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師走の吉備路・・・⑤旧閑谷学校

 最終日、ホテルに荷物を預けて8:09発の山陽本線・相生行きに乗車。今日も登校する高校生で満員でしたが、途中駅でどんどん下車してまもなくガラガラ状態になりました。40分で吉永駅です。隣の和気駅付近で、和気清麻呂の大きな像が田園の中にすっくと立っておられました。

 吉備路に行こうと思い立ったのは、10月ごろに「美の巨人たち」というテレビ番組で閑谷学校が取り上げられているのを見たのが始まりです。何度も申しておりますように、私の旅は認知症予防ですから、少しでも興味がわけば、ほいほいと行ってしまう節操のない有様です。

 無人駅の駅前にポツンとバス停があります。近寄ると、9名の定員を超えた場合は、次のバスか、タクシーを利用してくださいと書いたピンクの紙が貼ってあります。次と言っても、1時間後なんですけど・・・。

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 事情はバスに乗ってみてわかりました。車体は10人乗りのハイエースで、乗り心地は抜群。各地のシティバスに乗っていますが、こういう車は初めてです。幸いにも乗客は2名。8分で駐車場に着き、3分ほど歩きます。運転手さんのお話では、テレビで放映されたあと、人々が押し寄せて、列車が着くと、4,50人の列ができたそうです。やはり紅葉の時期を避けて正解でした。

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 旧閑谷学校は、江戸時代前期の寛文10年(1670)に岡山藩主池田光政によって創設された、現存する世界最古の庶民のための公立学校です。藩主の意を受けた家臣の津田永忠は、約30年をかけて現在とほぼ同じ外観を持つ学校を完成させました。旧閑谷学校の講堂は国宝に指定されています。

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 校門の屋根は備前焼の本瓦焼きです。

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 こちらは公門です。

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 聖廟は、儒学の祖である孔子を称える最も重要な施設で、中央のいちばん高いところに配されています。聖廟の前の2本の楷の木は中国山東省曲阜の孔林から持ち帰った種から育てた「学問の木」です。HPに載っていた見事な紅葉はみんな散り果てていました。

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 旧閑谷学校を代表する国宝の講堂。創建当時は茅葺でしたが、いまは備前焼瓦に葺き替えられています。

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 内部は10本の欅の丸柱で支えた内室と、その外側を囲む入側とで構成されています。

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 講堂に隣接している小斎は、藩主が来られたときに使用する御成の間です。屋根はこけら葺きで、現存する建物のなかでは最も古い姿を残しています。


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 小斎の向かいの公門です。藩主臨学の際に使用した門で御成門とも呼ばれます。       
本柱の後ろに控柱二本を建てて切妻屋根を乗せる薬医門様式の建物で、石塀が築かれた元禄14年(1701)の時点で設置されました。

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 習芸斎は教室として使われ、農民たちもここで学びました。

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 飲室は、教師と生徒たちが湯茶を飲んだ休憩室です。

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 飲室門は、通学生や毎月朔日の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門でした。

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 火除山は、西側にある校舎や寄宿舎から出火しても、火が講堂などに及ばないようにするために造られた人工の山です。

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 明治38年に学房跡に私立中学が建てられました。本館部分が資料館となって、旧閑谷学校の資料が展示されています。石油ストーブの匂いがする懐かしい建物でした。

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 学校全体を765mに及ぶ石塀が取り囲んでいます。300年を経ても、その姿は変わりません。市民バスが来るまで、少し時間があるので、閑谷川に沿って、少し足を延ばしました。

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 旧閑谷学校を完成させた津田永忠宅跡です。

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 さらに2分ほど川沿いの道を進むと、黄葉亭が建っています。文化10年(1813)に来客の接待や教職員・生徒の憩いの場として建てられたお茶室です。頼山陽も訪れたそうです。

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 10時34分の市民バスで吉永駅まで戻りました。朝、一緒に乗った男性とまた出会いました。西宮から来られたそうです。乗員・乗客合わせて3名。来たときと同じ顔触れです。

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 市民バスの運転手さんが教えてくださった備前市のもう一つの観光スポットは八塔寺で、吉永駅には旧閑谷学校と並んで八塔寺のパネルが立っていました。弓削道鏡が開いた八塔寺をはじめ、72のお寺がある、高野山と並ぶ宗教都市だったと聞くと、行ってみたくなりました、いまは13戸の茅葺屋根の民家と2寺院だけが残っているそうです。運転手さんは、「黒い雨」や「八つ墓村」など映画やテレビドラマのロケ地になったとご自慢でした。

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 すべての乗り物が定刻どおりで、快晴続きという運のいい旅の終わりは富士山で締めくくりました。来年も独り旅ができますように。

この山の西側に学舎や学房(寄宿舎)などがあり、そこからの出火が講堂などに及ばないようにするため、防火の目的でつくられた人工の山である。

師走の吉備路・・・④倉敷

 倉敷駅から中央通りを数分歩くと、大橋家住宅→という表示があります。わかりやすいです。倉敷は50年以上前に来たことがありますが、まったくさま変わりしています。

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 ちょうどお昼どき、ランチはここと決めていた「鬼の厨 しんすけ」でいただきました。大橋家の門長屋の一部がお店になっています。評価が極端に分かれていて、恐る恐る入りましたが、とてもおいしくいただきました。接客も決して悪くありません。何しろ、隣が行きたかった大橋家住宅ですし。

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 松花堂弁当をいただきました。

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 倉敷では大原家と並ぶ豪商の大橋家は、江戸時代に倉敷に住むようになり、水田・塩田の開発と金融業で大きな財をなしました。実は我が家のお隣の奥様が倉敷の大橋家の出で、叔母様は日本女子大の学長をされていたと伺ったことがあります。奥様は数年前に亡くなられましたが、懐かしくて、受付の方に訪ねましたら、分家筋だとおっしゃいました。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/ohashike.html

 街道に面して長屋を建て、その内側に前庭を隔てて主屋を構えています。

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 前庭から長屋門を振り返ってみました。


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 前庭の奥に主屋があります。

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 なまこ壁の米蔵。

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 おざしき(下の間と上の間)を外から。

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 私の生家にもこれと全く同じシンガーミシンがありました。

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旧東大橋家住宅を倉敷市が改修して「倉敷物語館」として公開しています。南側の長屋門・塀、西側の路地がひときわ美しく、当時の景観が保たれています。建築年代は、江戸期とされ、長屋門、土蔵などが当時の風情を現代に伝えています。

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 このあたりから倉敷美観地区というちょっと気恥ずかしい名前の場所に入ります。

