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師走の吉備路・・・③総社

 今回、滅多にしないことをやりました。岡山県立美術館からバスで岡山駅に着いたとき、みどりの窓口で「駅から観タクン」の総社発「吉備路歴史満喫コース」のチケットを5500円で買っておいたのです。公共交通利用にこだわって旅をしていますが、総社市は路線バスもコミュニティバスも廃止されてしまって、どう考えてもタクシーを利用しないと行きたいところに行けそうにありません。

 コースは、総社駅→井山宝福寺→鬼ノ城→備中国分寺→造山古墳(車窓から)→総社駅で、2時間です。

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  ベテランの運転手さんの案内で最初に着いた宝福寺は、臨済宗東福寺派の寺院で、本山の京都東福寺と結びつきが強く、地方の中でも有力な禅宗寺院です。古くは天台宗の寺院でしたが、鎌倉時代の中ごろに県内ではいち早く臨済宗に改宗しました。盛時には塔頭・学院五十五、山外の末寺三百余を数えたと伝えられています。また、雪舟が修行した寺として有名です。

 建造物では三重塔が最も古く、解体修理の際、永和2年(1376)の墨書銘が発見されています。その他の建物は戦国時代の戦火で焼失したと考えられますが、歴代の住職の努力で復興され、禅宗様式の広がりをもつ重厚な構造となっています。

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 山門は、明治時代後半に建立されました。六本柱の楼門で十段の石段の上に、東に面して建っています。屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、上層は正面3間、側面2間とし、周囲に高欄付きの縁を廻らしています。

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 江戸時代後期に建立された禅宗様式の意匠が典型的に示された、方三間一重裳階付き仏殿です。寺域の中心に位置し、東に面して建っています。

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  江戸時代中期に建立された方丈です。絵に熱中しすぎた幼い雪舟が柱に縛られて、涙でネズミ描いたという伝説がありますが、当時の建物は火災で焼けてしまいました。

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 どうも最近できた像のようです。

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 白壁が美しい鐘楼につるされた梵鐘は、銘によると、応仁2年(1468)に、霊仙寺のために鋳造されたものですが、なぜ宝福寺に移ったかは明らかではありません。霊仙寺は備前国熊山霊仙寺ではないかと思いますが、いまは廃寺になっています。

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 室町時代中期の三重塔は、方三間の本瓦葺で、総高18.4メートルの和様を基本とした建築です。静かな境内の小高い場所に美しく佇んでいました。

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 観光タクシーは便利ですが、自力で苦労して行くのとは違って、距離感がわかりません。対向車が来ると、バックするしかない山道をかなり走って、「鬼ノ城」のビジターセンター前の駐車場に着きました。30分で戻らなければならないので、ほんの一端を見学しただけですが、この種の遺跡を訪ねるのは初めての経験です。

 今年の漢字は「北」だとか。国難という言葉が声高に語られていますが、ありったけの叡智で平和を守り抜いてほしいと強く願っています。日本の歴史を振り返ると、最初に対外的な危機意識を持ったのは663年の白村江の戦いではないでしょうか。朝鮮半島で、倭・百済の連合軍が唐・新羅の連合軍に敗れて、日本に攻め込んでくるのではないかと恐れた天智天皇の政権は、対抗策として、水城の建設や通信手段としての烽火などのほか、九州地方や瀬戸内地方を中心に西日本各地に山城を築かせました。「鬼ノ城」もその一つで、朝鮮式山城と分類される古代山城ではないかと考えられていますが、『日本書紀』など文献資料には全く出てきませんので、発掘調査の進んだいまも謎に包まれています。

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いただいたパンフレットによると、西門コースが、約1.5km、30分、一周コースは、4~4.5km、1時間半~2時間です。

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  西門までは遊歩道が整備されていて、車いすでも行けるようになっていました。

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 遥かに見える復元された角楼まで歩きました。

 

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 高石垣の遺構です。

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 城門は四カ所に構築されています。西門と南門が堅固でした。

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 復元された西門。

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 ビジターセンターに戻って、西門の復元模型などを見ていたら、もうお約束の時間です。

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 坂道を下って、タクシーは、備中国分寺跡に着きました。広い遺構の中に五重塔が建っている風景は嫌いな言葉の「インスタ映え」します。

 備中国分寺は、聖武天皇が天平13年(741)に仏教の力を借りて天災や飢饉から人々と国家を守ることを目的に建てられた官寺の一つです。その当時の境内は、東西160m、南北178mと推定されますが、江戸時代に再興された現在の備中国分寺があるため、 南門・中門以外の建物の位置は明らかではありません。しかし、創建当時の礎石が多く残されているので、わずかに当時が偲ばれます。

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 高さ34.32mの五重塔は、弘化元年(1844)に完成します。江戸時代後期の様式を残す塔としては代表的な建物です。

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 礎石は、仏像や石碑の台座として再活用されています。

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 ここは井戸跡です。

 最後に日本の古墳では第4位の規模を持つ造山古墳を車窓から見学しました。1位が伝仁徳陵、2位が伝応神陵、3位が伝履中陵で、すべて古市・百舌鳥古墳群に含まれますから、それに次ぐ大きな古墳の存在は、古代吉備の勢力がいかに強大であったかを示しています。

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 造山古墳は5世紀前半の前方後円墳で、全長約360m、後円部径約224m、高さ約27~32.5mです。昨日、訪ねた県立博物館で出土品のいくつかを見て、予備知識はありましたが、運転手さんのご厚意で周囲を一周していただいて、圧倒されました。

 1位から3位までの巨大古墳は、考古学的な年代観と文献上の系譜が合いません。たとえば履中天皇は仁徳天皇の皇子だとされていますが、考古学的には伝履中陵のほうが伝仁徳陵よりも古いという矛盾があります。

 総社駅まで送っていただいて、伯備線で倉敷に向かいました。

 

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