時の13回忌に合わせて建立された法堂の跡です。

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 関東大震災で倒壊し、昭和39年に再建された仏殿です。

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 白壁の美しい松嶺院まで来ると、電車の音が聞こえてきます。

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 山門は天明5年(1785)に再建されました。





   

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