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やはり最後はここです。最後の力を振り絞って、本館、分館、工芸・東洋館を回りました。

 各館から1点すつ。

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 左側の大原家別邸(有隣荘)は春と秋の特別公開以外は入れません。

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 旧大原家住宅.。2018年3月末から内部も公開されるそうです。

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 帰りは商店街を通って駅まで戻りましたが、閉店セールをやっている店もちらほら。活気あふれる街にはなかなか出会えません。倉敷と岡山がこんなに近いなんて、知りませんでした。夕食は、駅ビルの洋風総菜屋さんで調達し、ワインの小瓶を買って、お部屋食です。

師走の吉備路・・・③総社

 今回、滅多にしないことをやりました。岡山県立美術館からバスで岡山駅に着いたとき、みどりの窓口で「駅から観タクン」の総社発「吉備路歴史満喫コース」のチケットを5500円で買っておいたのです。公共交通利用にこだわって旅をしていますが、総社市は路線バスもコミュニティバスも廃止されてしまって、どう考えてもタクシーを利用しないと行きたいところに行けそうにありません。

 コースは、総社駅→井山宝福寺→鬼ノ城→備中国分寺→造山古墳(車窓から)→総社駅で、2時間です。

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  ベテランの運転手さんの案内で最初に着いた宝福寺は、臨済宗東福寺派の寺院で、本山の京都東福寺と結びつきが強く、地方の中でも有力な禅宗寺院です。古くは天台宗の寺院でしたが、鎌倉時代の中ごろに県内ではいち早く臨済宗に改宗しました。盛時には塔頭・学院五十五、山外の末寺三百余を数えたと伝えられています。また、雪舟が修行した寺として有名です。

 建造物では三重塔が最も古く、解体修理の際、永和2年(1376)の墨書銘が発見されています。その他の建物は戦国時代の戦火で焼失したと考えられますが、歴代の住職の努力で復興され、禅宗様式の広がりをもつ重厚な構造となっています。

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 山門は、明治時代後半に建立されました。六本柱の楼門で十段の石段の上に、東に面して建っています。屋根は入母屋造りの桟瓦葺で、上層は正面3間、側面2間とし、周囲に高欄付きの縁を廻らしています。

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 江戸時代後期に建立された禅宗様式の意匠が典型的に示された、方三間一重裳階付き仏殿です。寺域の中心に位置し、東に面して建っています。

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  江戸時代中期に建立された方丈です。絵に熱中しすぎた幼い雪舟が柱に縛られて、涙でネズミ描いたという伝説がありますが、当時の建物は火災で焼けてしまいました。

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 どうも最近できた像のようです。

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 白壁が美しい鐘楼につるされた梵鐘は、銘によると、応仁2年(1468)に、霊仙寺のために鋳造されたものですが、なぜ宝福寺に移ったかは明らかではありません。霊仙寺は備前国熊山霊仙寺ではないかと思いますが、いまは廃寺になっています。

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 室町時代中期の三重塔は、方三間の本瓦葺で、総高18.4メートルの和様を基本とした建築です。静かな境内の小高い場所に美しく佇んでいました。

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 観光タクシーは便利ですが、自力で苦労して行くのとは違って、距離感がわかりません。対向車が来ると、バックするしかない山道をかなり走って、「鬼ノ城」のビジターセンター前の駐車場に着きました。30分で戻らなければならないので、ほんの一端を見学しただけですが、この種の遺跡を訪ねるのは初めての経験です。

 今年の漢字は「北」だとか。国難という言葉が声高に語られていますが、ありったけの叡智で平和を守り抜いてほしいと強く願っています。日本の歴史を振り返ると、最初に対外的な危機意識を持ったのは663年の白村江の戦いではないでしょうか。朝鮮半島で、倭・百済の連合軍が唐・新羅の連合軍に敗れて、日本に攻め込んでくるのではないかと恐れた天智天皇の政権は、対抗策として、水城の建設や通信手段としての烽火などのほか、九州地方や瀬戸内地方を中心に西日本各地に山城を築かせました。「鬼ノ城」もその一つで、朝鮮式山城と分類される古代山城ではないかと考えられていますが、『日本書紀』など文献資料には全く出てきませんので、発掘調査の進んだいまも謎に包まれています。

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いただいたパンフレットによると、西門コースが、約1.5km、30分、一周コースは、4~4.5km、1時間半~2時間です。

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  西門までは遊歩道が整備されていて、車いすでも行けるようになっていました。

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 遥かに見える復元された角楼まで歩きました。

 

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 高石垣の遺構です。

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 城門は四カ所に構築されています。西門と南門が堅固でした。

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 復元された西門。

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 ビジターセンターに戻って、西門の復元模型などを見ていたら、もうお約束の時間です。

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 坂道を下って、タクシーは、備中国分寺跡に着きました。広い遺構の中に五重塔が建っている風景は嫌いな言葉の「インスタ映え」します。

 備中国分寺は、聖武天皇が天平13年(741)に仏教の力を借りて天災や飢饉から人々と国家を守ることを目的に建てられた官寺の一つです。その当時の境内は、東西160m、南北178mと推定されますが、江戸時代に再興された現在の備中国分寺があるため、 南門・中門以外の建物の位置は明らかではありません。しかし、創建当時の礎石が多く残されているので、わずかに当時が偲ばれます。

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 高さ34.32mの五重塔は、弘化元年(1844)に完成します。江戸時代後期の様式を残す塔としては代表的な建物です。

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 礎石は、仏像や石碑の台座として再活用されています。

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 ここは井戸跡です。

 最後に日本の古墳では第4位の規模を持つ造山古墳を車窓から見学しました。1位が伝仁徳陵、2位が伝応神陵、3位が伝履中陵で、すべて古市・百舌鳥古墳群に含まれますから、それに次ぐ大きな古墳の存在は、古代吉備の勢力がいかに強大であったかを示しています。

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 造山古墳は5世紀前半の前方後円墳で、全長約360m、後円部径約224m、高さ約27~32.5mです。昨日、訪ねた県立博物館で出土品のいくつかを見て、予備知識はありましたが、運転手さんのご厚意で周囲を一周していただいて、圧倒されました。

 1位から3位までの巨大古墳は、考古学的な年代観と文献上の系譜が合いません。たとえば履中天皇は仁徳天皇の皇子だとされていますが、考古学的には伝履中陵のほうが伝仁徳陵よりも古いという矛盾があります。

 総社駅まで送っていただいて、伯備線で倉敷に向かいました。

 

