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高齢者の5タイプ(丸写し)

 

 以下は「KAIGO LAB編集部」が高齢者の性格を5タイプに分けて解説された文章の丸写しです。単純に分けられるものではなくて、複合型もあるそうですが、「転載を禁ず」とは書いてなかったので、自分自身を省みるために挙げてみました。

1. 適応型;円熟型

自らの老いを自覚しながらも、それによって活動意欲を低下させることがないタイプ。過去の自分を後悔することなく受け入れ、未来に対しても現実的な展望を持っている。老いによってできなくなることも、それはそれとして、新しい現実の中で満足を得られるタイプ。周囲が無理にアレンジしなくても、自分で自分の人生を進めようとするので、性格的な部分で、周囲が対応する負担が少ない。スマホのような新しい技術も、面白がって使えるようになる。

2. 適応型;安楽椅子型(依存型)

受身的に、消極的に老いを受け入れるタイプ。後は皆にまかせて、自分はのんびりという具合に、他人に依存しながら「気楽な隠居」であることを求める。積極的に新しいことには取り組まないが、誘われれば、新しい環境への適応もできる。性格的な背景から、生活不活性病にならないように、活動的な物事への取り組みをうながす必要がある。スマホのような新しい技術も、それが自分を楽にさせる便利なものであることが理解できれば、使いこなせる。

3. 適応型;装甲型(自己防衛型)

老いへの不安と恐怖から、トレーニングなどを積極的に行い、強い防衛的態度をとるタイプ。なんとか若い時の生活水準を守ろうとする。スマホのような新しい技術も、使いこなせないと恥ずかしいという心理から、受け入れようとする。責任感が強く、様々な活動を続けようとする。結果として無理をおし進めるリスクもあり、怪我などをしてしまうことも。性格的な背景から、本人の「まだまだ、現役だ」という自尊心を傷つけることなく、無理はしすぎないように注意する必要がある。

4. 不適応型;自責型(内罰型)

過去の人生全体を失敗とみなし、その原因が自分にあると考え、愚痴と後悔を繰り返すタイプ。典型的には、仕事に一生懸命だった反面、家族をかえりみず、現在は家族から相手にされない状況にあることを嘆くような高齢者。うつ病になりやすい。新しい技術にも適応しようとしない。いつまでも過去にとらわれることなく、反省すべきは反省しつつも、なんとか新しい関係性などを築いていく必要がある。

5. 不適応型;攻撃憤慨型(外罰型)

自分の過去のみならず、老化そのものも受け入れることができないタイプ。過去を失敗とみなし、その原因を自分ではなく、環境や他者のせいとして責任転嫁する。不平や不満が多く、周囲に対しても攻撃的にあたり散らすため、トラブルを起こす。高齢者として他者から親切をされても、それをポジティブに受け入れられない。周囲としては、どこまで献身的に対応しても感謝されることもないため、サポートすること自体が困難。

 周りを見回すと、この5タイプのいずれかに当てはまる人に思い当ります。できれば円熟型でありたいと願っていますが、さてどうなりますか。とりあえず、今年も掃除・買い物・調理で暮れそうです。

師走の吉備路・・・⑤旧閑谷学校

 最終日、ホテルに荷物を預けて8:09発の山陽本線・相生行きに乗車。今日も登校する高校生で満員でしたが、途中駅でどんどん下車してまもなくガラガラ状態になりました。40分で吉永駅です。隣の和気駅付近で、和気清麻呂の大きな像が田園の中にすっくと立っておられました。

 吉備路に行こうと思い立ったのは、10月ごろに「美の巨人たち」というテレビ番組で閑谷学校が取り上げられているのを見たのが始まりです。何度も申しておりますように、私の旅は認知症予防ですから、少しでも興味がわけば、ほいほいと行ってしまう節操のない有様です。

 無人駅の駅前にポツンとバス停があります。近寄ると、9名の定員を超えた場合は、次のバスか、タクシーを利用してくださいと書いたピンクの紙が貼ってあります。次と言っても、1時間後なんですけど・・・。

