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新潟&酒田・・・③酒田

  5月10日(木)は雨でした。酒田駅前は再開発中で、広い空き地が目立ちますが、駅前から3分のホテルの場所が一目瞭然なのは助かりました。なぜか河村瑞賢と西郷隆盛の幟があちこちに翻っています。河村瑞賢は大阪の安治川を開削した人という印象しかありませんでしたが、当時天領であった出羽(山形県)の米を江戸まで効率よく大量輸送するために西回り航路を完成した方で、2018年は生誕400年に当たるそうです。西回り航路の起点となったのが最上川河口に開けた港町・酒田でした。その後、北前船交易によって湊町・商人のまちとして飛躍的に栄え、上方などの文化が伝わっています。西郷隆盛については、戊辰戦争で幕府側についた庄内藩に温情をかけたのを感謝して南洲神社を建てたというつながりぐらいで、大河ドラマにあやかろうという縋る思いも垣間見えます。

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 いずれ駅前にホテルや商業施設等が建つそうですが、半日、町を歩いて、先行きが少し心配になりました。

 まず駅前からバスに乗って、山居倉庫に行きました。酒田市内を庄交バスと市が運営する100円の福祉乗合バスが走っていますが、観光客の利用は想定していないようで、時刻表との格闘は、脳トレに役立ちます。半日で「山居倉庫」「本間美術館」「旧鐙屋」「旧本間家本邸」を回りましたが、どこも貸切同様でした。

 米どころ庄内のシンボル山居倉庫は、明治26年(1893)に建てられた米の保管倉庫です。 白壁、土蔵づくり、9棟からなる倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)にのぼります。夏の高温防止のために背後にケヤキ並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫として、現在も現役です。

 敷地内には酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」、庄内米歴史資料館がありますが、誰も来ていませんでした。

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 樹齢150年以上のケヤキ36本の連なるケヤキ並木が雨に濡れています。5月とは思えない寒さに震えながら、次の目的地に移動しました。1日4便程度の福祉乗合バスは30分近く市内をぐるぐる回って庄交バスターミナルに着きました。たったの100円ですから、市内視察には最適です。

 本間美術館はホテルの窓からも見えていました。庄交バスターミナルのすぐそばです。

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 本間家初代久四郎原光が元禄2年(1689)に「新潟屋」を開業します。その後、酒田を拠点に金融業や米取引、北前船交易などで莫大な富を築き、新田開発にも力を注ぎました。庄内藩は譜代大名の酒井家が幕末まで統治しましたが、その石高は13万石ほど。これに対し、本間家の財力は20万石規模に相当していたとされ、その繁栄ぶりは「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」とうたわれたほどでした。秋田の池田家、宮城の斎藤家とともに、日本3代地主に数えられていました。前日、拝見した新潟の伊藤家も凄いと思いましたが、本間家が最盛期だったころの所有地は3000町歩だそうですから、伊藤家の倍以上です。

 本間家はもともと佐渡の豪族で、血筋をさかのぼると関東の武士だったと言われます。上杉景勝に反逆したため滅ぼされますが、一族の中には上杉方に味方したものもいました。彼らは会津に国替えとなった上杉家に付き従い、その中で酒田に移り住んだ一族は武士の身分を捨て、江戸時代に商人となったそうです。

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 本間美術館は、美術展覧会場・本間氏別邸庭園(鶴舞園)・清遠閣という三つの要素で構成されています。最初に展覧会を見せていただきました。4月8日から6月5日まで「酒田の文化財と茶道具名宝展」が開催されています。

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  残念ながら前期の芦雪や若冲の展示は一日違いで観られませんでしたが、雨宿りにはもってこいでした。

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 雨は小やみになってきました。内部は撮影禁止のため、HPから写真をお借りしました。4代光道は、文化10年(1813)に浜畑に本間家別荘と庭園を造りました。清遠閣と名付けられた別荘は、藩主が領内を巡視する際の休憩所になります。現在の建物は、大正14年にのちの昭和天皇が宿泊されるために改修され、大正ロマンが漂います。建物内の椅子は、この種の施設には珍しく着席可でした。

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 鳥海山を借景とする池泉回遊式庭園は、池の中島に鶴が舞い降りたことから、藩主酒井侯により「鶴舞園」と名づけられたそうです。庭園の整備は、冬期間に港で働く人々の失業対策事業として実施されました。北前船が運んできた佐渡の赤玉石や伊予の青石などを配した、美しい庭園です。まだ花の季節ではなく、夜来の雨に池の水も濁っていました。

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 ここも八つ橋があります。雨も止みました。

 親切なバスの運転手さんに道を教えていただいて、3番目の目的地である旧鐙屋に着きました。ここだけはバス停から6,7分歩きます。

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 鐙屋は酒田を代表する廻船問屋で、江戸時代を通じて繁栄し、日本海海運に大きな役割を果たしました。とても感じのいいスタッフに迎えられて、一人で聞くのはもったいないほど丁寧な説明をいただきました。ここはお勧めです。

 戦国時代の末に庄内を治めていた最上義光が酒田の豪商池田惣左衛門に「鐙屋」の屋号を与えたという説明を伺って、「あら、うちの先祖は最上家の家臣だったのよ」と言ってしまいました。元和8年(1622)、お家騒動で改易された最上氏に代わり、信州松代から酒井忠勝が庄内藩の藩主として入部し、以降、明治維新までの250年間、庄内の地を治めましたました。庄内藩は鶴岡の鶴ヶ岡城を居城とし、酒田の亀ヶ崎城には城代を置きましたが、酒田は、三十六人衆が自治体制をしく、自由な町人の町でした。寛永年間には、鐙屋は三十六人衆の筆頭に数えられています。

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 現在の家屋は弘化2年(1845)の火災以後に再建されたものです。

 井原西鶴の『日本永代蔵』巻2に鐙屋のことが「舟人馬かた鐙屋の庭」と題して記されています。それを非常に誇りに思っていらっしゃることは、さわりの部分を大書してパネルにしているのでよくわかります。帰宅後、持っているだけで読んだ覚えのない『日本永代蔵』を引っ張り出しました。江戸時代中ごろに書かれた『日本永代蔵』は、30の逸話からなる短編集で、日本各地で富を築いた人々の生活や、商いの工夫を描いた、日本で初めての経済小説です。 