師走の吉備路・・・②吉備津神社

 2日目も晴天に恵まれました。8時10分発の総社行で15分、無人駅の吉備津に着きました。桃太郎線というローカル線には高校生がたくさん乗っていましたが、ほとんどが次の駅で降りてしまいました。線路沿いの道を300mほど行くと、この景色に出会います。ここで右折すると松並木の吉備津神社の参道です。隣の駅の近くに吉備津彦神社があって、祭神も同じなので紛らわしいのですが、文化財としての価値の高さから吉備津神社に絞りました。

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境内図

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 吉備中山の北西に位置する吉備津神社の参道の両側に県下最大の松並木が生育しています。

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 ここから吉備津神社の境内に入ります。

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  北随身門は、室町中期に再建されました。

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 吉備津神社は岡山市にある、大吉備津彦大神を主祭神とする山陽道屈指の大社です。 豪壮で優美な「吉備津造り(比翼入母屋造)」の本殿・拝殿は国宝に指定されています。2度の火災で焼失しますが、現在の本殿・拝殿は今から約600年前の室町時代、将軍足利義満の時代に約25年の歳月をかけて応永32年(1425)に再建されました。それ以来、解体修理も行われず、雄大な姿を現代に伝えています。

 祭神の吉備津彦は、『日本書紀』によると崇神天皇が諸国平定のために派遣した四道将軍の一人となっています。北陸へ大彦命、東海へ武渟川別、西海へ吉備津彦、丹波へ丹波道主命を派遣したという記述を史実とするのは無理で、吉備津彦は、その名からしても吉備の代表的王者の可能性が濃厚です。

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 拝殿の右側から天正7年(1679)に再建された全長360mの廻廊が地形に沿って続いています。

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 石段を登っていくと「えびす宮」だと思うのですが、記憶がさだかではありません。

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 廻廊の中ほど右側の御竈殿は、吉備津彦に退治された「温羅」を祀っていると伝えられ、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事は、上田秋成の『雨月物語』でも紹介されています。「温羅」は、鬼だとも百済の王子で鉄をもたらしたとも言われていますが、桃太郎伝説ともつながる人物です。

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 廻廊を引き返し、急な石段を下り、北随身門を出て、お参りは終わりです。

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 この鳥居は、昭和10年にいまの天皇が誕生されたのを記念して建てられました。

 参道を歩いていると、左に行くと栄西禅師生誕の地だという表示がありました。帰ってから調べてみると、日本における臨済宗の開祖の栄西は吉備津神社の神官の子だったそうです。来年は京都の建仁寺にも行ってみたいと思います。

師走の吉備路・・・①岡山市

  12月でも瀬戸内地方なら大丈夫かなとプランを立てました。昨年、姫路と琴平の中継地として1泊した岡山のホテルで今回は2泊。レディースプランと銘打って、最上階にカードキーがないと入れない一角があります。駅中のホテルでアクセスも抜群です。いつものように10時10分品川発のひかりに乗って、14時過ぎに岡山に着きました。荷物を預けて、バスで向かったのは、岡山後楽園です。後楽園バスは、県立美術館に寄るだけで、10分で直行します。車内では、観光スポットの映像が流れ、パンフレット類も備えられて140円ですから、お勧めです。

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 岡山後楽園は、とても広くて、あっけらかんとした感じ。私の好みとは少し違いますが、さすがはシーズンオフ、空いていました。広い芝生や池、お茶室が園路や水路で結ばれた回遊式庭園です。岡山藩主池田綱政が家臣の津田永忠に命じ貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)にはほぼ完成します。その後も藩主の好みで手が加えられますが、江戸時代の姿を大きく変えることはありませんでした。昭和20年の戦災で大きな被害を受けますが、江戸時代の絵図に基づき復旧されました。津田永忠という方は、最終日に訪ねた閑谷学校の建設にも力を注いでいます。

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 右回りに一周しました。


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 井田は、かつて園内に広がっていた田畑の名残です。

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 茶畑の奥に茶店がありました。

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 池田綱政が藩内の平安と池田家の安泰を願って建立した慈眼堂(観音堂)です。

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 後楽園の向かいに岡山県立博物館があります。まず特別展「宇喜多秀家と小早川秀秋ー豊臣秀吉チルドレン」を見せていただき、関ヶ原の合戦を挟んで岡山城主となった二人の武将について、改めて考えるいい機会を持てました。宇喜多秀家は1572年生まれ、小早川秀秋は1582年生まれですから、10歳の差があります。先に岡山城主になった宇喜多秀家は西軍についたため、八丈島に流され、流刑先で84年の生涯を閉じました。秀吉の正室の甥の小早川秀秋は、東軍に寝返った功績を買われて岡山城主になりますが、1602年に21歳で急死します。祟りだというのは俗説で、アルコール依存症による肝硬変説が正しいようです。

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  どうやら来館者は私だけのようで、岡山県の歴史遺産をゆっくり拝見しました。

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  さすがは地元、備前焼の展示は、内容も豊富ですし、説明も懇切でした。

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次の日に行った吉備津神社は、国宝・重要文化財がたくさんありましたが、吉備津彦神社蔵の唯一の重要文化財が展示されていました。吉備地方は出雲地方と並ぶ砂鉄の産地で、長船の名刀は広く知られています。

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 そのあと旭川に架かる鶴見橋を渡って、県立美術館に向かいました。ここもほぼ貸切状態です。

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 「岡山県ゆかり」がキーワード。特別展は「第七回 I氏賞受賞作家展」です。高松明日香氏の作品展を地元のギャラリーでやっていたときは行けず、ここで出会うとは何かのご縁かもしれません。ブルーを基調にした世界が好きでした。原彰子氏のアニメーションはいささか理解不能ながら、座り込めたのが嬉しくて見せていただきました。

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 常設展示では浦上玉堂のコレクションが充実しています。吉備中央町に遺されていた重森三玲デザインの書院が復元されていました。和モダンの世界です。

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 もうへとへとになって、美術館前から後楽園バスで駅中ホテルに戻りました。

松坂の二夜・・・④商人の館

  最終日の11月23日は、目覚めたときはかなりの雨でしたが、8時ごろから晴れてきました。なんだかついています。9時すぎの100円で乗れる「鈴の音」バスで「鈴プラザ」で降りると、進行方向に懐かしい三越前のライオンと休憩所が見えてきます。このあたりが三井家発祥の地です。

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 三井i家の祖である三井高利の祖父・三井高安は、近江の六角氏に仕えていましたが、六角氏が織田信長の軍に敗れて逃亡すると、高安も逃れて伊勢の地に辿りつきます。それから20年後の天正16年(1588)に松阪城を築いた蒲生氏郷は、商業の発展に特に力を注ぎ、郷里の近江から有力商人を呼び寄せました。また伊勢神宮への街道を引き込み、宿場町としても活性化を図ったので、松阪では武士から商人へと転身したものも多く現れました。

