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松阪の二夜・・・①斎宮歴史博物館

 おひとり様暮らしも長くなり、会話のない日が増えてきました。認知症予防も兼ねて、短い旅を続けています。とくに高邁な目的があるわけではなく、たんなる思い付き程度ですが、なるべく人の少なそうな時期・場所・時間を選んでいます。今回は戦前の小学校の教科書に「松阪の一夜」という一文が載っていたので、かつては誰もが知っていた本居宣長の生地、松阪に11月21日から2泊3日で行ってきました。「松阪の一夜」は佐佐木信綱氏の「松坂の一夜」をリライトしたものですが、そのことはあとで触れたいと思います。

 西を向いて行くときは、品川10:10発「ひかり」の6号車を切符の発売日に確保するのは、この行き方がいちばん楽だからです。

 どういう訳か、30年近く新幹線で富士山を見たことがなかったのに、品川を出て間もなくちらりと拝見。これは期待できると思っていたら、何度も秀麗な山容を見ることができて、嬉しくなりました。そのせいだとは言いませんが、旅につきもののリスクが皆無で過ごせたのはありがたいことでした。いまもテレビに「井の頭線運転再開」というテロップが出たから、何かあったのでしょう。どの交通機関もピタリ定刻、天候にも恵まれました。

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 今回は松阪の駅前ホテルに2泊します。名古屋から松阪までは特急「みえ」を利用しました。2両の特急は1号車の前6列だけが指定席。320円の指定席券はジパング倶楽部の割引で220円です。名古屋始発ですから早めに行けば座席は確保できると思いますが、1時間半ほど立つのは辛いし、このお値段は五能線にもまして安いと思います。帰りは同じ距離で520円だったのは、たぶん祝日だったからでしょう。

 14時少し前に松阪に着いて、ホテルに荷物を預けに行ったら、もうお部屋が使えるとのこと。チェックインは15時からなのに、ありがたい配慮でした。身軽になって、JRと同居している近鉄の山田線に乗ると、11分で斎宮駅です。

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 駅前の掲示板を眺めていたら、声がかかりました。観光ボランティアの方です。斎宮は、伊勢神宮に奉仕する斎王がいた古代の役所。斎王は天皇の即位のたびに占いで選定され、足かけ3年の心身を清める潔斎生活のあと、斎宮に着任し、朝廷と同様の祭祀や行事を行いました。この制度が確立したのは 、天武天皇の娘の大伯(大来)皇女(おおくのひめみこ)が斎王に任命されてか らだと言われています。

 若いころ「万葉旅行の会」であちこちを旅しましたが、大伯皇女と同母弟の大津皇子のお話がよく出ました。簡単に歴史のおさらいをしますと、壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇の皇后がのちの持統天皇です。大伯皇女と大津皇子の母は持統天皇の同母の姉の大田皇女で、ともに天智天皇の娘でした。いまでは父の弟と結婚するなど考えられませんが、古代ではありふれたことです。姉弟にとって大きな不幸は母の早世。太田皇女が存命なら皇后になり、大津皇子が皇太子になっていたかもしれません。

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 、『日本書紀』や『懐風藻』によると、大津皇子は風貌が大きく逞しく、文武両道に優れ、人望も厚かったそうです。686年9月9日に天武天皇が亡くなると、持統天皇が即位し、持統天皇が生んだ草壁皇子は皇太子に留まりました。持統天皇にとって最も邪魔な存在は大津皇子であることは誰の目にも明らかです。そのなかで斎王となっていた大伯皇女に密かに会いにきた大津皇子を見送る歌が『万葉集』に残されています。

   わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁(あかとき)露に 吾が立ち濡れし
   二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ

 飛鳥に戻った大津皇子は、10月2日に謀反の罪で捕えられ、3日に磐余の池の畔で24年の生涯を閉じました。

  大津皇子が死に臨んで作った歌(後世の仮託という説もあります)

  ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

 11月16日に大伯皇女は斎王の任を解かれて都に戻り、亡き弟が二上山に葬られたときに2首の歌を詠んでいます。

  うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我が見む

  磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに

 10月に郡上八幡を訪ねたとき、折口信夫の歌碑の前で出会った方と『死者の書』の話をしたと書きましたが、大津皇子の独白がこの小説の冒頭に出てきます。

  本題に戻ります。観光ボランティアの方が広大な斎宮跡について説明してくださいました。斎宮跡は、東西2㎞、南北700mにわたり、昭和45年から開始された調査はいまも続けられています。もとは自衛隊の用地で、住宅団地を建設しようとしたさいに遺物が出土し、熱心な保存運動の結果、史跡に指定され、「いつきのみや歴史体験館」、斎宮跡を10分の1に縮小した模型などを配置した「斎宮跡歴史ロマン広場」、重要な儀式を行った3棟の復元建物を含む「さいくう平安の杜」、歴史資料や考古資料を展示した「斎宮歴史博物館」などが造られています。

 下の図は、規模を他の遺跡と比較したものです。

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  斎宮は、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう場所でした。碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした町に、斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が住んでいました。斎宮制度は660年続きますから、何度も建て替えられていますが、10分の1に縮小して復元された建物は平安時代の様子を示しています。映りこんでいる影はボランティアさんと私です。木造の塀に囲まれて、檜皮葺や板葺の屋根に掘立柱の建物が並んでいますが、茶色の屋根は発掘で確認できた建物、灰色の屋根は想定される建物だそうです。