 「坂田の町に、鐙屋といへる大問屋住けるが、昔は纔なる人宿せしに、其身才覚にて、近年次第に家栄へ、諸国の客を引請、北の国一番の米の買入れ、惣左衛門といふ名をしらざるはなし。表口三十間裏行六十五間を、家蔵に立つづけ、台所の有様、目を覚しける(日本古典文学大家より)

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 台所では、『日本永代蔵』の挿絵をパネルにして、その一部を再現しています。


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 井戸と高塀です。

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 屋根は、かつては雪国に多く見られた石置杉皮葺屋根です。土蔵を利用した資料館に模型が置いてありました。

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 土蔵は資料館になっています。ここでもスタッフの方が熱心に説明してくださいました。ここから60mほど先に本間家旧本邸と別館「お店」があります。

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 「お店}は、本間家初代原光の「新潟屋」開業以来、代々商いを営んだ場所です。

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 文久年間の酒田風景図

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 二千石の格式の長屋門は、特別なときや賓客の来訪時だけに使われました。

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 本間家旧本邸は、本間家三代光丘が幕府の巡見使一行を迎えるための宿舎として明和5年(1768)に新築し、庄内藩主酒井家に献上した、二千石格式の長屋門構えの武家屋敷です。巡見使一行が江戸に戻ると屋敷を酒井家から拝領し、商家造りの方で昭和20年(1945)の春まで住んでいました。
 桟瓦葺平屋書院造りで、武家造りと商家造りが一体となっている建築様式は、全国的にも珍しいものです。


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 表玄関の式台には欅、板戸には神代杉が使われています。内部は撮影禁止でした。

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 庭には船体を安定させる綿積石として諸国から北前船で運んできた銘石を配しています。

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 屋敷の東側の白壁と医薬門。日常はこちらの門から出入りしていました。

 「お店」の前の二番町バス停からめったに来ないバスに乗って、八雲神社前で下車。「こい勢」というお寿司屋さんでお昼をいただきました。

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 千葉から来たという男性や常連さんのご婦人。と話が弾みました。評判どおり美味しいです。

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 村上付近の岩礁が物悲しいほど車内は空いていました。酒田も「おしん」が放映されたころは活気があったようですが、ドラマで一時的に集客しても長続きしない例を各地で知りました。どうしたら、地方が栄えるのか、賢い方が考えてください。今回は五月晴れとはいきませんでしたが、土砂降りで困ることもなく、交通機関も定刻通りに発着して、新潟市内以外は思い通りの旅ができました。

新潟&酒田・・・②北方文化博物館え

 昨夜の激しい雨は小降りになりました。駅前からバスで50分近く、上沢海博物館前から3分で北方文化博物館に着きます。

History_img1HPより

  雄大な蒲原平野を流れる阿賀野川のほとりに小さな集落、沢海(そうみ)があります。江戸中期この地で農より身を興し、代を重ねて豪農の道を歩み、越後随一の大地主となったのが伊藤家です。戦後の農地改革によって広大な土地は伊藤家の所有から離れますが、建物・庭・美術品を後世に残すため伊藤家は自らの財産を寄付し、財団法人北方文化博物館を創設します。

  伊藤家は、 初代文吉が宝暦6年(1756)に20歳で分家したのに始まり、2代文吉は天保8年(1837)に名字帯刀を許されると「伊藤文吉」を名乗るようになりました。伊藤家が繁栄するのは、明治以後のようです。明治15年(1882)に5代文吉が伊藤邸の新築工事を始め、明治22年(1889)に敷地8800坪、建坪1200坪、部屋数65の現在の邸宅が完成します。7代文吉のころには、所有地が東京ドーム300個分もの広さになり、住み込みの使用人も60人になったそうです。

 昭和21年(1946)、第二次世界大戦を経て、7代文吉は、博物館をつくり、財産の総てをこれに寄付するという決断を下しました。

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 石製の門柱を建てるのが、この地方の慣わしのようです。アプローチをしばらく進みます。

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 明治18年(1885)年ごろに造られた桁行約24m総二階建の門土蔵には、正式な門「大門」と、通常の出入口に使う「通用門」とがあります。門の左右に蔵を備えており、什漆器や古文書を保管しています。大門の中に受け付けがあって、ここで入場券を求めます。、

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 誰もが目を奪われる樹齢約150年の大藤は昭和30年代の上水道整備の折、8代伊藤文吉によって西門広場から現在地に移植されました。豊富な地下水に恵まれ広さ約70畳(約113㎡)にまで広がり、毎年美しい紫色の花を咲かせています。私が行ったのは5月9日ですが、10日まで夜間もライトアップされました。

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 藤棚の奥に見える白壁と美しい張り瓦の建物は、明治34年(1901)に造られた米蔵です。米3,000俵を備蓄し、通気性の良い置き屋根など、大量の米を保管するための構造が見どころですが、いまは修古館と名付けた資料館になっています。

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 主屋は、近代和風大邸宅で、明治期に栄えた新潟の豪農を代表する重厚さが特徴の建物です。7段にも組まれた梁や、長さ30mの丸桁など職人の技術や部材の見どころもたくさんあります。 建物の表側より帳場(現・博物館事務所)、茶の間といった地主伊藤家を経営するための表(オモテ)の空間が配置されています。観覧用に造りつけた広い階段を上ると、使用人や伊藤家の子どもたちが過ごしていた2階があります。

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 母屋の2階に大きな丸木舟が置かれていました。

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 2階から見下ろすと、中庭の向こうに大広間棟が見えます。大広間棟も2階建てに見えますが、平屋です。


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 襖を外すと、約100畳に広がる巨大な書院造の大広間棟が建てられたのは、明治22年(1889)です。廊下でつながっているものの主屋棟とは切り離されており、総けやき造りの大玄関が直結するなど最も格式あるお座敷として年に数回のみ使用されました。とくに柱の少なさが庭園との一体感を生み、近代和風建築に特徴的な開放感があります。襖を立てると上段の間、中段の間、二つの脇座敷、そして最も天井の高い大広間に分けられます。敷居の桜、柱の杉の四方柾、廊下のけやきなど各部にふさわしい材の見立て、欄間の飾り彫りや、床がまちの木目の活かし方など、随所に落ち着いた意匠が見られます。

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 主屋と大広間棟は廊下でつながっています。

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 5年をかけて完成した池泉回遊式庭園です。

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 茶室兼書斎の三楽亭です。三楽とは孟子による「君子の三つの楽しみ」という考え方に由来します。6代当主が21歳で自ら設計し、明治24年(1891)に完成しました。正三角形11坪の数寄屋風書院で、水屋もあり、茶室としても使用されます。一つだけある円窓は、6代当主が瞑想を行ったとされています。

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 この花があちこちに咲いていました。ハナニラに似ていますが、6弁だからハナゼキショウでしょうか?