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 三井高利の生家があった場所ですが、非公開。当時の建物は残っておらず、門も大正時代の築造です。この通りが「参宮街道」で、かつては商家が軒を連ねていました。。

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 阪内川の方向に少し足を運ぶと、「松阪商人の館(旧小津清左衛門家住宅)」が公開されています。朝いちばんの訪問者だったせいか、大歓迎で懇切丁寧な説明をしていただきました。小津家は伊勢北畠氏の一族に仕えた三好氏を先祖としています。紙屋を営み、承応2年(1653)に江戸大伝馬町に「小津屋」を開業しますが、「江戸店持ち」の豪商の中でも三井家やあとで訪ねる長谷川家とならぶ筆頭格でした。

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 入口付近に千両箱ならぬ万両箱がドーンと置かれています。

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 大きなかまどで炊いたご飯でおにぎりを作って、伊勢神宮にお参りする旅人に振舞ったそうです。

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 本居宣長旧宅にもありましたが、バリアフリー度は最低の階段。奥の座敷で可愛い子どもたちが茶道のお稽古に励んでいました。

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 内蔵
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 大蔵跡

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 阪内川に出て、川沿いに最初の角を右折すると、旧魚町です。

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 松阪牛の老舗で有名な「牛銀」は素通り。

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 昨日、見学した本居宣長旧宅は、もとはここにありました。

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 礎石が残っています。息子の春庭が住んだ家や奥の土蔵は往時のままです。

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 この松も移植すると枯れるかもしれないというので、残されたそうです。

 向かいが「旧長谷川邸」です。旅は平日にという大原則を破ったのは、ここが土・日・祝しか公開されないからです。午前10時の開館と同時に入ると、広い邸内に松阪木綿の法被を着た観光協会の方が何人も待ち構えていて、またも懇切丁寧に説明してくださいました。帰り道で10グループほどとすれ違いましたから、早く行った方がいいと思います。 

 魚町一丁目の「丹波屋」を屋号とする松阪屈指の豪商だった長谷川家は、数多い江戸店持ち伊勢商人の中でも、いち早く江戸に進出して成功をおさめました。1675年、3代治郎兵衛政幸を創業の祖とし、後には江戸の大伝馬町一丁目に5軒の出店を構える木綿商となります。広重作の「東都大伝馬街繁栄之図」には、長谷川家の江戸店が描かれており、その繁栄ぶりがうかがえます。

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 左端に家紋の入った暖簾と「はせ川」の暖簾が掛かっています。

 長谷川家の広大な屋敷構えは、その長い歴史の中で隣接地の買収と増築を繰り返して形成されたもので、近世から近代にかけて商家建築の変遷をたどることができます。

 正面外観は二階建てで、袖壁の上に立派な本うだつが上がっています。左手に表蔵を見ながら玄関をくぐると、奥に向かって通り土間が続き、奥に土蔵がさらに4棟、最も古い大蔵、左に米蔵、大蔵の右手に新蔵と西蔵が並んでいます。

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 土間にぶら下がっている駕籠は家格の高さを示しているとガイドさんが力説しておられました。

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 大蔵にも案内役がおられて、いかに富んでいたか、縷々お話しいただきました。

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蔵の中で展示されている大判・小判は、長谷川邸が松阪市に寄贈されたのちに見つかりますが、ご子孫は「動産も含めて寄贈したから、市で活用してください」という鷹揚な対応だったそうです。大判一枚で300万円ぐらいだと言われていました。

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 この部分は「大正座敷」と呼ばれる邸内でも新しいお部屋です。

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 織部灯篭の一番下に「マリア観音」らしき浮彫がありますが、制作年代など詳しいことはわかりませんでした。古田織部も蒲生氏郷はキリシタン大名ですから、可能性はありそうですが・・・。

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 土蔵の裏手には、町境でもある背割排水が流れ、その奥には池を中心とした回遊式庭園が広がっています。ここは、以前、紀州藩勢州奉行所があった地で、明治初年に長谷川家が購入し、庭園の他に離れや茶室、四阿などをつくりました。庭園を案内してくださった方は、今年は紅葉する前に散ってしまった、と嘆いておられましたが、いえいえ見事でしたよ。

 長谷川家には建物群のみならず、創業以来大切に保管されてきた商業資料、古文書、蔵書類及び商業関係の諸道具、生活用具など、膨大な資料が良好な状態で保存されており、伊勢商人の繁栄のあかしを伝える貴重な文化遺産なとして平成28年7月25日、国の重要文化財(建造物)に指定されました。ガイドさんが見せてくださった家訓には、雇人は家族と同様に遇せよなど、長く続いた商家jならではの伝統を感じました。、

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 最後に「松阪もめん手織りセンター」でささやかなお土産を買って、旅は終わりです。帰りの特急「みえ」は満席でしたから、指定席を買って正解でした。今回もいい出会いに恵まれて、心の宝が増えました。

 あちこちで「伊勢神宮に行ったか」と聞かれて、面倒くさくなりましたが、なぜか行こうとは思わない偏屈な私です。

松坂の二夜・・・③北畠氏館跡

 松阪に行こうと思い立ったのは、これから行く場所が発端でした。昨年、福井県を訪ねたとき、平泉寺塔頭の旧玄成院庭園を見せていただいて、作庭者は細川高国と伝えられていると知ったのですが、史実として確認されているわけではありません。そのとき読んだ『白の聖都』という小説に出てきた湖西の朽木に興味がわいて、今年の4月に旧秀麟寺庭園を拝観。こちらは確実に細川高国の作庭です。住職さんから伺った北畠氏館跡庭園は、公共交通利用では無理だと思っていましたが、なんとか行けそうな気がして、物好きにも行ってきました。宿泊地に松阪を選んだのも、起点になるからです。

 松阪から伊勢奥津までJR名松線が走っています。当初は名張までつながるはずだったのが、完成しないまま2009年の台風で一部区間が不通になり廃線の予定でしたが、住民の存続運動が実って2016年3月に復活した超ローカル路線は、1両だけのワンマンカーで、便数も僅少です。

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 11時33分に松阪を数人の乗客を乗せて発車した電車は、やがて山間部に入り、澄み切った渓流と杉林を彩る紅葉の美しさで旅心が躍ります。ほとんどが無人駅で、運転手さんの脇の運賃箱に切符を入れ、乗客がボタンを押して扉を開閉します。12時10分に唯一と言っていい有人駅の家城で降りたのは私を入れて2人でした。この駅は昔懐かしいタブレットの交換が行われるので、駅員さんが常駐しています。家城駅前から津市のコミュニティバスが出ているはずなので、駅員さんにバス停の場所を訪ねていたら、一緒に下りた青年が案内してくださいました。