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 事情はバスに乗ってみてわかりました。車体は10人乗りのハイエースで、乗り心地は抜群。各地のシティバスに乗っていますが、こういう車は初めてです。幸いにも乗客は2名。8分で駐車場に着き、3分ほど歩きます。運転手さんのお話では、テレビで放映されたあと、人々が押し寄せて、列車が着くと、4,50人の列ができたそうです。やはり紅葉の時期を避けて正解でした。

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 旧閑谷学校は、江戸時代前期の寛文10年(1670)に岡山藩主池田光政によって創設された、現存する世界最古の庶民のための公立学校です。藩主の意を受けた家臣の津田永忠は、約30年をかけて現在とほぼ同じ外観を持つ学校を完成させました。旧閑谷学校の講堂は国宝に指定されています。

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 校門の屋根は備前焼の本瓦焼きです。

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 こちらは公門です。

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 聖廟は、儒学の祖である孔子を称える最も重要な施設で、中央のいちばん高いところに配されています。聖廟の前の2本の楷の木は中国山東省曲阜の孔林から持ち帰った種から育てた「学問の木」です。HPに載っていた見事な紅葉はみんな散り果てていました。

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 旧閑谷学校を代表する国宝の講堂。創建当時は茅葺でしたが、いまは備前焼瓦に葺き替えられています。

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 内部は10本の欅の丸柱で支えた内室と、その外側を囲む入側とで構成されています。

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 講堂に隣接している小斎は、藩主が来られたときに使用する御成の間です。屋根はこけら葺きで、現存する建物のなかでは最も古い姿を残しています。


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 小斎の向かいの公門です。藩主臨学の際に使用した門で御成門とも呼ばれます。       
本柱の後ろに控柱二本を建てて切妻屋根を乗せる薬医門様式の建物で、石塀が築かれた元禄14年(1701)の時点で設置されました。

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 習芸斎は教室として使われ、農民たちもここで学びました。

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 飲室は、教師と生徒たちが湯茶を飲んだ休憩室です。

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 飲室門は、通学生や毎月朔日の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門でした。

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 火除山は、西側にある校舎や寄宿舎から出火しても、火が講堂などに及ばないようにするために造られた人工の山です。

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 明治38年に学房跡に私立中学が建てられました。本館部分が資料館となって、旧閑谷学校の資料が展示されています。石油ストーブの匂いがする懐かしい建物でした。

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 学校全体を765mに及ぶ石塀が取り囲んでいます。300年を経ても、その姿は変わりません。市民バスが来るまで、少し時間があるので、閑谷川に沿って、少し足を延ばしました。

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 旧閑谷学校を完成させた津田永忠宅跡です。

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 さらに2分ほど川沿いの道を進むと、黄葉亭が建っています。文化10年(1813)に来客の接待や教職員・生徒の憩いの場として建てられたお茶室です。頼山陽も訪れたそうです。

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 10時34分の市民バスで吉永駅まで戻りました。朝、一緒に乗った男性とまた出会いました。西宮から来られたそうです。乗員・乗客合わせて3名。来たときと同じ顔触れです。

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 市民バスの運転手さんが教えてくださった備前市のもう一つの観光スポットは八塔寺で、吉永駅には旧閑谷学校と並んで八塔寺のパネルが立っていました。弓削道鏡が開いた八塔寺をはじめ、72のお寺がある、高野山と並ぶ宗教都市だったと聞くと、行ってみたくなりました、いまは13戸の茅葺屋根の民家と2寺院だけが残っているそうです。運転手さんは、「黒い雨」や「八つ墓村」など映画やテレビドラマのロケ地になったとご自慢でした。

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 すべての乗り物が定刻どおりで、快晴続きという運のいい旅の終わりは富士山で締めくくりました。来年も独り旅ができますように。