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 予約した「みそ蔵」でお昼をいただきました。このお部屋に私だけ。窓の外に古民家が見えます。

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 十数樽の大きな味噌桶が並んでいた土間は、別棟を併せ約240人を収容の大食堂「みそ蔵」となっています。

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 「みそ蔵」から見えたお庭は、八つ橋もどきの橋が架かっていて、カキツバタや古代ハスが植えられています。
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 池の奥に新潟県内の刈羽と吉ヶ平から移築した二軒の古民家が建っています。

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 吉ケ平から移築された古民家です。

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 刈羽の古民家は、約400年前にさかのぼる江戸時代初期の形がそのまま保存されている貴重な文化財です。

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 「板の間禁令」の制約で家長だけが板の間に住み、他の者は土間に藁を敷いて寝たというから驚きます。

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 これが家長の居間。

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 家長以外の者は、ここで寝ます。

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 来たときは藤に目が吸い寄せられて気が付かなかったのですが、入口付近の竹林に中世の石仏や石塔が集められていました。戦後の食糧危機を解消するための開墾事業で、廃寺の跡付近から出土した遺物の一部です。

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 西門と西門広場の金鎖(キバナフジ)。

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 隣接する大栄寺の前の石碑。慶長15年(1610)から77年間、沢海城と呼ばれる陣屋があり、11,000石のささやかな城下町として栄えました。その後、沢海は天領となり、代官所、続いて旗本小浜氏の知行所が置かれていましたが、明治2年(1869)の藩籍奉還によって武家社会は終わります。

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 曹洞宗の大栄寺。

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 博物館横の遊歩道。

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 はるかに阿賀野川。ここからバスで新潟駅前に戻り、「いなほ」で酒田に向かいました。指定席をとらなくても全く問題がないほど空いていました。































































新潟&酒田・・・①新潟市内

  一週間前は14度で長袖だったのが信じられない思いです。季節がなだらかに移ろっていくなどということはもうないのでしょうか。

 猛暑や極寒の季節以外は、月に一度は旅に出るのが習いとなりました。計画を立て、各種の予約を行い、資料を集める作業が楽しく、出かけて思い通りにことが運んだときは、達成感が味わえます。いつまで続けられるかわかりませんが、単調な日常のなかで、ささやかな目標があるのは、いいことだと思っています。

 今回は新潟と酒田を目的地に選びました。ずいぶん前に故人になった叔母が新潟に住んでいて、物資が極端に乏しかった幼いころ、新潟から届く小包は魔法の箱のように輝いていました。母が早世し、継母に亡母の縁戚との交流を禁じられてからは、「新潟」は遠い存在になり、この年になるまで一度も行っておりません。

 昨年、私にとっていちばん大事な友人のお孫さんが新潟のテレビ局のアナウンサーになって、報道番組を担当しているというのも、もう一つのモチベ―ションです。連休が終わった5月8日(火)に出かけたのですが、これが大失敗‼

 ラッシュアワーを避けて乗った「とき317号」は、お昼過ぎに新潟に着き、駅構内のホテルにまず荷物を預けたのは、いつものパターンです。新潟交通は「観光循環バス」を運行していて、1日乗車券は500円です。20分ほどで最初の目的地である北方文化博物館 新潟分館前に着きました。明治28年(1895)ごろの建築で、大正初期に新潟きっての大地主伊藤家の7代目伊藤文吉が新潟の別館として購入した建物です。昭和3年に増築された洋館で、歌人・美術史家・書家として名高い會津八一がその晩年を過ごしました。現在は博物館として、八一の書や資料、良寛の書を展示しています。 八一は伊藤家6代当主の弟九郎太とは中学・早稲田ともに2年後輩で、戦災で家を失って、困っていたとき、洋館を提供されます。庭園の一角に歌碑がありました。(写真はHPより)

 かすみたつ はまのまさこを ふみさくみ

   かゆき かくゆき おもふそわかする 

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  八一の歌碑は一昨年の大和路の旅でも見かけました。とりわけ法華寺の十一面観音菩薩立像を拝んで詠んだ歌を刻んだ歌碑は心惹かれます。

 ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に 
                           あひ みる ごとく あかき くちびる

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 洋館は撮影禁止でした(写真はHPより)

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 スタッフの方に詳しいお話が伺えて、會津八一に関する知識も格段に増え、ここまでは順調だったのですが、隣接する旧齋藤家別邸に行こうとして、最悪の情報を知りました。5月8日(火)は、振替休日の翌日なので、市が管理している施設は、すべて休館だそうです。呆然としていたら、スタッフの方が「ここだけは開いているかもしれない」と電話で確かめてくださったのが、敦井美術館です。

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 門を閉ざした旧齋藤家別邸は、大正時代に豪商齋藤家の4代斎藤喜重郎が別荘として建てたものです。砂丘地形を利用した 回遊式庭園と近代和風建築の秀作と言われる建物は、大正時代の新潟の繁栄ぶりを物語る文化遺産だと言われています。このあと行く予定だった北前船の時代館や歴史博物館も休館ですから、せっかく買った1日乗車券は役に立たず、勧められた駅前の美術館に行くしかありません。

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  新潟の実業家敦井榮吉翁が創設したこぢんまりとした美術館では、陶芸家寺池静人展が開かれていました。だれもいない館内で、これも何かのご縁とゆっくり拝見しました。↓は43点の出品作のうち2009年制作の「風薫る」です。

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 寺池静人は文化勲章受章者の楠部彌弌に師事し、師より「人間を作れ」との薫陶を受けて、日々精進を重ねて来た陶芸家です。初代館長の敦井榮吉翁は彼の人柄を愛でて、作品を求めました。このたび、寺池静人の初期の力強い作品から華麗でかつ爽やかな作風の近作まで、43点を一堂に展示いたします。(HPより)