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 いちばん奥が家城駅。バスは塀の右側から現れますが、あたりはお店もないし、誰も歩いていないので、あの青年がいなければ5分後に来たバスに乗り遅れたかもしれません。

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 12j時15分発の丹生俣股行のバスには年配の女性が5人乗っていました。運転手さんとは昵懇らしく、しばらくたつと、「農協に行くんやろ。貴重品だけ持って、荷物は置いていき。このバス、1時間たったら戻ってくるから」と優しいお言葉。貸切状態になってから、運転手さんの好奇心が炸裂しました。一通りどこからなんの目的で来たかを聞き出すと、話し出したのは、映画になった『神去なあなあ日常』のお話です。綾瀬はるかさんなど俳優さんが長期ロケで滞在し、完成したときはこぞって山を下りて映画館に詰めかけたそうです。三浦しをん氏の小説は読んだことがありますが、神去村のモデルが津市美杉町だったとは知りませんでした。三浦氏の祖父の方が美杉町で林業を営んでおられたと伺って、納得です。

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 45分のドライブをして、北畠神社前でバスを降りました。神社の所在地は津市美杉町上多気です。かつては奈良の猿沢池から伊勢神宮に至る伊勢本街道の宿場町として栄えた地域ですが、いまは閑散としています。

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  社務所で300円を納めて、まず北畠氏館跡庭園を拝見します。自分で扉を開けて入るというおおらかな入口でした。11月10日から3日間、ライトアップが行われ、無料シャトルバスも走りますが、不便は承知で静寂を選びました。

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 この庭園は、細川高国の作庭であることは間違いないと思われます。高国は室町幕府の管領として十数年間、権勢を誇りますが、甥の細川晴元や三好元長と争い、援軍を頼むために娘婿の北畠晴具を訪ねて、その館に滞在していた享禄3年(1530)に作庭したと伝えられています。翌年、戦いに敗れて摂津国大物の広徳寺で自害したとき、北畠晴具に宛てた辞世の和歌が一つの根拠です。

  絵にうつし石をつくりし海山を 後の世までも目かれずや見む

 なお、肥後熊本藩主の細川家は傍流です。

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 紅葉は盛りをすぎていましたが、足元に散り敷いた紅の落ち葉もいいものです。池の汀線が複雑に屈曲しているため、古くから「米字池」の名で知られています。総面積は約850坪の武家書院庭園で、池泉鑑賞様式です。まず、右周りに一周してみました。

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 橋の近くに戻ってきました。

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 この枯山水は高く評価されています。中央の2メートル近い立石(孔子岩)がどっしりと構え、周りを取り巻く十数個の石がさまざまな表情をみせながら、一つのまとまりを保っているのは見事です。

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 入口脇の木の長いすに腰かけて、松阪の駅中のベーカリーで調達したサンドイッチなどで、遅めのランチをいただきました。何よりも眼前の景色がご馳走です。武将の作った庭らしく素朴で豪放な魅力があります。さらに思いは南北朝の動乱の中でその名を馳せ、最終的に織田信長によって滅んだ伊勢北畠氏に向かいました。

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 室町時代の庭園の多くは寺院に所属していますが、この庭園は珍しく神社の庭園です。とは言っても、高国が作庭したときは、北畠神社は存在していません。由来書によると、寛永20年(1643)に北畠氏の末裔が旧縁の地に小さな祠を設けて北畠八幡宮と称した、やがて伊勢国司として南朝に尽くした北畠顕能を主祭神とし、顕能の父の親房と兄の顕家を合資したとされています。北畠神社と呼ぶようになったのは明治14年です。現在の社殿は昭和3年に新造されました。 

 公家と武家の両面を持つ北畠氏の流れで伊勢北畠氏の祖の顕能から8代具教まで、8代にわたる北畠氏の居館は、背後に北畠氏館詰城と霧山城が控え、これらすべてで「多気城」を構成していましたが、天正4年(1576)に織田氏に寄って楽落城し、そのまま廃城になってしまいました。

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 2006年にまとめられた精緻な報告書がありますが、内容は省略します。

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 館跡に北畠顕家の銅像が建っています。戦前・戦中の皇国史観では楠木正成と並んで第忠臣と称えられた人物です。いささかアレルギー気味でしたが、後醍醐天皇に対して。『顕家諫奏文』をしたためた7日後に21歳で戦死した顕家の心はいかばかりかと痛ましく感じました。

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 日本最古の石垣だそうですが、南北朝時代以前に石垣というものは存在しなかったのかと突っ込みたくなりました。解説をよく読むと、「中世では」ということのようです。

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 館跡の最奥にちらりと見える建物は、映画『神去なあなあ日常』で綾瀬はるかが教師を演じる小学校のロケに使われたとバスの運転手さんが誇らしげに教えてくださいました。

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 300mほど歩くいて、石段の上の門をくぐると、美杉ふるさと資料館です。

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 ホールに地元の方が作られた館跡の模型が置かれていました。以下の展示品はHPからお借りしました。民具や郷土史の資料、館跡の出土品、古地図、北畠氏関連史料、考古資料など、多岐にわたる展示がありました。

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 慶応4年のキリシタン禁令です。

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 林業関係資料。

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出土品の中で、中国産の磁器は、持ち主の経済力を示すもので、とくに「青磁水鳥形香合」は、非常に貴重なものだそうです。

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 館跡の出土品。

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 武具や古地図。

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 八手俣川の清流。 伊勢湾にそそぐ雲出川の支流です。

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 子どもが落ちないか心配になるため池。

 16時ごろ小さく警笛を鳴らして、コミュニティバスが来ました。往きと同じ運転手さんは、家城駅までずっと話続けて、山村の暮らしがよくわかりました。農作物は猿や鹿の食害を受け、つるした柿はハクビジンが食べてしまうそうです。広い立派な家が家賃2万円、家城駅前のサンクスは廃業して、店は一軒もない、夏は大きなムカデが10回は出てくる、等々で、45分があっという間です。電車が来るまでの1時間は、読書タイム。家城駅の待合室はどう見ても空調の設備はないので、真冬が心配になりました。またガラガラかと思っていたら、高校生がどっと現れて、やってきた電車は満員。白山高校の生徒さん、座席を譲ってくれていい子たちでした。途中駅でどんどん降りて行って、松阪に着いたときはやはりガラガラ。