師走の吉備路・・・④倉敷

 倉敷駅から中央通りを数分歩くと、大橋家住宅→という表示があります。わかりやすいです。倉敷は50年以上前に来たことがありますが、まったくさま変わりしています。

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 ちょうどお昼どき、ランチはここと決めていた「鬼の厨 しんすけ」でいただきました。大橋家の門長屋の一部がお店になっています。評価が極端に分かれていて、恐る恐る入りましたが、とてもおいしくいただきました。接客も決して悪くありません。何しろ、隣が行きたかった大橋家住宅ですし。

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 松花堂弁当をいただきました。

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 倉敷では大原家と並ぶ豪商の大橋家は、江戸時代に倉敷に住むようになり、水田・塩田の開発と金融業で大きな財をなしました。実は我が家のお隣の奥様が倉敷の大橋家の出で、叔母様は日本女子大の学長をされていたと伺ったことがあります。奥様は数年前に亡くなられましたが、懐かしくて、受付の方に訪ねましたら、分家筋だとおっしゃいました。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/ohashike.html

 街道に面して長屋を建て、その内側に前庭を隔てて主屋を構えています。

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 前庭から長屋門を振り返ってみました。


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 前庭の奥に主屋があります。

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 なまこ壁の米蔵。

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 おざしき(下の間と上の間)を外から。

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 私の生家にもこれと全く同じシンガーミシンがありました。

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 しんざしき

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 どま

旧東大橋家住宅を倉敷市が改修して「倉敷物語館」として公開しています。南側の長屋門・塀、西側の路地がひときわ美しく、当時の景観が保たれています。建築年代は、江戸期とされ、長屋門、土蔵などが当時の風情を現代に伝えています。

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 このあたりから倉敷美観地区というちょっと気恥ずかしい名前の場所に入ります。

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やはり最後はここです。最後の力を振り絞って、本館、分館、工芸・東洋館を回りました。

 各館から1点すつ。

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 左側の大原家別邸(有隣荘)は春と秋の特別公開以外は入れません。

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 旧大原家住宅.。2018年3月末から内部も公開されるそうです。

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 帰りは商店街を通って駅まで戻りましたが、閉店セールをやっている店もちらほら。活気あふれる街にはなかなか出会えません。倉敷と岡山がこんなに近いなんて、知りませんでした。夕食は、駅ビルの洋風総菜屋さんで調達し、ワインの小瓶を買って、お部屋食です。

師走の吉備路・・・③総社

 今回、滅多にしないことをやりました。岡山県立美術館からバスで岡山駅に着いたとき、みどりの窓口で「駅から観タクン」の総社発「吉備路歴史満喫コース」のチケットを5500円で買っておいたのです。公共交通利用にこだわって旅をしていますが、総社市は路線バスもコミュニティバスも廃止されてしまって、どう考えてもタクシーを利用しないと行きたいところに行けそうにありません。

 コースは、総社駅→井山宝福寺→鬼ノ城→備中国分寺→造山古墳(車窓から)→総社駅で、2時間です。

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  ベテランの運転手さんの案内で最初に着いた宝福寺は、臨済宗東福寺派の寺院で、本山の京都東福寺と結びつきが強く、地方の中でも有力な禅宗寺院です。古くは天台宗の寺院でしたが、鎌倉時代の中ごろに県内ではいち早く臨済宗に改宗しました。盛時には塔頭・学院五十五、山外の末寺三百余を数えたと伝えられています。また、雪舟が修行した寺として有名です。

 建造物では三重塔が最も古く、解体修理の際、永和2年(1376)の墨書銘が発見されています。その他の建物は戦国時代の戦火で焼失したと考えられますが、歴代の住職の努力で復興され、禅宗様式の広がりをもつ重厚な構造となっています。

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 山門は、明治時代後半に建立されました。六本柱の楼門で十段の石段の上に、東に面して建っています。屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、上層は正面3間、側面2間とし、周囲に高欄付きの縁を廻らしています。

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 江戸時代後期に建立された禅宗様式の意匠が典型的に示された、方三間一重裳階付き仏殿です。寺域の中心に位置し、東に面して建っています。