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 新潟までやってきた理由の一つは、18時15分からのテレビ視聴です。トップニュースは、かわいそうな女児の話題でしたが、一週間たって、被疑者が逮捕され、少しはほっとしましたが、もう一つの事件はまだ解決していません。画面の美しい方が友人の孫娘さんです。もっといいニュースを聴きたかったのですが、残念なことの多い日でした。












ふじのくに・・・➁クレマチスの丘

 5月5日になりました。この日は、いつか行きたいと思っていた長泉町の文化複合施設・クレマチィスの丘に行く予定です。私の行動パターンでは、ゴールデンウィークは引きこもりですが、今年は異例。静岡から乗った熱海行の普通列車は、だんだん混みだして、ついにラッシュアワー状態。三島まで1時間を立ちっぱなしの憂き目を見なくてやれやれでした。三島駅前からクレマチスの丘までは無料のシャトルバスが1時間に1便出ていますが、発車20分前には長蛇の列ができていたので、できればこういう日は避けたほうが無難です。市街地を抜けて20分でクレマチスの丘に着きました。車窓から見える富士山の麗しさに本気で移住したいと思うほど。広い敷地は、クレマチスガーデン・エリアとビュフェ・エリアに分かれていて、30分置きに巡回バスが走っています。

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 チケットセンターで、ヴァンジ彫刻庭園美術館とベルナール・ビュフェ美術館の共通券を購入し、最初にヴァンジ彫刻庭園美術館に向かいました。

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 満員だったバスの乗客はどこに行ったのでしょう。ゆっくりと鑑賞できました。

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 ジュリアーノ・ヴァンジは、現代イタリアを代表する具象彫刻の巨匠です。1931年フィレンツェ近郊のバルベリーノ・ディ・ムジェロに生まれ、フィレンツェで学びました。ルネサンス以来の人間表現の伝統から逃れるため、1959年からブラジルに渡りますが、三年後イタリアに戻り、以来一貫して、人間の感情の複雑さを具体的なかたちによってあらわす、彼独自の彫刻の探求に専心します。1967年のストロッツィ宮殿の個展では、近代社会の人間が抱える閉塞感を鋭く表現し、同時代の人々の共感と喝采を得ました。 以後、イタリア国内で好評を博したヴァンジは、ヨーロッパのみならず日本やアメリカでも発表を重ねます。(HPより)

 いまはペーザロに住んでおられるそうで、それだけでもハイテンション。撮影可でしたが、上手に撮る自信がないので、HPから2作品を挙げておきました。ダイナミックで、しかも静かな雰囲気を醸し出す表現です。

 館内で4月22日から10月30日まで須田悦弘氏の「ミテクレマチス」という展覧会も催されています。本物と見間違えるほど精巧な花や草木の彫刻作品をインスタレーションと呼ばれる展示方法で発表している方ですが、朴の木から繊細に彫りだして彩色したクレマティスの花が思いがけない場所に配されています。

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 そのあと屋外の展示とクレマティスや薔薇を楽しみました。

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 巡回バスで5分、ビュフェ・エリアに来ました。お食事をするなら、クレマチスガーデンエリアがいいのですが、帰りのバスの混雑を顧慮して、美味しいランチは諦めました。正面がベルナール・ビュフェ美術館です。

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 ベルナール・ビュフェ美術館は、戦後の具象画壇を代表するフランスの画家ベルナール・ビュフェの作品を収蔵・展示するために、岡野喜一郎(1917-1995)によって1973年11月25日に創設されました。収蔵作品数は油彩画、水彩画、素描、版画、挿画本、ポスター等あわせて2000点を超え、世界一のビュフェコレクションを誇っています。

 最初に「ベルナール・ビュフェ再考 代表作から見るビュフェの半世紀」を拝見。ビュフェの作品をこれほどまとめて観たのは初めてです。敗戦後にビュフェの作品に触れて、この美術館を創った方の思いも含めて、濃密な時間を過ごしました。ビュフェの死の真相や岡野氏が頭取を務めた銀行にまつわる芳しくない情報など、俗っぽいお話を忘れさせる力作ぞろいです。

 次は「絵画と創造力 ベルナール・ビュフェと丸木位里・俊」。戦争によって傷ついた人々を描いたフランスと日本の画家を交錯させた展示です。船田玉樹の名前に久しぶりに出会いました。「原爆の図」は、1950年代に大きな反響を呼びましたが、これまで接する機会がありませんでした。

 大展示室は、2面にビュフェの大作、1面に「原爆の図」が展示されています。

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 お昼どきはお弁当持参のピクニックの方でいっぱいでした。美術館に入らなければ無料で楽しめます。

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 クレマチスの丘から歩くと、この吊り橋を渡ってきます。

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 ここから帰りのバスが出ます。このあと、また長蛇の列ができて、次のクレマチスの丘のバス停から乗ると、三島駅まで立たなければなりません。

 三島駅から新幹線に乗って、ぎっしりと内容の詰まった私のゴールデンウィークは終わりました。

ふじのくに・・・①せかい演劇祭

 鮮度が著しく落ちてしまって、いまさらなのですが、このブログはもっぱら自分のための備忘録ですから、やはりUPしておきます。

 連休後半の5月4日に1泊で静岡に向かいました。富士山がきれいです。

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 静岡から1駅戻って、東静岡の静岡芸術劇場で「シミュレクライム/私の幻影」を鑑賞。ふじのくにせかい演劇祭のレパートリーの一つです。

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 日本のフラメンコダンサーの小島章司とコンテンポラリーダンサーで歌舞伎舞踊を習っているダニエル・プロイエットによるデュエットは、夜の公演だけではもったいないからという不純な動機でチケットを買った罰で、なんだか違うなという思いが残ってしまいました。フラメンコも歌舞伎舞踊も好きなのですが・・・。あえて言えば、こういうふうに母への思いを語られると、居心地が悪いのです。

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 泊まったホテルは、徳川慶喜の旧居跡に建っていて、窓から系列店の料亭・浮月楼のお庭が見えます。徳川慶喜は大政奉還後の明治2年、もとの代官屋敷に手を入れて現在の浮月楼の庭を作り、20年にわたって住みました。その後は迎賓館として機能しますが、何度かの火災・戦災で、庭園以外は跡形もありません。

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 夜の部の駿府城公園内の紅葉山庭園前広場の野外特設会場で上演される「マハバーラタ~ナラ王の冒険~」は、一度は観たいと思っていました。