 二つの異なったお城を訪ねて、いろいろ学んだ1日でいた。きょうの歩数は約1万歩です。

松坂の二夜・・・②城のある町

 11月22日(水)は雨の予報が出ていたので、心配でしたが、幸いにも傘の出番はありませんでした。午前中は松坂城跡界隈をめぐる予定です。三重交通のバスで3分、市役所前で降りて緩やかな坂道を少し登ると、石垣が見えてきます。天正16年(1588)に蒲生氏郷が築いた松坂城は周囲に堀と土居を巡らせた壮大な平山城でした。現在では石垣に囲まれた城跡が残っているだけです。築城以来使用されていた「松坂」は、「大坂」が「大阪」に変更されたこともあり、明治22年(1889)の町制施行の際に「松阪」に統一され、現在に至っています。

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 松阪市は梶井基次郎の『城のある町にて』でこの町が描写されていることを誇りに思っているのでしょう。城跡に文学碑が建っています。国語の教科書に載っていた『檸檬』を読んだだけで、改めて読んでみましたが、松阪という地名は出てきませんし、見下ろす風景も異なっていました。

 石工集団の穴太衆によって作られた石垣の特徴は、自然石を大小うまく組み合わせ奥行き深く積むものです。近くで目にする大小の石積みはパズルのようにきれいに組み合わされています。

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 七尾といえば長谷川等伯、松阪といえば本居宣長です。城跡に宣長の居宅が移築され、隣接する二ノ丸跡に本居宣長記念館が建てられています。

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二階の鈴屋tは非公開ですが、土手に登って見下ろせるようになっています。

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 宣長の旧宅は元禄4年(1691)に職人町に建てられ、その後、魚町に移築されました。宣長が12歳から72歳まで住んでいた旧宅は、明治42年、保存のために松坂城跡の現在地に移築され、宣長在住当時の姿に復元して、公開しています。この建物の二階の書斎が「鈴屋」です。

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 宣長が奥の間で古典の講釈などを行いました。

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 本居宣長記念館

 まず一階の映像で予備知識を得ました。国学者で『古事記伝』の著者ぐらいの知識しかありませんでしたが、商家に生まれながら商才がないと見抜いた母の勧めで医学を学んだ医師でもあったとは知りませんでした。23歳のころ日本古典研究を志し、賀茂真淵に私淑します。34歳のとき、伊勢神宮参拝のため松坂に来た67歳の賀茂真淵と対面し、語り合ったのが「松坂の一夜」です。73歳で真淵がが亡くなるまで通信教育を受けますが、宣長の質問に真淵が答えた書簡も展示されていました。

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 椅子は藍染の松坂木綿です。

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 往診の際に携行した薬箱です。

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 宣長は35歳から『古事記』の研究に着手し、難解と言われた『古事記』の解読を行います。美しい筆跡に驚きました。

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 宣長は鈴が大好きで、記念館には7個の鈴が所蔵されています。とくに石見浜田の松平氏から拝領した駅鈴は松阪市のシンボルとなり、松阪駅前に大きなモニュメントが置かれていました。

12月10日まで 秋の企画展「父と子の物語ー宣長と春庭ー」が開かれていて、若くして失明した長男の春庭に関する展示もたくさんありましたが、内容は省略します。

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 記念館の方に道を教えていただいて、来たときとは別の坂道をくだりました。

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  まず目に飛び込んできたのは米蔵。場内の隠居丸に建てられていた米蔵を明治初期に移築したものです。

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 松坂城を築いた蒲生氏郷は会津に転封となり、元和5年(1619)以後は紀州藩の飛び地領となりました。松坂城の警備を任務とする紀州藩士とその家族の住居として文久9年(1863)に建てられたのが御城番屋敷です。

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 約1ヘクタールの屋敷地のなかに主屋2棟と前庭、畑地などがあります。主屋の東棟は10戸、西棟9戸が連なっています。現在も子孫の方が住んでいる屋敷もありますが、1戸を松阪市が借りて、復元整備したのち、公開されています。入っていくと、ボランティアの方々に大歓迎されて、愛郷心のあふれるレクチャーを受けました。

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 御城番屋敷の突き当りを左に曲がると、殿町(旧同心町)です。奉行所に勤める同心と呼ばれた武士たちが住んでいた一角で、生垣が美しく刈り込まれた静かな佇まいを見せ、いまも当時の家屋が何軒か残っています。

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 素通りするつもりでしたが、熱心なお誘いを受けて、町奉行所の同心の子孫で、大蔵省を経て明治から大正にかけて実業家として活躍した原田二郎旧宅を拝見しました。松阪市に寄贈され、江戸時代末期の武家屋敷の名残をとどめています。

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 玄関前を飾る松阪菊は、古い歴史を持つ古典菊の一つだそうです。この時期だけ市内数カ所で展示されています。

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 庭園に松坂城堀跡が残っています。

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 二階に上がると松坂城の石垣が見えるそうです。

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 お隣が「八千代」という大正時代創業の料亭です。もとは松坂城二ノ丸跡で営業していて、昭和4年ごろに殿町に移転したようです。朝いちばんに来たせいか、どこも空いていて、静かな屋敷町を清々しい気持ちで歩きました。

 10分ほど歩いて、ホテルに戻ったら、お掃除の最中でした。これから山間部に行きますので、防寒具をピックアップして、駅に向かいます。

 いまは石垣しか残っていない松阪城を築城した蒲生氏郷は会津若松42万石の藩主となりますが、40歳で病死し、実子も夭折したこともあって、断絶してしまいます。なお、氏郷はキリシタン大名としても名高く、親友の高山右近の祈りのなかで亡くなったそうです。御三家の紀州藩の飛び地領になったのは、この地が幕府にとって重要な場所であったことを示しているのではないかと思います。

松阪の二夜・・・①斎宮歴史博物館

 おひとり様暮らしも長くなり、会話のない日が増えてきました。認知症予防も兼ねて、短い旅を続けています。とくに高邁な目的があるわけではなく、たんなる思い付き程度ですが、なるべく人の少なそうな時期・場所・時間を選んでいます。今回は戦前の小学校の教科書に「松阪の一夜」という一文が載っていたので、かつては誰もが知っていた本居宣長の生地、松阪に11月21日から2泊3日で行ってきました。「松阪の一夜」は佐佐木信綱氏の「松坂の一夜」をリライトしたものですが、そのことはあとで触れたいと思います。