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  江戸時代中期に建立された方丈です。絵に熱中しすぎた幼い雪舟が柱に縛られて、涙でネズミ描いたという伝説がありますが、当時の建物は火災で焼けてしまいました。

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 どうも最近できた像のようです。

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 白壁が美しい鐘楼につるされた梵鐘は、銘によると、応仁2年(1468)に、霊仙寺のために鋳造されたものですが、なぜ宝福寺に移ったかは明らかではありません。霊仙寺は備前国熊山霊仙寺ではないかと思いますが、いまは廃寺になっています。

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 室町時代中期の三重塔は、方三間の本瓦葺で、総高18.4メートルの和様を基本とした建築です。静かな境内の小高い場所に美しく佇んでいました。

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 観光タクシーは便利ですが、自力で苦労して行くのとは違って、距離感がわかりません。対向車が来ると、バックするしかない山道をかなり走って、「鬼ノ城」のビジターセンター前の駐車場に着きました。30分で戻らなければならないので、ほんの一端を見学しただけですが、この種の遺跡を訪ねるのは初めての経験です。

 今年の漢字は「北」だとか。国難という言葉が声高に語られていますが、ありったけの叡智で平和を守り抜いてほしいと強く願っています。日本の歴史を振り返ると、最初に対外的な危機意識を持ったのは663年の白村江の戦いではないでしょうか。朝鮮半島で、倭・百済の連合軍が唐・新羅の連合軍に敗れて、日本に攻め込んでくるのではないかと恐れた天智天皇の政権は、対抗策として、水城の建設や通信手段としての烽火などのほか、九州地方や瀬戸内地方を中心に西日本各地に山城を築かせました。「鬼ノ城」もその一つで、朝鮮式山城と分類される古代山城ではないかと考えられていますが、『日本書紀』など文献資料には全く出てきませんので、発掘調査の進んだいまも謎に包まれています。

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いただいたパンフレットによると、西門コースが、約1.5km、30分、一周コースは、4~4.5km、1時間半~2時間です。

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  西門までは遊歩道が整備されていて、車いすでも行けるようになっていました。

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 遥かに見える復元された角楼まで歩きました。

 

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 高石垣の遺構です。

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 城門は四カ所に構築されています。西門と南門が堅固でした。

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 復元された西門。

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 ビジターセンターに戻って、西門の復元模型などを見ていたら、もうお約束の時間です。

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 坂道を下って、タクシーは、備中国分寺跡に着きました。広い遺構の中に五重塔が建っている風景は嫌いな言葉の「インスタ映え」します。

 備中国分寺は、聖武天皇が天平13年(741)に仏教の力を借りて天災や飢饉から人々と国家を守ることを目的に建てられた官寺の一つです。その当時の境内は、東西160m、南北178mと推定されますが、江戸時代に再興された現在の備中国分寺があるため、 南門・中門以外の建物の位置は明らかではありません。しかし、創建当時の礎石が多く残されているので、わずかに当時が偲ばれます。

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 高さ34.32mの五重塔は、弘化元年(1844)に完成します。江戸時代後期の様式を残す塔としては代表的な建物です。

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 礎石は、仏像や石碑の台座として再活用されています。

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 ここは井戸跡です。

 最後に日本の古墳では第4位の規模を持つ造山古墳を車窓から見学しました。1位が伝仁徳陵、2位が伝応神陵、3位が伝履中陵で、すべて古市・百舌鳥古墳群に含まれますから、それに次ぐ大きな古墳の存在は、古代吉備の勢力がいかに強大であったかを示しています。

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 造山古墳は5世紀前半の前方後円墳で、全長約360m、後円部径約224m、高さ約27~32.5mです。昨日、訪ねた県立博物館で出土品のいくつかを見て、予備知識はありましたが、運転手さんのご厚意で周囲を一周していただいて、圧倒されました。

 1位から3位までの巨大古墳は、考古学的な年代観と文献上の系譜が合いません。たとえば履中天皇は仁徳天皇の皇子だとされていますが、考古学的には伝履中陵のほうが伝仁徳陵よりも古いという矛盾があります。