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 地理不案内で方向音痴ですから、バスで市民会館入口まで行って、歩きました。

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 古代インドの大叙事詩「マハバーラタ」のなかで、最も美しいロマンス「ナラ王物語」を演出家の宮城聰は、もしこの物語が平安時代の日本に伝わっていたら、当時の日本人たちはどんな絵巻物を描いただろう、という視点からスタートさせます。神々と人間が駆け巡る360度の大パノラマ舞台が観客席を取り巻いて、俳優たちの軽やかな動きと重厚な語り、打楽器の生演奏が魅了しました。七五調の美しい台詞があるかと思えば、現代風のギャグも交じり、芸術性と娯楽性がほどよく交錯する楽しい世界です。たまたま隣席の方が主要キャストのお身内で、貴重な情報と熱気をいただき、感謝。雨が降ったら辛いのですが、寒い風でマチェラータの野外オペラを思い出した程度で済みました。次回はもう少し保温を考えたほうがよさそうです。

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 隣席の方のお勧めで、徒歩でホテルに戻りました。





高野山と河内&京都の名刹・・・⑧高台寺・園徳院

  仁和寺の前から市バス59系統でで40分、四条京阪で207系統に乗り替えて、昨日も降りた東山安井で下車。当初のプランでは、仁和寺→建仁寺→高台寺の予定でしたが、19日は建仁寺は法堂以外は拝見できないとわかって、前日に駆け込みました。最終日が超ハードスケジュールにならなくて、結果的には、それでよかったと思います。

 バスを降りて、昨日とは逆の方向に向かいました。高台寺とはよく言ったもので、高台にあります。広い駐車場には、関東・東北地方の中学校名を貼ったタクシーが何台も停まっていました。京都のお寺はかなり行ったつもりでしたが、高台寺は初めてです。豊臣秀吉没後、その菩提を弔うため、秀吉の正室北政所(ねね、出家して高台院湖月尼)が慶長11年(1606)に開創します。高台寺の建立に際しては、徳川家康が財を惜しまず協力したとされています。人的な面では、京都所司代板倉勝重を普請奉行に、堀直政を普請掛、酒井忠世、土井利勝を造営御用掛に任じました。私事ですが、仕えていた最上家が改易され、浪人となっていた先祖を召し抱えてくださったのが土井様です。加藤清正は山門を移築し、福島正則、浅野長政など、錚々たる人たちが建立に携わり、伏見城から化粧御殿と前庭が移されて、寺観は壮麗を極めたそうですが、何度も火災に遭って、いまは、表門、開山堂、霊屋と茶室傘亭・時雨亭(いずれも重文)観月台等を残すだけとなってしまいました。北政所は寛永元年(1624)に77歳で亡くなるまで17年間をここで過ごします。

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 入口に向かう外国人観光客。

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 お茶室の遺芳庵は、非公開です。

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 方丈前庭。

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 観月台から開山堂へ。小堀遠州作庭の美しい庭園があります。

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 高台寺第一世三江紹益禅師を祀る開山堂。向かって右は臥龍池。

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 ここから化粧坂と呼ばれる石段を下ると園徳院に至ります。

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 高台寺の西側に、現在は「ねねの道」と呼ばれる小路を挟んで、高台寺の塔頭「園徳院」があります。北政所の兄の木下家定とその次男の利房が北政所を支えますが、園徳院は利房が木下家の菩提寺として寛永9年に開きました。

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 園徳院の唐門。上部の曲線になっている部分を破風といい、位の高い人を迎えるための門です。 唐破風の付いた門を総称して唐門と呼びます。

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 建物の内部は撮影禁止でした。

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 北庭は伏見城の庭園を移したもので、当時の原型をとどめる桃山時代の代表的庭園の一つです。

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 説明してくださった女性が、「長谷川等伯の襖絵がある。これは撮影可」と言われたので、撮ってみましたが、ガラスが反射して酷い写真になってしまいました。説明文に国宝の「松林図」と共通する作風などと書いてあって、それにしては気前よく写真を撮らせてくださると思っていました。東京に戻ってすぐ、東博に天野山金剛寺の屏風を見に行って、併せて「名作誕生ーつながる日本美術」を拝見したら、第四章に「松林図屏風」と並んで楽美術館蔵「山水松林架橋図襖」4面が展示されていて、園徳院で見たものとそっくりです。

 不思議なので、ちょっと調べてみました。「山水松林架橋図襖」は、もとは大徳寺三玄院にあった襖で、江戸末期に32面が圓徳院に移り、4面が楽家に移ったようです。三玄院が創建された天正17年(1589)、長谷川等伯51歳の時の作品とされていますが、襖絵を描きたいという依頼を三玄院の開祖春屋宗園和尚に断られていた等伯が、和尚の留守中に勝手に上がり込み、止める雲水たちを振り切って、一気に描き上げたという逸話が残っています。襖の唐紙は雲母刷りの胡粉桐文様で、絵を描くには不向きな紙質ですが、等伯はそれを逆手にとり、水をはじく桐紋を牡丹雪に見立て、雄大な冬景色を浮かび上がらせました。現在、園徳院にあるのは精巧な複製で、オリジナルは京博と等伯の生地である七尾市の美術館に寄託されています。

_h172pix_nanao HPより

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 園徳院の正門。木下家の屋敷になっていたので、長屋門の形態をとっています。

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 お昼は近くのお店で八坂の塔を見ながら湯葉料理をいただきました。

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 この界隈は、外国人観光客に大人気で、和服のレンタル店が並んでいます。中には振袖姿の方もいて、暑くないか心配になったほどです。

 三泊四日の旅は、天候に恵まれ、交通機関の遅延もなく、盛沢山のスケジュールを無事にこなせて感謝しています。






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高野山と河内&京都の名刹・・・⑦仁和寺

  1年ぶりに泊まった京都のホテルは、暗証番号を入力すると扉の開く大浴場ができていて、無駄歩きの疲れを癒すことができました。

 最終日の今日は最初に26番系統の市バスで仁和寺に向かいます。この時期、京都の町で目立つのは修学旅行の生徒さん。昨日も、タクシーの運転手さんに率いられてお寺を見学している中学生に会いましたが、タクシーでというのが主流のようです。仁和寺に向かうバスには、珍しく先生に引率された十数人の生徒さんが乗っていて、分厚いファイルを手に、40分の乗車時間にもかかわらず、空席があっても座ろうとしないのには感心しました。