 西を向いて行くときは、品川10:10発「ひかり」の6号車を切符の発売日に確保するのは、この行き方がいちばん楽だからです。

 どういう訳か、30年近く新幹線で富士山を見たことがなかったのに、品川を出て間もなくちらりと拝見。これは期待できると思っていたら、何度も秀麗な山容を見ることができて、嬉しくなりました。そのせいだとは言いませんが、旅につきもののリスクが皆無で過ごせたのはありがたいことでした。いまもテレビに「井の頭線運転再開」というテロップが出たから、何かあったのでしょう。どの交通機関もピタリ定刻、天候にも恵まれました。

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 今回は松阪の駅前ホテルに2泊します。名古屋から松阪までは特急「みえ」を利用しました。2両の特急は1号車の前6列だけが指定席。320円の指定席券はジパング倶楽部の割引で220円です。名古屋始発ですから早めに行けば座席は確保できると思いますが、1時間半ほど立つのは辛いし、このお値段は五能線にもまして安いと思います。帰りは同じ距離で520円だったのは、たぶん祝日だったからでしょう。

 14時少し前に松阪に着いて、ホテルに荷物を預けに行ったら、もうお部屋が使えるとのこと。チェックインは15時からなのに、ありがたい配慮でした。身軽になって、JRと同居している近鉄の山田線に乗ると、11分で斎宮駅です。

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 駅前の掲示板を眺めていたら、声がかかりました。観光ボランティアの方です。斎宮は、伊勢神宮に奉仕する斎王がいた古代の役所。斎王は天皇の即位のたびに占いで選定され、足かけ3年の心身を清める潔斎生活のあと、斎宮に着任し、朝廷と同様の祭祀や行事を行いました。この制度が確立したのは 、天武天皇の娘の大伯(大来)皇女(おおくのひめみこ)が斎王に任命されてか らだと言われています。

 若いころ「万葉旅行の会」であちこちを旅しましたが、大伯皇女と同母弟の大津皇子のお話がよく出ました。簡単に歴史のおさらいをしますと、壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇の皇后がのちの持統天皇です。大伯皇女と大津皇子の母は持統天皇の同母の姉の大田皇女で、ともに天智天皇の娘でした。いまでは父の弟と結婚するなど考えられませんが、古代ではありふれたことです。姉弟にとって大きな不幸は母の早世。太田皇女が存命なら皇后になり、大津皇子が皇太子になっていたかもしれません。

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 、『日本書紀』や『懐風藻』によると、大津皇子は風貌が大きく逞しく、文武両道に優れ、人望も厚かったそうです。686年9月9日に天武天皇が亡くなると、持統天皇が即位し、持統天皇が生んだ草壁皇子は皇太子に留まりました。持統天皇にとって最も邪魔な存在は大津皇子であることは誰の目にも明らかです。そのなかで斎王となっていた大伯皇女に密かに会いにきた大津皇子を見送る歌が『万葉集』に残されています。

   わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁(あかとき)露に 吾が立ち濡れし
   二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ

 飛鳥に戻った大津皇子は、10月2日に謀反の罪で捕えられ、3日に磐余の池の畔で24年の生涯を閉じました。

  大津皇子が死に臨んで作った歌(後世の仮託という説もあります)

  ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

 11月16日に大伯皇女は斎王の任を解かれて都に戻り、亡き弟が二上山に葬られたときに2首の歌を詠んでいます。

  うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我が見む

  磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに

 10月に郡上八幡を訪ねたとき、折口信夫の歌碑の前で出会った方と『死者の書』の話をしたと書きましたが、大津皇子の独白がこの小説の冒頭に出てきます。

  本題に戻ります。観光ボランティアの方が広大な斎宮跡について説明してくださいました。斎宮跡は、東西2㎞、南北700mにわたり、昭和45年から開始された調査はいまも続けられています。もとは自衛隊の用地で、住宅団地を建設しようとしたさいに遺物が出土し、熱心な保存運動の結果、史跡に指定され、「いつきのみや歴史体験館」、斎宮跡を10分の1に縮小した模型などを配置した「斎宮跡歴史ロマン広場」、重要な儀式を行った3棟の復元建物を含む「さいくう平安の杜」、歴史資料や考古資料を展示した「斎宮歴史博物館」などが造られています。

 下の図は、規模を他の遺跡と比較したものです。

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  斎宮は、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう場所でした。碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした町に、斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が住んでいました。斎宮制度は660年続きますから、何度も建て替えられていますが、10分の1に縮小して復元された建物は平安時代の様子を示しています。映りこんでいる影はボランティアさんと私です。木造の塀に囲まれて、檜皮葺や板葺の屋根に掘立柱の建物が並んでいますが、茶色の屋根は発掘で確認できた建物、灰色の屋根は想定される建物だそうです。

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 灰色の屋根の方形の2棟の建物は井戸の覆屋です。

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 復元建物(西脇殿・正殿・東脇殿)は、帰りに寄ろうと思っていましたが、時間切れ、体力切れでした。

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 川の痕跡です。

 ロマン広場から博物館方向に奈良古道が復元されています。{「ここは復元した古代伊勢道です」と書いた柱が立っていました。 斎宮跡で見つかった奈良時代の古道は、 古代の鈴鹿関から伊勢神宮を経て志摩国府へ至る幹線道路で、 東西約1.4㎞にわたり幅9mの両側に側溝を持つ大規模な道路です。

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 奈良古道が車の行きかう道路にぶつかると、右側に斎宮歴史博物館の建物が見えてきます。

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  「展示室Ⅰ」は、「文字からわかる斎宮」をテーマに、斎宮が最も栄えた平安時代を中心に模型や映像資料、実物資料を活用して当時を再現しています。斎宮跡は伊勢神宮から15kmほど離れていて、斎王は年毎年9月の神嘗祭、6月と12月の月次祭に伊勢神宮に参拝する以外は、斎宮で祭祀、行事などを行っていました。多くの役人や女官にかしずかれ、都と変わらぬ生活だったとはいえ、5歳から15歳ぐらいの少女期に斎宮にこもって神に仕える日々は、決して楽しいものではなかったでしょう。

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 国指定の重文がずらりと並んでいる中で、目を惹いたのは、羊形硯はじめ硯の多さです。これは文書行政の定着を示しているという説明があって、文書は破棄したと平気でおっしゃる官僚に見習ってほしいと思いました。

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 15時15分から映像展示室で「今よみがえる幻の宮」を見せていただきました。発掘調査の成果に基づいて平安時代初期の斎宮の様子をコンピューターグラフィックで復元し、文献資料から斎宮の日常生活や勅使の訪問の様子を再現しています。登場する人々の言葉がいまの日本語とはかなり異なる発音で、字幕がないと意味不明だったのが印象的でした。