 総社駅まで送っていただいて、伯備線で倉敷に向かいました。

 

師走の吉備路・・・②吉備津神社

 2日目も晴天に恵まれました。8時10分発の総社行で15分、無人駅の吉備津に着きました。桃太郎線というローカル線には高校生がたくさん乗っていましたが、ほとんどが次の駅で降りてしまいました。線路沿いの道を300mほど行くと、この景色に出会います。ここで右折すると松並木の吉備津神社の参道です。隣の駅の近くに吉備津彦神社があって、祭神も同じなので紛らわしいのですが、文化財としての価値の高さから吉備津神社に絞りました。

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境内図

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 吉備中山の北西に位置する吉備津神社の参道の両側に県下最大の松並木が生育しています。

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 ここから吉備津神社の境内に入ります。

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  北随身門は、室町中期に再建されました。

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 吉備津神社は岡山市にある、大吉備津彦大神を主祭神とする山陽道屈指の大社です。 豪壮で優美な「吉備津造り(比翼入母屋造)」の本殿・拝殿は国宝に指定されています。2度の火災で焼失しますが、現在の本殿・拝殿は今から約600年前の室町時代、将軍足利義満の時代に約25年の歳月をかけて応永32年(1425)に再建されました。それ以来、解体修理も行われず、雄大な姿を現代に伝えています。

 祭神の吉備津彦は、『日本書紀』によると崇神天皇が諸国平定のために派遣した四道将軍の一人となっています。北陸へ大彦命、東海へ武渟川別、西海へ吉備津彦、丹波へ丹波道主命を派遣したという記述を史実とするのは無理で、吉備津彦は、その名からしても吉備の代表的王者の可能性が濃厚です。

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 拝殿の右側から天正7年(1679)に再建された全長360mの廻廊が地形に沿って続いています。

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 石段を登っていくと「えびす宮」だと思うのですが、記憶がさだかではありません。

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 廻廊の中ほど右側の御竈殿は、吉備津彦に退治された「温羅」を祀っていると伝えられ、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事は、上田秋成の『雨月物語』でも紹介されています。「温羅」は、鬼だとも百済の王子で鉄をもたらしたとも言われていますが、桃太郎伝説ともつながる人物です。

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 廻廊を引き返し、急な石段を下り、北随身門を出て、お参りは終わりです。

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 この鳥居は、昭和10年にいまの天皇が誕生されたのを記念して建てられました。

 参道を歩いていると、左に行くと栄西禅師生誕の地だという表示がありました。帰ってから調べてみると、日本における臨済宗の開祖の栄西は吉備津神社の神官の子だったそうです。来年は京都の建仁寺にも行ってみたいと思います。

師走の吉備路・・・①岡山市

  12月でも瀬戸内地方なら大丈夫かなとプランを立てました。昨年、姫路と琴平の中継地として1泊した岡山のホテルで今回は2泊。レディースプランと銘打って、最上階にカードキーがないと入れない一角があります。駅中のホテルでアクセスも抜群です。いつものように10時10分品川発のひかりに乗って、14時過ぎに岡山に着きました。荷物を預けて、バスで向かったのは、岡山後楽園です。後楽園バスは、県立美術館に寄るだけで、10分で直行します。車内では、観光スポットの映像が流れ、パンフレット類も備えられて140円ですから、お勧めです。

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 岡山後楽園は、とても広くて、あっけらかんとした感じ。私の好みとは少し違いますが、さすがはシーズンオフ、空いていました。広い芝生や池、お茶室が園路や水路で結ばれた回遊式庭園です。岡山藩主池田綱政が家臣の津田永忠に命じ貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)にはほぼ完成します。その後も藩主の好みで手が加えられますが、江戸時代の姿を大きく変えることはありませんでした。昭和20年の戦災で大きな被害を受けますが、江戸時代の絵図に基づき復旧されました。津田永忠という方は、最終日に訪ねた閑谷学校の建設にも力を注いでいます。