 2018年の2月の展覧会を拝見してから、50年前に行った仁和寺にお参りしたいという気持ちが強くなりました。

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 展覧会の図録の表紙を飾る阿弥陀如来坐像(国宝)は、仁和4年(888)に仁和寺金堂に安置されました。

 仁和寺は、光孝天皇が西山御願寺として着工され、宇多天皇が先帝の遺志を継いで完成します。宇多天皇は退位後、出家して仁和寺に入られ、明治維新まで皇子皇孫が門跡となられたので、仁和寺は御室御所と呼ばれました。

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 バスで一緒だった生徒さんたちが御殿に入って行かれたので、先に境内を見学しました。

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 境内が広くて、中門が遠くに見えます。

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 中門の左側の御室桜は、京都ではいちばん遅咲きですから、例年ならまだ見られるはずですが、もう散ってしまっていました。

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 総高36,18mの五重塔(重文)は寛永21年(1644)の建立で、東寺の五重塔と同じように、上層から下層まで、各層の幅にあまり差がない姿が特徴的だそうです。北海道の千歳から来た中学生にシャッター押しを頼まれました。両手を頭の上にかざして塔の形で撮りたいようですが、4人なので四重塔になってしまいました。

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 仁和寺の本尊である阿弥陀如来坐像を安置していた金堂は、慶長年間(1596~1615)に造営された御所内裏紫宸殿を寛永年間(1624~44)に移築した宮殿建築を伝える貴重な建物です。現在、仏像は霊宝館に移されています。

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 金堂の東側に建つ経蔵(重文)は、江戸時代の寛永~正保年間に建立された禅宗様の建物です。

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 鐘楼(重文)は入母屋造で、本瓦葺です。 「鐘楼」の「楼」とは元来二階建ての建物を指します。階上は朱塗で高欄を周囲に廻らせ、下部は袴腰式と呼ばれる袴のような板張りの覆いが特徴的です。 通常は吊られた鐘は外から見ることが出来ますが、この鐘は周囲を板で覆われているので、見ることができません。

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 不動明王に水を掛けて祈願する事から、水掛不動と呼ばれています。 

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 弘法大師・開山寛平法皇・二世性信親王を安置する御影堂(重文)は、慶長年間(1596~1615)に造営された内裏紫宸殿を寛永年間(1624~44)に移築したものです。

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 大正2年(1913年)竣工した勅使門です。京都府技師であった亀岡末吉が設計しました。

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 本坊表門から御殿入口に向かいます。本坊表門は、安土桃山時代の建築で、京都御所の御台所門を移築したと伝えられています。

 仁和寺の御殿(本坊)は、宇多法皇の御所があった辺りに建つことから「旧御室御所」とも呼ばれ、白書院、宸殿、黒書院、霊明殿が渡り廊下で結ばれています。これらの建物は、明治20年(1887)に御殿が焼失したのちに再建されました。

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 大玄関から入ります。

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 白書院が面している庭は宸殿の南にあるので南庭と呼ばれています。

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 白書院と南庭。

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 渡り廊下で宸殿へ。

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 黒書院にきました。

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 宸殿の北側にあることから北庭と呼ばれ、南庭とは対照的な池泉式の庭園です。斜面を利用した滝組に池泉を配し、築山に飛濤亭、その奥には中門や五重塔を望む事ができます。庭の制作年代は不明ですが、元禄3年(1690)に加来道意、明治~大正期には七代目小川治兵衛によって整備され現在に至ります。

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 宸殿の内部です。

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 御殿のいちばん奥の霊明殿には歴代門跡のお位牌が安置されています。

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 本坊の奥に遼廓亭があります。仁和寺の門前にあった尾形光琳の屋敷から移築したと言われる茶室です。非公開で、拝観するには5人以上で往復はがきで申し込まないといけないので、無理。全体の意匠は織田有楽斎好みの「如庵」とも似ているそうです。

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 渡り廊下で大玄関に戻ってきました。

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 寛永18年(1641)に徳川家光が寄進した仁和寺正面の二王門は、平安時代の伝統を引く和様建築です。知恩院の三門、南禅寺の三門とともに京都三大門の一つに数えられますが、知恩院の三門、南禅寺の三門は、禅宗様です。二王門前のバス停から59系統の市バスに乗りました。

 仁和寺と聞くと思い出すのは、吉田兼好と崇徳上皇です。保元の乱に敗れて逃亡していた崇徳上皇は、仁和寺に入り、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼しますが、断られてしまいます。その後、武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐国に流されました。天皇や上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、約400年ぶりの出来事でした。










高野山と河内&京都の名刹・・・⑥建仁寺

  近鉄あべの橋駅からJR天王寺駅まで歩いて、環状線の外回りに乗りました。何十年ぶりでしょうか。なにもかもすっかり変わってしまって、19年勤めた学校も見当たりません。大阪で京都線に乗り換えて、京都でもう一カ所、欲張りました。プランを立てるときは明日行く予定でしたが、お寺のHPを見ると、4月19日は法要があって拝観できないことがわかり、繰り上げたのが、なぜかご縁のなかった京都最古の禅寺・建仁寺です。市バスの206系統は懸念したほど渋滞に巻き込まれませんでした。東山安井のバス停から徒歩5分です。

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 臨済宗建仁寺派の大本山で、開祖は栄西禅師です。2014年に栄西禅師の800年遠忌にあたって東博で開催された建仁寺展で、その詳細や所蔵される文化財は拝見しましたが、心惹かれる絵師の一人、長谷川等伯ゆかりの建仁寺に一度はお参りしたいと思っていました。

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 2014年の東博のチラシです。

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 2017年の京博のチラシです。初日に駆けつけました。

 受付から本坊に入り、示された順路に従って拝観しました。建仁2年(1202)の開創ですが、創建当初の建物はないようです。

 まずスリッパに履き替えて法堂へ。明和2年(1765)の建物で、天井には平成14年(2002)に創建800年を記念して小泉淳作画伯が描かれた「双龍図」があります。

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 外国から来てくださった方々に人気があったのは、法堂の周りで咲いている牡丹でした。