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 そのあと「展示室Ⅱ」を見学。30年あまりの斎宮跡の発掘調査が明らかにした斎宮の姿を、考古資料と模型で立体的・多角的に紹介してます。考古資料の展示では、飛鳥時代から南北朝時代にわたる斎宮の時代的変遷を「斎宮の成立と整備」「斎宮の隆盛と繁栄」「斎宮の衰退と消滅」の3期に分けて展示しているほか、最新の発掘成果を紹介する速報コーナーがあります。いちばん興味のあった大伯皇女の時代のことは、あまり定かではないのが、少し残念でした。建物の跡も重なりあったりして、古い時代のことは今後の調査を待つしかありません。
  模型は、この10年間で飛躍的に調査が進展した方格地割の内院(斎王の御殿エリア)推定地区の調査成果を中心に紹介するもので、斎宮跡の発掘調査区の一部や斎王が暮らした「内院」の柵列を再現した復元模型(実物大)、内院地区の調査経過をまとめた映像と連動した発掘調査区模型(20分の1)、床面に設置した斎宮跡全体の陶板航空写真と組み合わせた斎宮寮の復元模型(400分の1)の3種類があります。

 10世紀後半から斎宮は次第に衰退し、承安元年(1172)から文治元年(1186)まで斎王が不在という事態も起こります。鎌倉時代に斎宮は復活しますが、天皇家が持明院統と大覚寺統に分裂したのちは、持明院統の天皇は斎王を置かず、後醍醐天皇の建武の新政の崩壊とともに斎王制度は終わりました。

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 斎宮跡から出土した土器類は、考古学用の整理箱で1万箱を超える量だそうです。

 斎王あるいは斎宮は、『伊勢物語』『源氏物語』『山家集』など文学作品にも登場します。鎌倉時代の初めに斎宮を訪れた西行は「斎王おはしまさで年経にけり。斎宮、立木ばかりさかと見えて、つい垣もなきやうになりたり」と嘆きました。ボランティアさんも昭和45年の発掘調査以前は、「斎王の森」という呼称が伝えられているので、なにかあるな、程度の認識だったと言われていました。

 博物館の周りには古墳が点在しています。「歴史の道」の傍らの塚山古墳群は、古墳時代中期から後期の群集墳です。発掘調査の結果、5世紀末~6世紀前半に築造された円墳と方墳42基が確認され、そのうち13基が保存されています。円墳は径15m前後、方墳は1辺10m前後のものが多く、周溝を持っています。出土遺物としては埴輪や土師器、須恵器などがあると書いてありました。

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 円墳ですね。

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 しばらく「歴史の道」を歩きました。斎王やゆかりの人たちの歌碑が並んでいます。

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 斎宮跡も影が長くなっていました。

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 この川で禊をしたそうですが、水がありません。

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 10分の1のサイズで復元された八脚門ですが、実際の跡地は近鉄の線路の向こうです。

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 斎宮駅の前の寝殿造の貴族の邸宅を模した「いつきのみや歴史伝承館」は、もう閉まっていました。史跡の発掘は一部に過ぎませんし、文献資料もわずかですので、斎宮はやはり幻の宮でしたが、遠い昔の夢は見られました。それにしても、人が少ない!

秋の鎌倉・・・浄智寺

 まだ余力があるとうぬぼれて、もう一カ所、欲張りました。東慶寺は次の機会に譲って、Yk様が『緑の風』というブログに美しい写真と詳しい解説を載せてくださっている浄智寺にお参りしました。

 浄智寺は、鎌倉五山第四位の臨済宗円覚寺派のお寺です。謡曲『鉢の木』でその名を知られた五代執権・北条時頼の三男宗政が29歳で亡くなると、夫人が、亡き夫と子の師時を開基として浄智寺を起こしました。かつては円覚寺とほぼ同じ規模の寺域を誇り、多くの堂宇が存在しましたが、関東大震災でほとんどが倒壊してしまいます。

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 参道入口の石橋の畔に鎌倉十井の一つ、甘露の井があります。

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 石段を上がると。「寶所在近」の文字が掲げられた惣門(高麗門)が木立の中に建っています。ここで言う「寶所」とは悟りの世界の彼岸であり極楽浄土のことを意味します。極楽は遠くにあるものではなく自己の境地の中にある、自分の心の中に極楽を築くよう修行しなければならず、現実から逃げてはいけないという意味だと教えていただきました。

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 木漏れ日を浴びた鎌倉石を使った石段が美しい。

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 さらに山門(鐘楼門)をくぐります.。鐘楼門の名の通り鐘楼を兼ねていて、2階部分が鐘つき堂になっています。現在の鐘楼門は2007年(平成19年)に建て替えられたもので、境内では一番新しい建物です。

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 境内に入ると仏殿(曇華殿)が建っています。曇華殿に安置されている三世仏は、南北朝時代のもので、わが国に伝わる三世仏の中でも造立年代の早いものです。

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 非公開の書院と庫裏は、庭園から拝見しました。

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 墓地の奥にやぐら群があります。墓地には澁澤龍彦氏のお墓がありますが、写真は控えました。

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 ぐるっと回って棟門に戻ってきました。柿が色づいているのですが・・・。扉には徳川家の葵の紋が施されていますが、うまく写せませんでした。

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 上手な方が撮られると、こうなります。もしいけなかったら削除します。

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 もう体力の限界に近づいてきたので、何度も振り返りながら帰途に就きました。

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 お昼時は過ぎてしまいましたが、至近の「鉢の木北鎌倉新館」で半月弁当をいただきました。

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 紅鮭幽庵焼 鶏照焼 帆立時雨煮 厚焼玉子 鹿の子蒲鉾 石川芋 生湯葉 丸十ワイン煮 だだちゃ豆 酢取茗荷 胡桃甘露煮 秋茄子 紅葉麩 隠元当座煮 車麸 水菜と菊花のお浸し 御飯 ちりめん山椒 香物 海老真蒸清汁

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 すでに歩数計は1万歩以上を示しています。高低差があるので、足腰は激怒。60分立つのは辛いし、165円を張り込み9分かけて湘南新宿ラインの終点逗子まで行き、改札を出て1秒で再入場。これは大成功でした。逗子を一両に3人で発車した電車は、次の鎌倉で長い列を作っていた方がなだれ込んで満員です。往復とも恵比寿で乗り換えて、省エネに勤めましたが、2日ほど後遺症に悩まされました。

 なんとなく敷居の高かった鎌倉に楽に行けるすべを会得したので、今後はもっと足を運びたいと思います。背中を押してくださったyk様にはお礼を申し上げます。天候に恵まれすぎて、汗だくになりました。

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