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 右回りに一周しました。


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 井田は、かつて園内に広がっていた田畑の名残です。

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 茶畑の奥に茶店がありました。

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 池田綱政が藩内の平安と池田家の安泰を願って建立した慈眼堂(観音堂)です。

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 後楽園の向かいに岡山県立博物館があります。まず特別展「宇喜多秀家と小早川秀秋ー豊臣秀吉チルドレン」を見せていただき、関ヶ原の合戦を挟んで岡山城主となった二人の武将について、改めて考えるいい機会を持てました。宇喜多秀家は1572年生まれ、小早川秀秋は1582年生まれですから、10歳の差があります。先に岡山城主になった宇喜多秀家は西軍についたため、八丈島に流され、流刑先で84年の生涯を閉じました。秀吉の正室の甥の小早川秀秋は、東軍に寝返った功績を買われて岡山城主になりますが、1602年に21歳で急死します。祟りだというのは俗説で、アルコール依存症による肝硬変説が正しいようです。

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  どうやら来館者は私だけのようで、岡山県の歴史遺産をゆっくり拝見しました。

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  さすがは地元、備前焼の展示は、内容も豊富ですし、説明も懇切でした。

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次の日に行った吉備津神社は、国宝・重要文化財がたくさんありましたが、吉備津彦神社蔵の唯一の重要文化財が展示されていました。吉備地方は出雲地方と並ぶ砂鉄の産地で、長船の名刀は広く知られています。

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 そのあと旭川に架かる鶴見橋を渡って、県立美術館に向かいました。ここもほぼ貸切状態です。

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 「岡山県ゆかり」がキーワード。特別展は「第七回 I氏賞受賞作家展」です。高松明日香氏の作品展を地元のギャラリーでやっていたときは行けず、ここで出会うとは何かのご縁かもしれません。ブルーを基調にした世界が好きでした。原彰子氏のアニメーションはいささか理解不能ながら、座り込めたのが嬉しくて見せていただきました。

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 常設展示では浦上玉堂のコレクションが充実しています。吉備中央町に遺されていた重森三玲デザインの書院が復元されていました。和モダンの世界です。

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 もうへとへとになって、美術館前から後楽園バスで駅中ホテルに戻りました。

エミリ・ディキンスン

 ykさまがブログ「緑の風」で詳しく紹介してくださった映画「静かなる情熱ーエミリ・ディキンスン」を下高井戸シネマで見てきました。130年前に亡くなったアメリカの女流詩人の生涯が彼女が作った詩の朗読を交えて描かれています。生前に発表された詩は10篇のみで、1800篇近い詩は没後に発見されました。悲しいことに、語学が大の苦手な者にとっては、外国語の詩は難解すぎます。とくにコンマやピリオドを変えられることさえ許せなかったエミリの詩の日本語訳は至難の業ではないかと思って、詩そのものへのアプローチは諦めてしまいました。

 それよりも興味があったのは、南北戦争前後のアーマストを取り巻く時代背景や、後半生は家に閉じこもっていたエミリ(1830-1886)の人間関係です。女子神学校で信仰告白ができずに学業を放棄して家に戻る途中で家族でコンサートに行ったりもしていますが、そこで歌われていたのがベッリーニの『夢遊病の娘』の2幕のアリアだったのは、ちょっと驚きでした。たまたま図書館にあった『エミリ・ディキンスンーアメジストの記憶』は、そういう私の好奇心を満たしてくださいました。裕福な名家に生まれ、パンを焼く以外の家事はやった形跡もなく、羨ましい境遇です。父母や兄とその妻、いつもそばにいる妹など、家族の愛にも恵まれています。

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 ところが、ピューリタニズムの中心地であったアーマストの模範的な家庭のはずのディキンスン家に大きな波紋を投げかける女性が登場します。それがアーマスト大学の天文学の教授夫人で才気煥発の美しい女性、メイベル・ルーミス・トッド(1856-1932)です。