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 本坊に戻って方丈(重文)の襖絵と前庭の大雄苑を拝観。方丈は慶長4年(1599)安国寺恵瓊が安芸の安国寺から移築したものです。毛利家の外交僧として活躍し、豊臣秀吉によって大名に取り立てられた恵瓊は、建仁寺の再興に尽力した翌年、関ケ原の合戦に敗れ、西軍の首領の一人として処刑されました。方丈の襖絵を描いた海北友松との交友関係は、葉室麟氏の『墨龍賦』に書かれたとおりかどうかわかりません。友松が描いた「雲龍図」「花鳥図」「竹林七賢図」「琴棋書画図」「山水図」の精巧なレプリカは、撮影可です。本物は、昨年の4月に京博で開かれた「海北友松展」でしっかり拝見しました。

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 「琴棋書画図」ですが、うまく撮れていません。縁側から庭に下りました。

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 天正15年(1587)に豊臣秀吉が催した北野大茶会で利休の高弟・真如堂東洋紡長盛が担当した副席と伝えられています。立札の左にあるのが建仁寺垣です。

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 安国寺恵瓊の首塚。六条河原で処刑された恵瓊の首を建仁寺の僧侶が持ち帰り、ゆかりのある方丈裏に葬りました。

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 本坊中庭にある潮音庭。中央に三尊石、その東に座禅石、周りに紅葉を配した禅庭です。瑞々しい青葉に心が洗われます。

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 いちばん奥の大書院に俵屋宗達の「風神雷神図」の複製があります。

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 大書院の「達磨図」です。

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 小書院には染色画家の鳥羽美花氏が2014年に制作された襖絵があります。これはモノトーンの「凪」です。掛け軸の書は「〇△□」。

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 〇△□の庭。単純な図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を地(□)、水(〇)、火(△)で象徴しているそうです。写真が下手なので、意味不明になりました。

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 まだ余力と時間がありましたので、西門を出て建仁寺の北側に建つ正伝永源院を訪ねました。4月10日から5月6日まで特別公開されていると聞くと通り過ぎるわけにはいきません。

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 正伝永源院は、建仁寺の塔頭寺院の一つです。もとは正伝院と永源庵という別々の塔頭でした。正伝院は、鎌倉時代に開創されますが、その後、荒廃し、織田信長の弟・織田有楽斎長益が再興します。一方、永源庵は、建仁寺39世無涯和尚が南北朝時代に創建し、細川家の菩提寺となりますが、明治初年の廃仏毀釈の政策のため廃寺処分となってしまいます。そこに祇園にあった正伝院が移ってきて、のちに永源の名を受けつぎ、正伝永源院と改めます。釈迦如来を本尊とし、客殿・庫裡・鐘楼・唐門のほか、正門の左手に織田有樂斎らの墓があります。

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 キリシマツツジが満開でした。

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 お抹茶とお菓子が遅い昼食です。観心寺から道明寺、葛井寺、建仁寺と歩き回って、ここで時間切れとなりました。

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 平成25年(2013)に細川護熙氏が揮毫し奉納された24面の襖絵のうち桜を描いた8面が特別展示されていました。

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 狩野山楽が描いた「蓮鷺図」は、本来は客殿の襖絵でしたが、非公開でした。

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 正伝如庵は、平成8年に国宝の如庵とそっくりな名席として完成します。織田有楽斎が元和年間(17世紀初め)に正伝院内に造った茶亭・如庵は、明治の初めに正伝院が永源院の跡地に移ったのち、各地を転々として、いまは犬山の有楽苑に移されています。

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 境内の織田氏の墓。

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 建仁寺でも最も古い建築物の勅使門(重文)の前を通って、東山安井のバス停に行こうと思ったのに、迷子になってしまいました。無駄に歩いて、やっと出会ったのが京阪電車。五条京阪から東福寺、JR奈良線に乗り換えて京都駅前のホテルにたどり着きました。

高野山と河内&京都の名刹・・・⑤葛井寺

 近鉄電車で5分。藤井寺駅から迷うことなく商店街を抜けたところにある葛井寺に着きました。 

 葛井寺は、大阪府の中南部を東西に流れる大和川と支流の石川の合流点付近に位置しています。畿内で最も古く開けたこの地は、渡来系氏族がたくさん居住し、5世紀代には巨大古墳が築かれます。その後は、古墳にかかわって、有力氏族の寺院が多数建立されました。

 葛井寺を建立した葛井氏は、5世紀後半から6世紀半ばに朝鮮半島から渡来した一族の末裔で、奈良時代には多くの官僚を輩出します。その氏寺であった葛井寺は、永正7年(1510)の記録では、聖武天皇の勅願により、2㌔四方の境内に七堂伽藍を配置していたと書かれていますが、兵火による焼失や大地震などで荒廃します。しかしながら、観音の霊場として信者や権力者の協力で寺運が支えられて、今日にいたります。

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 商店街の通りに豊臣秀頼が建立した四脚門(重文)が建っています。

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 お寺の名にゆかりの藤はまだ満開とはいきませんが、優雅です。

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 今回、お参りしたお寺の中ではいちばん庶民的な雰囲気で、境内はご縁日の出店がひしめいていました。カボチャが2個300円。安いけど、重そう。終戦直後の押し売りの定番ゴム紐や松の実、ドライフルーツなど、ユニークなお店が並んで賑やかでした。

 拝観料を納めると、パンフレットとお餅をくださいました。毎月18日に御開帳がありますが、とくに4月18日は午後から大法要が行われ、お餅まきもあるそうです。本堂に入ると、長い行列。えっ、と思ったら、御朱印をいただく方々でした。ご本尊の千手千眼観音は、2月に1時間並んで東博で拝観しましたが、お堂の中のお姿は別の感慨を催します。

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 「天平の秘仏 葛井寺の国宝千手観音菩薩 ついに東京へ!」と書いてあります。江戸時代の出開帳以来、東京に来るのは初めてだそうです。

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 チラシでも観心寺の如意輪観音や道明寺の十一面観音よりも大きく扱われていました。

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 お堂の中で映像による詳しい解説を拝聴しました。寺伝によれば、神亀2年(725)に、聖武天皇の発願で、伝説的な仏師である稽文会・稽主勲が制作し、行基が開眼したと伝えています。頭上に十一面をいただき、胸の前で合掌する手と像の周りに半円形広がる脇手を1041の手を持ち、掌には目が描かれています。このお像は天平年間(729~749)後半の東大寺法華堂の諸像と作風が共通するので、法華堂諸像を制作した工房に所属する工人の作であろうと考えられています。前記展覧会の解説では、近年の研究成果によって、法華堂の建立が少し遡る可能性が高くなったことや奈良時代の千手観音の受容から天平時代の前半ごろとするのが穏当であろうと書いてありました。

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 葛井寺のHPに乗っていたお餅まきの光景です。雑踏に巻き込まれては危ないと思って、帰途につきましたが、門前で禅僧が用いる絡子(らくし)に似たものに高野山と書いた僧侶姿の男性が呪文を唱えながら三鈷のようなもので若い女性のからだを撫でまわしていました。誤解なら申し訳ありませんが、怪しい!