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 灰色の屋根の方形の2棟の建物は井戸の覆屋です。

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 復元建物(西脇殿・正殿・東脇殿)は、帰りに寄ろうと思っていましたが、時間切れ、体力切れでした。

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 川の痕跡です。

 ロマン広場から博物館方向に奈良古道が復元されています。{「ここは復元した古代伊勢道です」と書いた柱が立っていました。 斎宮跡で見つかった奈良時代の古道は、 古代の鈴鹿関から伊勢神宮を経て志摩国府へ至る幹線道路で、 東西約1.4㎞にわたり幅9mの両側に側溝を持つ大規模な道路です。

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 奈良古道が車の行きかう道路にぶつかると、右側に斎宮歴史博物館の建物が見えてきます。

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  「展示室Ⅰ」は、「文字からわかる斎宮」をテーマに、斎宮が最も栄えた平安時代を中心に模型や映像資料、実物資料を活用して当時を再現しています。斎宮跡は伊勢神宮から15kmほど離れていて、斎王は年毎年9月の神嘗祭、6月と12月の月次祭に伊勢神宮に参拝する以外は、斎宮で祭祀、行事などを行っていました。多くの役人や女官にかしずかれ、都と変わらぬ生活だったとはいえ、5歳から15歳ぐらいの少女期に斎宮にこもって神に仕える日々は、決して楽しいものではなかったでしょう。

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 国指定の重文がずらりと並んでいる中で、目を惹いたのは、羊形硯はじめ硯の多さです。これは文書行政の定着を示しているという説明があって、文書は破棄したと平気でおっしゃる官僚に見習ってほしいと思いました。

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 15時15分から映像展示室で「今よみがえる幻の宮」を見せていただきました。発掘調査の成果に基づいて平安時代初期の斎宮の様子をコンピューターグラフィックで復元し、文献資料から斎宮の日常生活や勅使の訪問の様子を再現しています。登場する人々の言葉がいまの日本語とはかなり異なる発音で、字幕がないと意味不明だったのが印象的でした。

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 そのあと「展示室Ⅱ」を見学。30年あまりの斎宮跡の発掘調査が明らかにした斎宮の姿を、考古資料と模型で立体的・多角的に紹介してます。考古資料の展示では、飛鳥時代から南北朝時代にわたる斎宮の時代的変遷を「斎宮の成立と整備」「斎宮の隆盛と繁栄」「斎宮の衰退と消滅」の3期に分けて展示しているほか、最新の発掘成果を紹介する速報コーナーがあります。いちばん興味のあった大伯皇女の時代のことは、あまり定かではないのが、少し残念でした。建物の跡も重なりあったりして、古い時代のことは今後の調査を待つしかありません。
  模型は、この10年間で飛躍的に調査が進展した方格地割の内院(斎王の御殿エリア)推定地区の調査成果を中心に紹介するもので、斎宮跡の発掘調査区の一部や斎王が暮らした「内院」の柵列を再現した復元模型(実物大)、内院地区の調査経過をまとめた映像と連動した発掘調査区模型(20分の1)、床面に設置した斎宮跡全体の陶板航空写真と組み合わせた斎宮寮の復元模型(400分の1)の3種類があります。

 10世紀後半から斎宮は次第に衰退し、承安元年(1172)から文治元年(1186)まで斎王が不在という事態も起こります。鎌倉時代に斎宮は復活しますが、天皇家が持明院統と大覚寺統に分裂したのちは、持明院統の天皇は斎王を置かず、後醍醐天皇の建武の新政の崩壊とともに斎王制度は終わりました。

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 斎宮跡から出土した土器類は、考古学用の整理箱で1万箱を超える量だそうです。

 斎王あるいは斎宮は、『伊勢物語』『源氏物語』『山家集』など文学作品にも登場します。鎌倉時代の初めに斎宮を訪れた西行は「斎王おはしまさで年経にけり。斎宮、立木ばかりさかと見えて、つい垣もなきやうになりたり」と嘆きました。ボランティアさんも昭和45年の発掘調査以前は、「斎王の森」という呼称が伝えられているので、なにかあるな、程度の認識だったと言われていました。

 博物館の周りには古墳が点在しています。「歴史の道」の傍らの塚山古墳群は、古墳時代中期から後期の群集墳です。発掘調査の結果、5世紀末~6世紀前半に築造された円墳と方墳42基が確認され、そのうち13基が保存されています。円墳は径15m前後、方墳は1辺10m前後のものが多く、周溝を持っています。出土遺物としては埴輪や土師器、須恵器などがあると書いてありました。

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 円墳ですね。

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 しばらく「歴史の道」を歩きました。斎王やゆかりの人たちの歌碑が並んでいます。

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 斎宮跡も影が長くなっていました。

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 この川で禊をしたそうですが、水がありません。

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 10分の1のサイズで復元された八脚門ですが、実際の跡地は近鉄の線路の向こうです。

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 斎宮駅の前の寝殿造の貴族の邸宅を模した「いつきのみや歴史伝承館」は、もう閉まっていました。史跡の発掘は一部に過ぎませんし、文献資料もわずかですので、斎宮はやはり幻の宮でしたが、遠い昔の夢は見られました。それにしても、人が少ない!

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