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 メイベルはエミリの兄と恋愛関係を続けたことは映画の中でも触れられていて、敬虔なクリスチャンの家庭でも避けられないことなのだと思わされましたが、エミリの詩を世に出すために大いに貢献しますし、大西氏の著書によると、天文学者の夫とともに皆既日食の観測のために2度も訪日しています。一度目は、1887年福島県の白河、二度目は1998年北海道の枝幸ですが、どちらも天候悪化で観測は不成功に終わりました。それでも一度目は帰りに富士登山を行い、箱根の富士屋ホテルに泊まっています。二度目の来日の際は、岐阜、京都、奈良を訪ねたあと、北海道に渡り、アイヌや明治三陸地震の記録とともに、振袖を着て、和傘を差した写真も残しています。

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 また、1890年にメイベルが描いたインディアン・パイプという花の絵をあしらった詩集を、のちに文壇の大御所となるトーマス・ウェントワース・ヒギンスンとの共著のかたちで出版し、大きな反響を呼びました。

 エミリが書いて、出さずに残った手紙の中に「マスター」という呼びかけで始まる「マスターレター」が3通あります。独身のまま生涯を終えたエミリが天上での結婚を誓った相手が誰かというのは、要らないお節介かもしれませんが、意外な人物の名まで出てきますので、少し触れておきます。それは日本でも非常に有名なウィリアム・スミス・クラークです。南北戦争当時アーマスト大学の化学の教授だったクラークは、学生に戦闘への参加を強烈に訴え、北軍の大佐として、南軍に挑んでいます。その後、1876年に札幌農学校の教師として8か月滞在し、帰国する際、多数の樹木の種を持ち帰りました。いまアーマストの町で300~400本の大木となり、エミリが住んだ家の庭に育つ桜もその一本だそうです。映画にエミリの焼いたパンが農産物品評会で2等賞を得たというエピソードが語られていました。そのときの審査委員長がクラークだったのですが、大西氏は、クラークがエミリの「マスター」であった可能性は極めて低いと言われています。

 詩的でない話題ばかりで申し訳ありません。

松坂の二夜・・・④商人の館

  最終日の11月23日は、目覚めたときはかなりの雨でしたが、8時ごろから晴れてきました。なんだかついています。9時すぎの100円で乗れる「鈴の音」バスで「鈴プラザ」で降りると、進行方向に懐かしい三越前のライオンと休憩所が見えてきます。このあたりが三井家発祥の地です。

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 三井i家の祖である三井高利の祖父・三井高安は、近江の六角氏に仕えていましたが、六角氏が織田信長の軍に敗れて逃亡すると、高安も逃れて伊勢の地に辿りつきます。それから20年後の天正16年(1588)に松阪城を築いた蒲生氏郷は、商業の発展に特に力を注ぎ、郷里の近江から有力商人を呼び寄せました。また伊勢神宮への街道を引き込み、宿場町としても活性化を図ったので、松阪では武士から商人へと転身したものも多く現れました。

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 三井高利の生家があった場所ですが、非公開。当時の建物は残っておらず、門も大正時代の築造です。この通りが「参宮街道」で、かつては商家が軒を連ねていました。。

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 阪内川の方向に少し足を運ぶと、「松阪商人の館(旧小津清左衛門家住宅)」が公開されています。朝いちばんの訪問者だったせいか、大歓迎で懇切丁寧な説明をしていただきました。小津家は伊勢北畠氏の一族に仕えた三好氏を先祖としています。紙屋を営み、承応2年(1653)に江戸大伝馬町に「小津屋」を開業しますが、「江戸店持ち」の豪商の中でも三井家やあとで訪ねる長谷川家とならぶ筆頭格でした。

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 入口付近に千両箱ならぬ万両箱がドーンと置かれています。

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 大きなかまどで炊いたご飯でおにぎりを作って、伊勢神宮にお参りする旅人に振舞ったそうです。

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 本居宣長旧宅にもありましたが、バリアフリー度は最低の階段。奥の座敷で可愛い子どもたちが茶道のお稽古に励んでいました。