 

高野山と河内&京都の名刹・・・④道明寺

  河内長野駅は南海電車と近鉄電車のホームが並んでいます。近鉄南大阪線で26分、道明寺駅に着きました。余談ですが、たったいま(4月25日)、大和川の橋桁が傾いて、この区間が不通になったというニュースが流れて、胸をなでおろしました。旅につきもののリスクは、なぜか回避できています。これも観音様の霊験かしら。道明寺付近は巨大古墳の多いところです。体力があれば古墳めぐりもしたいところですが、もう無理かもしれません。

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 駅前に建つ大坂夏の陣道明寺合戦記念碑の前の「止まれ」と大書してある道を止まらずに進みます。記念碑の文字を書かれたのは道明寺の六条照瑞山主です。

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 商店街が尽きると、間もなく道明寺天満宮の石段に出会いますが、あとで行くことにして通り過ぎました。道明寺まで100mです。

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  道明寺天満宮と道明寺のつながりを簡単に整理しておきます。道明寺は7世紀中葉に土師氏の氏寺として建立された土師寺を起源とした尼寺です。 建立当初は現在の道明寺天満宮の南側参道付近に位置し、現在も塔心礎が残っています。 その後、戦国時代の戦火や江戸時代の石川の洪水による荒廃が原因で道明寺天満宮の境内地に移り、さらに明治時代の神仏分離令に よって現在地に移されました。

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 土師氏は、巨大古墳の点在するこの地を治めた渡来系の豪族で、 当初は土師器・埴輪の製作、墳墓の造営、葬送儀礼に関する労役に従事する「土師部」だったと思われます。今上天皇が公的な場で「桓武天皇の生母高野新笠は百済の武寧王の子孫」と言及されたのは有名な話ですが、高野新笠の母方は土師氏です。

 延喜元年(901)に大宰府に左遷されることになった菅原道真は土師氏の後裔で、土師寺に入寺していた叔母(伯母という説もあります)の覚寿尼を訪ねて別れを惜しんだという逸話は、歌舞伎や浄瑠璃で広く知られています。先年、片岡仁左衛門丈が「菅原伝授手習鑑」の「道明寺」の段で演じられた菅丞相の神々しいお姿は、いまも忘れられません。菅原道真が亡くなったあと、土師寺は、その号をとって道明寺と改められました。

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 門前に着きました。参道の両側は梅の木が植えられています。

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 堂々たる山門から境内に入ります。


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 ご本尊の十一面観音立像(国宝)は毎月18日と25日に拝観することができます。18日は観音様の縁日、25日は菅原道真の誕生日だからでしょう。

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 何はともあれ、お堂にあがって、十一面観音を拝観しました。1月16日から3月11日まで東博で開かれていた「仁和寺と御室派のみほとけ」で近々と拝ませていただきましたが、本来おられる場所でもと思っていました。厨子の中に入っていて、あたりが暗いので、東博のようにくっきりと、とはいきませんが、地元の方々が信仰の対象として大切にお守りしている姿は、胸が熱くなります。
 ご本尊の十一面観音菩薩立像は、像高1メートル、檜の一本造です。表面は、彩色や漆箔にせず、頭髪、眼、唇等にわずかに絵具を挿しただけで、あとは木肌のまま仕上げた檀像彫刻です。 頭上に十一面を頂き、胸を張り、両足を揃えて蓮花座上に直立する姿は、均整のとれた体躯と相まって温雅端正な形と姿を作り上げています。お顔はふくよかで、しかも威厳があり、両眼には黒い石をはめ込んで生気のある眼を作り出しています。 肩から腕や腰にかかる天衣の緩やかな曲線や、腕を覆う天衣の柔らかな丸み、指のふくよかな肉付きは、檀像彫刻の技巧の妙味を感ずるとともに、厳しさが和らぎ、日本的な造形美をも感じさせてくれます。製作年代は、道真の生存年代と推定されています。

 4月24日に天野山金剛寺の「日月山水図屏風」を見るため東博に行き、特別展「名作誕生 つながる日本美術」」も拝見しましたら、第一章「祈りをつなぐ」のセクションに、道明寺のもう一つの十一面観音(試みの観音)がお出ましでした。檜の一木造の十一面観音立像は、ご本尊の十一面観音立像に先だって作られた試作の像で、お寺では道真が自ら作られたと伝えています。このお像は普段は滅多に御開帳がないそうで、ありがたいチャンスです。

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 奥の中門に六条照瑞という表札が掛かっていました。道明寺は公家の息女が最高の地位である山主となり、御前様と呼ばれています。婦人雑誌の載った写真は数年前に撮られたものですが、90歳を超えられたいまもお美しく、お元気だそうです。

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 本堂の前で道明寺餅を売っていました。2個で250円です。関西で桜餅と呼んでいるお菓子を関東では道明寺と言っていますが、本家・道明寺餅はそれとも違います。

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 境内で華道の屋外展が開かれていました。

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 ご縁日なのに、境内は静かでした。

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 帰りに道明寺天満宮に寄ってみました。正面の階段を上がると門前の左側に「土師窯跡」の石碑があります。『日本書紀』には、土師氏の祖先の野見宿禰は、垂仁天皇のとき、生きた人間に代えて埴輪を墳墓に埋めるように進言し、その功により土師の姓とこの地を与えられたと書いてありますが、古墳時代に殉死の痕跡は認められないというのが通説ですから、あくまでも伝説だと思います。

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 文化12年(1815)に造られた大阪府でいちばん古い能舞台だそうです。

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 天満宮の石段脇に道真が滞在したとき水を汲んだという井戸と平成29年に造った登り窯の複製が並んでいて、なんとも・・・。

 道明寺駅から葛井寺駅は5分です。

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