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 内蔵
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 大蔵跡

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 阪内川に出て、川沿いに最初の角を右折すると、旧魚町です。

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 松阪牛の老舗で有名な「牛銀」は素通り。

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 昨日、見学した本居宣長旧宅は、もとはここにありました。

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 礎石が残っています。息子の春庭が住んだ家や奥の土蔵は往時のままです。

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 この松も移植すると枯れるかもしれないというので、残されたそうです。

 向かいが「旧長谷川邸」です。旅は平日にという大原則を破ったのは、ここが土・日・祝しか公開されないからです。午前10時の開館と同時に入ると、広い邸内に松阪木綿の法被を着た観光協会の方が何人も待ち構えていて、またも懇切丁寧に説明してくださいました。帰り道で10グループほどとすれ違いましたから、早く行った方がいいと思います。 

 魚町一丁目の「丹波屋」を屋号とする松阪屈指の豪商だった長谷川家は、数多い江戸店持ち伊勢商人の中でも、いち早く江戸に進出して成功をおさめました。1675年、3代治郎兵衛政幸を創業の祖とし、後には江戸の大伝馬町一丁目に5軒の出店を構える木綿商となります。広重作の「東都大伝馬街繁栄之図」には、長谷川家の江戸店が描かれており、その繁栄ぶりがうかがえます。

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 左端に家紋の入った暖簾と「はせ川」の暖簾が掛かっています。

 長谷川家の広大な屋敷構えは、その長い歴史の中で隣接地の買収と増築を繰り返して形成されたもので、近世から近代にかけて商家建築の変遷をたどることができます。

 正面外観は二階建てで、袖壁の上に立派な本うだつが上がっています。左手に表蔵を見ながら玄関をくぐると、奥に向かって通り土間が続き、奥に土蔵がさらに4棟、最も古い大蔵、左に米蔵、大蔵の右手に新蔵と西蔵が並んでいます。

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 土間にぶら下がっている駕籠は家格の高さを示しているとガイドさんが力説しておられました。

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 大蔵にも案内役がおられて、いかに富んでいたか、縷々お話しいただきました。

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蔵の中で展示されている大判・小判は、長谷川邸が松阪市に寄贈されたのちに見つかりますが、ご子孫は「動産も含めて寄贈したから、市で活用してください」という鷹揚な対応だったそうです。大判一枚で300万円ぐらいだと言われていました。

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 この部分は「大正座敷」と呼ばれる邸内でも新しいお部屋です。

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 織部灯篭の一番下に「マリア観音」らしき浮彫がありますが、制作年代など詳しいことはわかりませんでした。古田織部も蒲生氏郷はキリシタン大名ですから、可能性はありそうですが・・・。

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 土蔵の裏手には、町境でもある背割排水が流れ、その奥には池を中心とした回遊式庭園が広がっています。ここは、以前、紀州藩勢州奉行所があった地で、明治初年に長谷川家が購入し、庭園の他に離れや茶室、四阿などをつくりました。庭園を案内してくださった方は、今年は紅葉する前に散ってしまった、と嘆いておられましたが、いえいえ見事でしたよ。

 長谷川家には建物群のみならず、創業以来大切に保管されてきた商業資料、古文書、蔵書類及び商業関係の諸道具、生活用具など、膨大な資料が良好な状態で保存されており、伊勢商人の繁栄のあかしを伝える貴重な文化遺産なとして平成28年7月25日、国の重要文化財(建造物)に指定されました。ガイドさんが見せてくださった家訓には、雇人は家族と同様に遇せよなど、長く続いた商家jならではの伝統を感じました。、

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 最後に「松阪もめん手織りセンター」でささやかなお土産を買って、旅は終わりです。帰りの特急「みえ」は満席でしたから、指定席を買って正解でした。今回もいい出会いに恵まれて、心の宝が増えました。

 あちこちで「伊勢神宮に行ったか」と聞かれて、面倒くさくなりましたが、なぜか行こうとは思わない偏屈な私です。

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